79.二度目の婚約
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ウォーレンが自分と同じ勘違いをしていることに気が付いて、なんと言ったものか一瞬迷ったものの、この話にそもそもあまりいい感情を抱いていないアリアを思い出す。
この状態でエレノアたちと共にアリアが現れて、ウォーレンが彼女に丁重にお断りなどしたら、手が付けられないほどこじれることになるのは明らかだ。
誤解は今、この瞬間に解いておかなければならない。
「あの! 私です!」
「え?」
「私が、その、今日のお見合いの相手で……私もまさか、ウォーレンさんが来るとは思わなくて、護衛で来ているのかなって最初は思いました!」
ウォーレンはぽかんとしたあと、右手に持っていたカップをぽろりと落とす。
「あっ」
繊細な陶器のカップがテーブルに叩きつけられて砕けるかと息を呑んだのに、その前にウォーレンは左手でさっ、とカップの底を包み込むように受け止めていた。
左手の動きは素早すぎて、見えないくらいだったのに、カップは無事ウォーレンの手にあり、そっとソーサーに戻される。
「すみません、指がすべって」
「いえ……すごい反射神経ですね」
ウォーレンは自分がカップを取り落としたことに、オーレリアはそれを逆の手で宙でキャッチしたことに、それぞれぽかんとしたけれど、それも長く続かず、ふっ、と空気が緩んだ。
「腕が動くの、全然見えませんでした!」
「ダンジョンでは死角から小型の魔物が襲い掛かってくることもあるので、自然と手が動くものに反応するようになるんです。よかった、エレノアさんのお気に入りのティーカップを割ったなんて、対価に何を要求されるかと思うと、肝が冷えました」
自身も貴族なのだろうウォーレンがそう言うくらいだ、やはり相当に、高価なカップなのだろう。そう思うとまだ紅茶が半分ほど残っているカップを持ち上げるのが怖くなってしまう。
「あの、オーレリアさんが、エレノアさんの紹介してくれると言っていた女性なんですか?」
「はい。私も、相手は婚約者を探している貴族の男性としか聞いていなかったんです」
「俺は、相手は事業の準備中の新進気鋭の優秀な付与術師だと聞いていました。その、オーレリアさんは図書館でアルバイトをしていましたよね?」
「付与術師として本に【保存】の付与をしていたんです。私設図書館は特に、【保存】を掛ける付与術師に困っているという話だったので。今日同行している友人とも、そこで出会いました」
まだ十分に状況を飲み込み切れていないらしく、ウォーレンは額に手を当てて緑の瞳を見開き、まじまじとオーレリアを見ていた。
「相手は王都で広く広まる予定の新規事業の準備をしていて、この先王都の商業を根底から覆していく可能性の高いとても有望な人だと聞いていたので、てっきり昔のエレノアさんみたいな、剣の代わりにペンで森を切り拓いていくようなこわ……いえ、すごい人が来るのだとばかり、思っていました」
確かに、そう言われて古いワンピースを身に着けおさげを下げていたオーレリアの姿が思い浮かぶ人はいないだろう。
エレノアがウォーレンに「お見合い相手」をどう伝えていたのかにも驚くし、ウォーレンのエレノアに対する印象も気になるけれど、そんな相手と形ばかりとはいえ婚約する気があったウォーレンの追い詰められ方も心配になるところである。
「私は、たまたまいい出会いが重なっただけでそれほど大した人間ではないんです。たくさんの人が助けてくれましたし、いい縁にも恵まれて――」
言いかけて、くすりと笑ったオーレリアに、ウォーレンはまだ動揺を抜け出しきれていない様子で首を傾げる。
「私、今「黄金の麦穂」の拠点で暮らしているんです」
「え!? あの、ジーナとジェシカが住んでいる家ですか?」
思えば、あれも複雑な縁によってオーレリアが得たもののひとつだ。
かいつまんで事情を話すと、ライアンに絡まれたところでウォーレンは頭を抱えてしまった。
「あいつ……オーレリアさんはそんな人じゃないってしつこく言っておいたのに」
「その時には、もう初対面の時とは違ってお化粧をしたり、流行の服を身に着けていたので、誤解されてしまったんです。それについてはきちんと謝罪してもらったので、遺恨もないですよ」
「……ライアンとは、子供の頃から兄弟みたいに育ったのと、俺が実家のごたごたに巻き込まれた関係で一時期誰とも関わらないという態度をとっていたので、変に過保護になっているところがあるんです。オーレリアさんには、本当に申し訳ないことをしました」
「いえ! むしろその後助けてもらった部分の方がずっと大きいので!」
そこから、元婚約者に困らされているという部分でウォーレンは眉間に深く皺を寄せ、アルフレッドが間に入ってくれて事なきを得たことに安堵の表情を見せて、今は護衛としてジーナとジェシカと一緒に暮らしていると言うところに笑ってくれた。
「あの二人、全然料理できないんですけど、オーレリアさんに迷惑をかけていませんか?」
「いえ、むしろ私は籠って仕事をしてばかりなので、適度にお茶に誘ってくれたり屋台で食事を買ってきてくれて一緒に食べたり、楽しく過ごしています」
「いいなぁ、俺もまざりたい……」
その声がやけにしみじみとしていて、少し寂し気で、胸が痛む。
ウォーレンが仲間に累が及ばないよう外出も制限されている間に、色々なことが変わってしまっている。あの拠点だって、彼にとっては馴染みの深い思い出のある場所だったはずだ。
「まざればいいですよ。いつでも来てください。私は大抵そこにいますし、ジーナさんもジェシカさんも一緒ですから」
「でも、もうあそこは黄金の麦穂の拠点ではないわけだし、俺が顔を出したら、オーレリアさんにも迷惑がかかるよ」
「迷惑なんてことないです。黄金の麦穂の皆さんも呼んで、テーブルに料理を並べて、ワインとビールで乾杯しましょう。私も友人を呼びますから」
「いいね、それ、すごく楽しそうだ」
ずっと混乱していた様子のウォーレンの頬が緩み、ほんの少し、赤くなっている。
「オーレリアさん、すごく綺麗になったけど、その……今でも、恋人とか、付き合っている人は」
「いません。いたら、お見合いなんてしません。これは、みすぼらしい格好をしていると事業を進める上で信頼も得られないからという理由が大きいので」
「うん。……エレノアさんからは、相手には貴族の後見がついてはいるけど独身の女性で、もっと私的に口を挟める、できればそれなりに身分のある相手が望ましいって言われていたから」
「面倒ですよね。私は友人と、必要とされるものを売っていきたいと思っているだけなのに、女性ひとりでは、絶対に横槍が入ると言われてしまいました」
「エレノアさんは、そういう厳しさには、きっと誰よりも詳しいんだ。そういうのを物ともせずに切り拓いてきたみたいに見えるけど、やっぱり、相応の苦労はあったんだと思う」
エレノアほどの女性でもそうなのだ。我ながら気が強くないという自覚があるオーレリアなど、もっと色々な思いをすることになるのだろう。
ウォーレンは迷うように黙り込み、それからすっと立ち上がると、テーブルを回りこみ、オーレリアの座る椅子の傍で膝を突いた。
「ウォーレンさん?」
さあっ、と風が吹いて、咲き乱れる薔薇の花弁が揺れる。
この庭に案内された時からずっと綺麗だったのに、今はその花弁の一枚一枚が、より鮮やかに見える気がして、いつか、似たようなことを思ったのを思い出す。
あれは、夏だった。ウォーレンと出かけて、お腹いっぱいになるまで屋台巡りをして、流れる水路に素足を浸けた日だ。
王都は水が豊かで、あちこちに水路や疎水が流れていて、オーレリアも見慣れていたはずなのに、あの日は跳ねるしずくのひとつすら、やけに輝いて見えた。
「オーレリアさん。俺は問題だらけの男で、知っている通り、情けない部分もたくさんあります。今も父親と対決することもできず、逃げ回るように婚約者を探しているような奴で……。オーレリアさんに、こんなことを申し込む資格はないかもしれない」
でも、と緑の瞳は、強い意志をもって、オーレリアを見つめていた。
「身分だけはあるし、オーレリアさんを煩わせるものから守ることはできると思います。家のことも解決する努力をするし、その、オーレリアさんが婚約しているのが嫌になったら、いつでも解消して構わない。だから、他の誰かより、俺を君の婚約者にしてほしい」
「ウォーレンさん……」
ウォーレンに問題があるとは思っていない。彼自身は義理堅く優しくて誠実で、気持ちのいい人だ。
家のことは彼の責任ではないし、むしろ仲間や慣れた仕事から引き離されて、辛い思いをしているのはウォーレンの方だろう。
婚約者がいるからという理由で望まない結婚から逃げる口実を失くした時、彼はどうするのだろう。
他に想う人がいるという相手と結婚して、次代の政略結婚の道具にするために子供を作るなんてウォーレンには似合わないし、彼をひどく傷つけることになるはずだ。
――今でも、傷だらけの人なのに。
最初の婚約は、先の見えない不安ばかりだった。
二度目もそうなるとは思っていなかったけれど、その道行きも、ウォーレンとならば、進んでいける気がする。
「はい」
だから、返事に迷うことはなかった。ウォーレンが勢いよく顔を上げて、見開いた緑の瞳に、気恥ずかしく笑みを向ける。
「私こそ、足りないところも至らないところもたくさんある問題だらけだと思いますが――私でよければ、よろしくお願いします」




