67.始まりの場所とひとり立ち
66話を更新ミスしていたため、本日二回更新しています。
「そうかい、住む場所が決まったんだね」
鷹のくちばし亭のおかみさんであるスーザンは、よかったねえとしみじみとしたように言った。
昼食時のピークが終わり、食堂は他に客もおらず閑散としている。スーザンの息子のロジャーは拗ねたように頬を赤くして唇を尖らせ、スーザンの隣の席に座っている。
まだ赤ん坊の娘のジェニファーは、今日も籠の中ですやすやと寝息を立てていた。
「急な話ですみません。それと、こんなに長くお世話になって、ありがとうございました」
そう告げて、用意しておいた封筒をそっとテーブルに載せる。
「あの、来月までの宿代と、昼食代です。来月末まで部屋を使わせてもらう話だったので」
鷹のくちばし亭は宿泊費は前払いなので、今月分はすでに支払ってあるが、来月分はまだだった。それに、失礼にならない程度に色をつけた金額が封筒の中には入っている。
「馬鹿だね、水臭いこと言うんじゃないよ。今の王都は泊り客には困らないんだ。あんたの荷物を片付けたら、今日の夜にだって泊めてくれって客は来るんだから、そんなことを気にするんじゃないよ」
「でも、今王都の宿代は高騰しているのに、ずっと最初の値段で滞在させてもらっていましたし」
オーレリアが王都に来た春先と今とでは、周辺の宿代は三倍か、それ以上に膨れ上がっていると聞いている。
それでも部屋が足りずに断られることもあるらしい。
王都の物件がどれほど高騰しているかは、拠点を探していたオーレリアにもよく分かっているつもりだ。
最初の頃は本当にお金がなかったけれど、図書館での仕事やナプキンとエアコンの臨時収入が大きかったため、今のオーレリアは当面のお金に困っていない。スーザンにも途中で宿泊費の増額を申し出たけれど、それも水臭いことを言うなと受けてもらえなかった。
田舎から出てきたばかりの右も左も分からなかったオーレリアに、唯一できる付与の仕事をくれて、住む場所と食事をくれたのはスーザンだった。
生活が安定してきても、あんたは痩せすぎだよと言って、何かと食事の面倒を見てくれた。あの日彼女と出会えなければ、きっと今の自分はいなかっただろう。
お金を渡すやり方をスーザンが受け入れがたいのは判っていたし、他人行儀な別れにしたくないと思うのに、他にどう感謝の気持ちを形にすればいいのか分からない。
「私、スーザンさんにすごく感謝してるんです。冗談じゃなく、命の恩人だって思っています。どんな形でだって恩を返したいです。でも、今私に渡せるのは、こんなものしかなくて、だから」
気持ちをどう伝えようかもどかしく言葉にしていると、どん、と腰の辺りに鈍い衝撃が走る。驚いて見下ろすと、いつの間にか椅子から降りたロジャーが、オーレリアの腰にしがみついていた。
「ロジャー君?」
「やだ、出てっちゃやだ!」
そう言った途端、ふえぇ、と気の抜けたような声が漏れて、堰を切ったようにロジャーのくりくりとした目から涙があふれだした。
「やだ! オーレリアちゃん! やだ! ずっといて!」
小さな手でスカートにぎゅっとしがみつかれて頭をぐりぐりと押し付けられる。こらっ、とスーザンが声を掛けるとその手にますます力が入った。
「ほら、こっちおいで。オーレリアを困らせるんじゃないよ」
スーザンが立ち上がり、ロジャーを抱きあげようとするもののスカートを離してくれないためにふくらはぎのあたりまでまくり上がってしまう。困った顔をするスーザンに笑って、腕を伸ばしてロジャーを受け取り、膝に抱いた。
「ロジャー君。鷹のくちばし亭からは出ていくけど、遊びにくるよ」
「やだ!」
「またお芋の皮を剥いたり、豆を剥いたりしようね」
「やーだー!」
もはや自分が何を嫌だと言っているのかも分かっていない様子だった。ロジャーはまだ五歳だ。小さな子供の癇癪を宥めるよう、背中をぽんぽんと叩く。
「客が出ていくのには慣れているはずなのに、オーレリアには懐いていたからねえ。しばらく泣かせといたら、寝ると思うからそうしておいてくれるかい」
「はい」
「寝ない! やだ!」
「ロジャー君……」
オーレリアの滞在は半年以上に及び、その間時間があれば一緒に鷹のくちばし亭の手伝いをすることもあった。
手をつないで買い物にいったことも、スーザンが熱を出したジェニファーの世話をしている時は二人で昼食を食べたこともある。幼くも人見知りのないロジャーはオーレリアによく懐いてくれたし、子供の距離感はオーレリアも安心して受け入れることができた。
スーザンとは少し違った意味で、彼もオーレリアにとっては大切な相手だ。
しゃくりあげながら泣き続けるロジャーの背中を撫でていると、スーザンは厨房に入り、飲み物を三つ作って持ってきてくれた。カップの中身はしゅわしゅわと泡立っていて、ほら、とロジャーにも声を掛ける。
「シロップのソーダ割だよ」
ロジャーはしゃくりあげながら、オーレリアにしがみついたままぶんぶんと首を横に振った。甘くておいしいシロップのソーダ割はロジャーも大好物のはずなのに、今はその誘惑も退けてしまうらしい。
「オーレリアもどうぞ」
「いただきます。――あ、これ」
甘みと酸味が混じり合い、爽やかな香りがすっと鼻に抜ける。
オーレリアが鷹のくちばし亭に来た最初の夜に、スーザンが出してくれたエルダーフラワーのシロップのソーダ割だった。
鷹のくちばし亭のアレンジであるレモン果汁の入った、定番の味である。
「オーレリア、あんたは王都から出ていくわけじゃないし、別にこれが今生の別れってわけじゃないだろう?」
「それは勿論です!」
「これから忙しくなるだろうけど、たまにはあたしらに会いに来てくれると嬉しいよ」
「勿論、迷惑じゃなければ、いつでも来ます」
「うん、だからさ、それでいいよ。娘っていうには年が近すぎるけど、あたしはあんたのこと、危なっかしいけど頼りになる妹みたいに思ってる。あんたがロジャーと遊んでくれたのも、ジェニファーにおむつやあせもができない服を作ってくれたのも、嬉しかったよ」
鷹のくちばし亭の……ホーク家との付き合いは、ただの宿泊客と経営者のそれとは違って、距離の近いものだった。
家族というには少し違っても、スーザンのことは頼りにしていたしロジャーやジェニファーは素直に可愛かった。
「ひとり立ちは寂しいけどね、たった半年でこんなに綺麗になって、立派に王都でやっていこうとしてるなんて大したもんじゃないかって誇らしくもあるんだ」
「スーザンさん……」
「だから、実家に顔を出すような気持ちで、時々遊びに来ておくれ。実家に世話になった代金を払うなんておかしいだろう? 時々、こんなことがあった、嬉しかった、腹が立ったって報告にきてくれれば、それで充分さ」
「……っ、はい」
幼い頃から暮らしていた東部の叔父の家を出る時だって、安堵ともう戻れないという不安はあっても、寂しいとは思わなかった。
名残惜しく、別れが寂しい。そう思えるのはこの場所が初めてだった。
こんな別れ方をしたくなかった。もっと別の形で笑い合いながら住まいが決まったんですと報告したかった。
じわり、とオーレリアの水色の瞳に涙がにじむ。
いっそ、ロジャーのようにわんわんと声を上げて泣きたいくらいだ。
「部屋を片付けたら、夕飯はうちで食べておいき。いつもと変わらない、最高に美味しい食事を作るからね」
「はい!」
ああ。
この人に会えて、本当によかった。
ここで過ごすことができて、本当によかった。
王都に来て住む場所もお金もなくて、自信がなくおどおどとするばかりで春を売りにいくのではないかと心配してくれたスーザンに、ここを出た後も誇れる生き方をしていきたいと、自然と思う。
ぎゅっとロジャーを抱きしめて、微笑んだ。
「私、たくさん会いに来ます。そのたびにいい報告ができるように、うんと頑張ります」
「ま、働き者で気がいいあんたなら大丈夫だよ。あと気を付けるのは、頑張りすぎないことさ」
「ふ、ふふっ」
「あっはっは!」
笑い合って、泣き疲れてうとうとし始めたロジャーをスーザンに渡し、住み慣れた部屋に戻る。
元々狭い部屋なので、買い足した服以外は大した荷物もない。必要なものは木箱や鞄に詰めて、後でアリアが手配してくれた人足が拠点に運んでくれることになっている。
それでも、壁に掛けた服や机に置いておいた何冊かの本、メモに使っていたノートや貰い物のお菓子の箱を全部詰めてしまうと、住み慣れた部屋は思ったより広く感じてしまい、しんみりとした。
一人で片付けたので、終わる頃には窓の外は薄暗くなりはじめて、遠くにうっすら光るダンジョンの塔が見えた。
新しい拠点は中央区寄りなので、塔はすっかり遠くなってしまう。すっかり見慣れた夜の塔を眺めて、感謝と寂しさを胸に、オーレリアは鷹のくちばし亭の307号室を後にしたのだった。




