64.ウィンハルト家の馬と報い
冒険者ギルドの裏には小規模だが厩舎があり、ギルドの職員に案内されて足を踏み入れる。中は塔結石を使ったライトが等間隔に設えられていて明るく、馬を管理する専用の職員もいて、きちんと管理されている様子だった。
王都の冒険者は乗合馬車でダンジョンに移動するので騎乗する人は少ないものの、来客用に厩舎が用意されているのだという。道が整備されていて、定期馬車とトラムが発達している王都では厩舎が備わっているのはよほど大きな建物か大店くらいのものだけれど、ダンジョンのない地方の都市なら個人経営の宿屋や酒場でも、小規模な厩があるのはまだまだ珍しくない。
オーレリアも王都に来るまでの道程で立ち寄った町や村で、よく見かけたものだ。
「この子がスピカです。三歳になるメスで、ちょうど今日領地から到着したばかりなんですよ。オーレリアから電話を貰った時、まだ鞍を外していなかったので飛び乗って来てしまいました」
「とても、綺麗な馬ですね」
一瞬白馬かと思ったけれど、よく見るとうっすらと灰色掛かっていて、光沢のある被毛が光の加減で銀色にも見える。脚はすらりと伸びて胴はしっかりと丸く、馬のことはよく分からないオーレリアから見ても、そうとわかるくらい美しい馬だった。
アリアが撫でると自分の名前が分かるらしく、スピカは鼻先をアリアに向けてすりすりと顔をこすりつけている。
「この子は芦毛ですが、これだけ全身にムラのない色合いはとても珍しくて、ここ数年で一番美しいと言われている子なんです。おまけにとても賢くて、気性も穏やか。ウィンハルト家の宝ですね」
とても優れた馬なので、別の家の駿馬と、相性がよければ繁殖をという話になったのだという。馬は一年に一頭しか子供を産まないので、ウィンハルト家で世話をしながら数年は王都に滞在することになるらしい。
その馬で、アリアは中央区の屋敷から冒険者ギルドまで駆け抜けてきたのだという。
時々荷物を積んだ馬がゆっくりとした歩調で歩いているのは見かけるし、騎兵とよばれる馬で移動する機動力の高い兵士が巡回しているのも見かけるけれど、全力疾走はさすがに見たことがない。
そもそも、王都はそれなりに人口密度が高いのだ。車道という概念もないので、馬を走らせること自体がそれなりに危険を伴うものである。
「勿論トップスピードで走ったりはしませんよ。人の少ない川沿いの道を使って少し大回りしましたし」
というのがアリアの言葉だけれど、応接室に飛び込んできた時の髪の乱れようを見ると、それなりに飛ばしたのではないだろうか。
「私は子供の頃から馬に乗っているので、自分の脚で走るより馬を走らせるほうが得意なくらいなんですよ。子供の頃はよくお姉様と競争したものです。よければ今度、オーレリアも乗ってみますか?」
オーレリアが心配したのが分かるのだろう、アリアは明るく笑ってそんなことを言う。
「私、馬車はともかく騎乗はしたことがなくて」
「教えますよ。商売が軌道に乗ったら休暇を取って、保養地に遊びに行きましょう。スケッチしたり、湖で魚を釣ったり、乗馬を楽しんだり」
ぶるる、と合いの手を入れるようにスピカが鼻を鳴らす。そのあまりのタイミングの良さに一拍置いて、二人で笑った。
「あの、この子を撫でてみても大丈夫でしょうか」
「はい、喜ぶと思います。馬は人を見ているので、堂々と振る舞ってくださいね。スピカはそんなことはないでしょうが、馬の顔色を見る人間を馬鹿にして従わなかったり、悪戯をする馬もいるので」
頭がいいだけでなく、悪知恵が働く個体もいるのだという。これだけ大きな生き物だと少し怖いけれど、アリアの言う通り背筋をのばし、黒い宝玉のように輝くスピカの目を見ながら、そっとその毛並に触れた。
「わ、柔らかい。それに、温かいです」
「馬は体温が高いから、あったかいんですよね。目の近くに手をかざさないように、首を優しく撫でてあげてください」
被毛の上にそっと手を滑らせると、犬や猫と違ってつるつるとした感触がする。大切にブラッシングされているのだろう、光沢のあるきれいな毛並みだった。
「穏やかな気質の馬と接すると、気持ちが落ち着くんですよ。子供の頃は嫌なことがあったりお姉様と喧嘩をするたびに厩舎に飛び込んで、その厩の主みたいな子に宥められていました。泣き疲れて飼い葉に埋もれて寝ていたら牧羊犬たちに埋もれるように添い寝されていて、メイドにドレスをこんなに汚してと嘆かれたものです」
「アリアがですか?」
「もうバレていると思いますけど、私、結構気が強いんです。お姉様もそうなので、小さい頃は姉妹喧嘩はしょっちゅうでしたよ」
アリアの声は穏やかで、スピカもじっとしてオーレリアに撫でられてくれている。預けられている他の馬たちの鼻を鳴らす音や微かないななきが時折響いて、段々、気持ちが落ち着いてくるのがわかる。
気心の知れた友人以外は物言わぬ温かい生き物だけで、整えられたギルドの応接室にいるよりずっと肩の力を抜くことができた。
「オーレリア、今日は温かいお風呂に浸かって優しいものを食べて、ゆっくり眠って、明日は作戦会議をしましょう」
「作戦会議ですか?」
「はい。あなたを裏切った男に目に物を見せるための作戦会議です。とは言っても、弁護士を挟んで聞き取りをするだけで、後は代理人がやってくれるので、オーレリアはそれで今日のことは忘れてください」
アリアが可愛らしい顔立ちで精いっぱいの低い声で言うものだから、内容の物騒さよりもそのギャップのほうに意識を持っていかれてしまう。
「私は、オーレリアの優しさは得難く素晴らしいものであると思っています。だから、婚約破棄の話を聞いた時もオーレリアがそれでいいならいいだろうと思っていました。でも、相応しい報いが無かったことでオーレリアを何度傷つけてもいいと思われるのは間違いです。それは、分かってくれますか?」
「……はい」
アリアの言葉は、その通りだ。
王都にきたばかりの頃は頼る人もなく、かといって叔父夫婦の元に戻る気にはなれず、相談できる相手ができた頃には生活が安定していて、トラブルを蒸し返す気にもなれなかった。
嫌な思いをしたけれど、独立するいい機会だったのだと思うことで忘れようとしていた。新しく事業を興そうとしているこんな時期に蒸し返されるとは思っていなかったのだ。
過去をきちんと清算しなければ、足枷のようにずっとついて回るのだろう。自分だけならばともかく、アリアやウィンハルト家、これから関わっていく人たちにも迷惑をかけてしまうことになる。
「ありがとう、アリア。私一人では、きっとどうしていいか分かりませんでした」
「こういう時のためのパートナーです。たくさん頼ってください」
穏やかに笑い合っていると、厩舎に案内してくれた職員が再び現れて、アリアに声を掛けた。
「ウィンハルト様、馬車が到着しました」
「今行きます。さ、まずはスピカに飛び乗って出かけたことでお姉様のお説教ですね」
アリアがそうこぼすと、スピカがぐい、とアリアに鼻先をくっつける。それに愛しそうにアリアは目を細め、優しい手つきでスピカを撫でた。
「スピカは当面、ウィンハルト家の厩舎にいるので、会いにきてあげてくださいね」
「はい、是非。またね、スピカ」
ぶるる、と返事をされて、やはりタイミングはばっちりだ。
アリアと笑い合いながら厩舎を出る頃には、喉に詰まるような閉塞感は和らいでいて、赤く焼け始めた夕焼けに目を細めるのだった。




