76.秋の夜と不運と幸運
夜風が少し冷たくて、アリアの静かな声がよく聞こえる。
知り合ってからようやく半年が過ぎた程度だけれど、アリアの人となりについては知っているつもりだ。普段は見せない、おそらくアリアが隠しておきたかったのだろう気持ちを見せられても、今更彼女を嫌ったりしない。
けれど、オーレリアにとって当たり前のそれが、アリアにとっては当たり前でないのは、納得できる話でもある。じっとアリアを見つめると、珍しく彼女の方から視線を外されてしまう。
「ウィンハルト家前当主――私の祖父は、私が物心ついた時には父に当主の座を譲り第一線を退いていましたが、王都では有名な事業家でもありました。私は子供の頃から、祖父の隣に座って、商売の話を聞くのが好きで――祖父がよく言っていたんです。商機を読むのは人の心を読むのと同じだと」
「人の心を、ですか?」
「景気って、案外人の心で動くんですよ。たとえばナプキンは、現在はそれなりに余裕のある人が買う便利なものという位置付けですが、女性にとって今後必需品となっていくでしょう。人口の半分は女性で、女性の生涯の大半に必要とされる商品。商売に慣れている人ほど、この商品に懸ける「期待」も大きくなっていきます」
アリアは口元を笑みの形にして、再び、空を見上げた。
秋の夜はよく晴れていて、星がまたたいている。前世で見た夜空より、ずっと細かい星がよく見えた。
「コットンの仕入れ、縫製するためのお針子や工場の誘致、それを運ぶ荷運びや流通の確保、仕入れと売価による利鞘はどれくらいになるか。事業が拡大するほど関わる人間が増えて、その間でやり取りされる金額も膨らんでいきます。そのどこに参入し、どうやって稼ぐかが、商人の腕の見せどころなんです」
オーレリアとアリアは生産の中心にいるけれど、事業が上手くいけばコットンの需要の全体に影響し、生産数が増えればお針子の数が必要になってくる。現在王都の内部でのみ流通しているナプキンを各都市に運搬する役割も出てくるだろう。
そうした需要が関わっている材料や関連事業の相場を動かすのだというアリアの声は、僅かに弾んでいる。
「アリアは、本当に商売が好きなんですね」
「――そうですね。でも、高等学院を卒業後は商売に身を投じるつもりだったのに、婚約破棄ですっかり自信を無くしてしまったんです。だって、共に商売をしていく相手だったはずの婚約者の心すら読めていない私が、もっと大きくて複雑な相場を読むことなんてできないのではないかって思ってしまって」
バルコニーの手すりを握り、アリアは小さく首を振った。
「司書になったのは、元々本が好きだったということもあるけれど、商売から逃げていたんです。司書の仕事は楽しかったし、決して嫌々やっていたわけではありませんが――」
アリアはオーレリアのパートナーになり、事業の準備を始めた頃からああしたい、こうしよう、宣伝してくると精力的に動き回り、ずっと楽しそうだった。
きっと、アリアのしたかったことは最初から、そうしたことだったのだろう。
「オーレリアと出会って、人となりを知るほどに、私にはオーレリアがとても眩しく見えました。オーレリアに「期待」したんです。オーレリアは公共の利益のために働けて、人のためになる物を作り、丁寧で誠実で優秀な付与術師でした。お祖父様がよく言っていたんです。人のためになる商品を扱える商人は強いんだって。でもオーレリアは全然私欲を感じない人で、このままでは、その能力を誰かにいいように利用されるようになってしまうのではないかと心配で――オーレリアにない商売っ気を私が補って、私に足りない部分をオーレリアに補ってもらえれば、私は先に進めるのでは、ないかと」
「アリア」
「オーレリアを利用しようとする人を許せないって思うくせに、本当は、私が一番、あなたを……」
「アリア」
二度、名前を呼んで言葉を止める。
アリアの言葉を遮るようなことはしたくないけれど、言いたくないことまで勢いに任せて言わなくても構わない。
「アリア、私、アリアに出会えてよかったです」
「オーレリア?」
「婚約を破棄された時、呆然としました。王都に知り合いなんて一人もいなくて、手持ちのお金も半月なんとか食べていけるかどうかってところで、その夜寝る場所の当てすらなくて。不安で、怖かったんです」
あの日のことは、今でも時々、夢に見る。
もし道行く人に鷹のくちばし亭を勧めてもらえていなかったら。
あの日、スーザンに冷蔵樽の修理を依頼されていなかったら。
鷹のくちばし亭のお客さんに【保存】の付与の仕事の紹介をしてもらえていなかったら。
司書たちが、次々と職場を紹介してくれなかったら。
なにか一つ違っていただけでも、きっと今、隣にアリアはいなかっただろう。
ひとつひとつは不運だったり運がよかったりしても、偶然の連なりだった。
その連なりの結果、今隣に大事な友達がいる。
それはウォーレンとの出会いもそうだ。引っ込み思案で自信がなかった東部にいた頃の自分ならば、裏路地にうずくまっている人に声を掛けるなんて、きっとできなかった。
それが巡り巡って、不動産が高騰する王都で今の拠点を手に入れることにつながった。
偶然と幸運と不運は交互に重なって、今のオーレリアにつながっている。
「右も左も分からなかったあの日も、怖い思いをしたことも、もう全部チャラでいいです。アリアに出会えたんですから、お釣りがくるくらいです。きっとこの先もそうですよ。今少し困ったことが起きても、最後にあの時はあれでよかったんだって、思える日がくればそれで」
アリアはぐっと唇を引き結び、細い肩を震わせて、両手で顔を覆ってしまう。
意外と気が強くて気丈なアリアは、きっと気弱な表情を自分には見せたくないだろう。だからオーレリアは、天上を仰ぐ。
月が出ていなくてよかった。
あまり明るくないほうが、こんな夜には相応しい気がするから。
「わ、私も」
夜の風がさらに一段冷たくなった頃、アリアが震える声で言った。
「オーレリアに出会えてよかった。迷って、自信をなくして、立ち止まって、遠回りしたとしても、あなたに会えたから、それで、お釣りがきます」
「――はい」
それから少しして、冷えましたねと笑い合い、部屋に戻って温かいホットチョコレートを用意してもらい、二人で向かい合って飲んだ。
カップの中身は甘く、そして少しだけほろ苦かった。




