6. 私設図書館と「保存」
着まわしているワンピースに斜め掛けの鞄をひっかけ、階下に降りると、ちょうど朝食のピークを終えたところらしく、食堂には人は残っていなかった。
「スーザンさん、行ってきます」
「オーレリア、今日も西区の図書館かい?」
カウンターの向こうに声をかけると、エプロンをつけたスーザンが明るい表情で顔を出す。どうやら休憩中だったらしく、奥にいたスーザンの夫で、鷹のくちばし亭の料理人であるマイクも軽く会釈をしてくれた。
「はい、あと何日かはそちらに通えそうです」
「じゃ、これお昼に食べな。あんた食が細いんだから、せめて三食しっかり食べなよ」
「わ、ありがとうございます!」
スーザンの手から白い布に包まれた昼食を受け取って、もう一度行ってきますと告げて、鷹のくちばし亭を出る。
夏が来る直前の王都は滅多に雨が降らないらしく、今日もいい天気だ。
逆に、もうしばらくして本格的な夏に入るとそこからしばらくはずっと雨が降る時期だそうで、王都ではこの天候は一種の名物のようなものらしい。
近くの駅から西区行きの路面電車に乗る。商売をしている店はもう少し早い時間から始まるので、このくらいの時間だと比較的空いているのがありがたい。
トラムは車輪に【回転】を付与した一種の魔道具であり、常に王都の中をぐるぐると巡回している。スピードは前世の自転車よりずっと遅く、駅が近づくとさらに減速するものの停車することはないので、乗るのも降りるのもややコツがいる乗り物だ。
オーレリアはやっと駅での乗り降りがスムーズにできるようになってきたけれど、身体能力の高い冒険者などは駅まで待たずに目的地の近くで飛び降りる者も少なくない。
付与は一度掛けると魔力が抜けるまでその効果が続くので、車体も止まることなく動き続けているけれど、どこかの駅で切符を買えばその日一日乗り放題で鉄貨二枚ほどで一日中王都を移動することができる、王都の住人にとっては欠かすことのできない移動手段である。
王都に来た日から二週間近くが過ぎて、トラムで移動するのもすっかり慣れた。ごとごとと揺られて二十分ほど、目的地近くになって減速した車体から降りて徒歩五分ほどの場所にある私設図書館が、今のオーレリアのアルバイト先である。
「おはようございますオーレリアさん」
「おはようございます、アリアさん。今日もよろしくお願いします」
受付に座っている司書のアリアと挨拶をして、バックヤードに入ると今日の分の本がすでに積み上がっていた。
斜めかけの鞄からエプロンを取り出して身に着ける。髪は元々三つ編みにしてあるのでそのまま、すぐにその日の仕事にとりかかることにした。
積み上がった本は、どれも付与されている【保存】の効力がすでに切れている。それによって現れた劣化は、ここに積み上げられる前に司書によって綺麗に修復されていた。
オーレリアの仕事は、この状態の本に新たに【保存】を付与していくことである。
王都に来てから三日ほど過ぎた頃、鷹のくちばし亭の食堂に通うお客さんに付与術師なら【保存】は使えないかと聞かれ、この仕事を紹介された。
本への付与は一冊につき半銅貨一枚程度で、単価が低く、付与術師には人気がない仕事なのだそうだ。
けれど、とにかく量が多い。十冊やればその日の宿代になるし、二十冊で平民の一日の収入くらいになる。
こちらの世界では、本は貴重で、非常に高価なものだ。
こうした私設図書館は、裕福な貴族や商人の慈善事業の一環として営まれていて、様々な事情で中等教育が受けられない平民や、教養を学びたい庶民に利用される大切な場所であるし、本を保存していくのは図書館の大切な役割でもある。
出来高制でその日雇いのアルバイト扱いになるものの、その分後見人や推薦人も必要ないと言われてすぐにでも収入の目途がほしかったオーレリアは是非にと引き受けることになった。
付与を終えた後の魔力は素材に染み込んで視認することはできなくなるけれど、付与の最中は魔力が微かに発光するので、術式が見えてしまう。
術式は個々の付与術師の財産であるため、基本的に付与中の手元を覗き込むことは重大なマナー違反となる。そのため、オーレリアの作業中は誰もバックヤードに入ってくることはなく、黙々と作業を行うことができた。
本を取り、表紙をめくって念のため異物が挟まっていないかぱらぱらとページをめくり、最後に奥付をよく確認する。
本の奥付には、必ず本の材質が書かれる決まりになっている。本の中身のほとんどは植物性の紙で作られているけれど、装丁には動物の革、稀覯本になると魔物の革が使われていて、それぞれの素材によって付与の入りが違うという理由からだ。
保冷樽の例を挙げるまでもなく、植物性の素材は魔力が入りやすいが抜けやすい。紙のような薄い素材だと、どれだけ強い魔力で掛けても数週間も持てばいいほうだ。
だが、本の傷みやすい部分は背や表紙の縁の部分といった、ページをめくる際に手が触れたり、開閉のたびに負荷がかかる部分である。
そのため、本の多くは中身は植物由来の比較的安価な紙だが、表紙には動物や魔物の皮を使っていて、【保存】の付与も表紙に掛けることになる。
付与した本のタイトルを確認し、もう一度中をぺらぺらとめくる。この国の成り立ちと歴史、歴代の王の偉業をまとめた本だけれど、その内容に対して言葉遣いが平易で、読みやすい文章だった。
本が非常に貴重なため、基本的にこちらの世界の図書館は貸し出し業務を行っていないけれど、職員にはそれが認められていて、オーレリアもその中に含めてもらうことができた。
自立のためのお金を貯めている最中で、かつ王都の知識や土地勘のないオーレリアには大変助かるシステムである。
今日はこれを借りようと脇に寄せて、付与を続けていく。
私設図書館はその性質上、所蔵に出資者の興味や特色がよく出る。
この図書館の出資者は歴史に造詣が深いらしく、王都の成り立ちからダンジョン発見時の経緯と変遷、この巨大な街がどのように発展してきたかをまとめた本が多い。
中にはふわっと王都の名物料理や食べ歩きガイドなどが交じっていたりして、表題をなぞっているだけでも中々楽しいものだった。
奥付を確認し、素材に合った強さで【保存】を付与し、終わったものは別の机に順次積んでいく。黙々と作業をしていると、バックヤードの扉がノックされる音が響いた。
「オーレリアさん、そろそろお昼ですけど、よければご一緒しませんか?」
「アリアさん。はい、是非」
声を掛けてくれたのは、司書のアリアだった。明るい水色の髪をショートカットにしていて、オーレリアと同い年の、可愛らしい印象の人だ。
現在はオーレリアが占領してしまっているけれど、バックヤードは普段は司書の休憩室にもなっているそうで、お昼はこうして声を掛けられ一緒に摂ることが多い。
【保存】が掛かっているとはいえ本の近くで食事をするのは気が引けるので、未処理と付与済の本が置かれているのとは別のテーブルで、オーレリアはスーザンが持たせてくれた黒パンにチーズとハムを挟んだサンドイッチを、アリアは近くのカフェで買ってきたテイクアウトのランチをそれぞれ広げる。
「今日の分、もうあんなに進んだんですね」
卵の挟まったサンドイッチを食べながら処理済みの机の上に積まれた本を見て、アリアが感嘆の吐息を漏らした。
今日の分の五十冊ほどが積まれていた付与待ちの机は、残すところ三分の一というところだろう。
「少し夢中になってしまいました」
「オーレリアさん、すごく付与が早いですよね。それに、一日にこなす量も多いし、魔力切れは大丈夫なんですか?」
「はい、魔力は人より少し多いので、これくらいならなんとかなります」
アリアはもう一度、すごいですねえと吐息を漏らす。
個人差が大きいものの、人の持つ魔力には限りがあり、使い過ぎると強い倦怠感や頭痛といった症状が出てしまうのだそうだ。
オーレリアはこれもささやかな転生者特典なのか、魔力の量はどうやら一般的に見てもかなり多い方らしい。
一般的な付与術師は大物の付与をした後は数日の休みを取るのが当たり前であるところを、オーレリアは【保存】の付与を一日に五十冊ほども行い、休みなく通勤している。
生活の基盤を整えるためにまとまった収入を必要としているけれど、あまり目立つのはオーレリアの望むところではない。これでも少しセーブしているつもりだ。
「この分だと、うちの本は全部【保存】を掛け直してもらっても、すぐ終わってしまいそうですね」
「はい。――できれば、次の私設図書館を紹介していただけると助かるのですが」
この私設図書館は、すでに三つ目の職場だ。
ひとつの私設図書館の蔵書はだいたい千冊あるかどうか、どれだけ規模が大きくても二千冊前後であり、かつ、その蔵書全てに【保存】の掛け直しが必要なわけでもない。
そのため、最初の私設図書館は数日で、折角だからできるだけ【保存】を掛けてもらおうと蔵書を搔き集めた二つ目の私設図書館も一週間ほどで仕事が終わってしまった。
おかげで大分オーレリアの懐は温かくなったけれど、いつ仕事が途切れるか分からない状況である。
王都にはいくつも私設図書館があり、司書同士は知り合いであることが多い。不人気である大量の【保存】を請け負ってくれる付与術師ということで、司書から司書に紹介されて今はここに通っている次第である。
できれば、次の職場も早々に決まると助かるのだが。そう思っていると、アリアはにこりと笑った。
「それなんですが、もしよければ王立図書館の司書に知り合い……というか、実は姉なんですけど、そちらにオーレリアさんを推薦してもいいですか?」
「それは、勿論ありがたいですけど――大丈夫でしょうか?」
王立図書館は、貴族や裕福な商人の慈善事業として運営されている私設図書館とは違い、国が直接運営している図書館である。
私設図書館が基本的には誰でも利用できるのと違い、王立図書館の入館にはそれなりの身分と利用費が必要になるので、利用者は裕福な人が多い。
【保存】の付与も、国が直接雇用している付与術師がいるはずである。
「王立図書館の【保存】の付与は、宮廷付与術師が持ち回りで派遣されてやっているんですけど、やっぱりそちらも不人気の仕事なんです。今年の春に後任で派遣されるはずだった付与術師がそれを嫌がって辞めちゃった上に、その次も決まらなくて、困っていると姉が漏らしていました。何しろ、あっちは本の数が膨大だから、順次【保存】が切れていく本も少なくないらしくて。――もうすぐ雨期が来るのに、国も何を考えているんでしょうね」
司書にとっては本が劣化していくのは我慢ならないことだろう。アリアが頬に手を当ててため息を吐くのに、オーレリアは少し焦ってしまう。
「あの、お話はすごく嬉しいです。でも私、天涯孤独の身ですし、王都には来たばかりで、推薦人も後見人もいないんです」
国の施設や貴族への雇用となると、たとえ非正規であっても身元を保証する後見人、もしくは推薦人がどうしても必要になってしまう。
オーレリアのような身元を保証してくれる確固とした身内や地縁がない人間は、その日雇いの仕事しか残らないのだ。
だがアリアは、そこはまかせてくださいと力強く胸を叩いた。
「オーレリアさんがこれまで働いてくれた私設図書館の司書たちも、連名で推薦してくれるって言っていましたよ。礼儀正しくて真面目で、信頼できるきちんとした方だって、ちゃんと推薦しておきますから!」
みんな、たくさん【保存】を付与してもらって感謝しているんですよ、とアリアは笑う。
仕事がもらえて助かったのはオーレリアも同様である。対価はきちんと支払われているのだ、真面目に働くのは当たり前で、そんな話になっているとは思わなかった。
それでも、自分のやってきたことが認められるのは、望外に嬉しいことだ。
「すごく、嬉しいです」
「では話を進めてもらうよう伝えておきますね。王立図書館のある中央区はうちの実家も近いので、よければ次の休日にでも案内しますから、遊びませんか?」
美味しいものを食べ歩きましょう。そう付け加えられて、王都に来てから――いや、これまでのオーレリアの人生でも、そんな素敵な休日というものに縁が無かったからだろう、胸がふわふわとする心地になる。
「はい、是非!」
オーレリアがそう頷くと、アリアもぱっと花がほころぶように笑い、楽しみですと水色の目を細めるのだった。




