50.南部の少年たち・前
連れの女性と笑顔で別れ、ライアンはいつもよりやや早い歩調で拠点に向かい進んでいた。
本格的な夏の暑さが逸れてきて、朝晩は次第に過ごしやすい日も増えてきた。今日も王都は人が多く、あちこちから呼び込みや賑やかな会話の声で満ちているけれど、その雑踏が、今は少し遠く聞こえる。
トラムを利用してもよかったが、しばらく早足で歩きたどり着いた拠点に入ると、それまで保っていた笑みがふっと消え、代わりに腹に湧いてきたのは熱を伴うような腹立ちだった。
腹立たしい、ままならない、細い火でちりちりと神経を炙るような間断ない苛立ちが、抑えきれない。
「くそっ!」
「うわ!? 来た早々どうしたんだよ、ライアン」
衝動のまま吐き捨てると、集会所の衝立の向こうからひょいと顔を出したのは、黄金の麦穂のメンバーの一人、アルフレッドだった。
余裕がなくて気が付かなかったが、いつもの煤の臭いに混じってなにやらいい匂いが漂っているところをみると、料理中だったのだろう。
「悪い――ジンかウイスキーあるか?」
「奥の棚にあるやつで、名札が掛かってないのは好きに呑んでいいよ」
それだけ言うと、アルフレッドは衝立の向こうに再び隠れてしまう。
黄金の麦穂の拠点の一階は集会所になっており、メンバーが集まって自由に使えるように大きなテーブルと人数分プラス二客の椅子、あとは装備を仕舞うための棚と共用の本棚――ほとんどの蔵書はジェシカの私物だが――があるくらいで、後付けで作った簡単な料理ができるスペースは壁で区切られてすらおらず、衝立が立てかけられているだけだ。
奥には保存食や日持ちする食料を保存するための倉庫があり、使わなくなった武器や備品なども好き放題放り込まれている。中に入り、封を切られていない安いジンの瓶を持ってテーブルに戻ると、氷の入ったグラスとともに、カットされたチーズとオレンジが小皿に載せられて置かれていた。
「アルフレッド、ありがとう」
声を掛けると、衝立から手だけが出てヒラヒラと振られる。しばし包丁を使う音やフライパンで何やら炒めている音を聞きながらロックでちびちびとやっていると、やがて片手に空のグラス、もう片手に新しい皿を持ったアルフレッドがテーブルについた。
「デートの後なら腹は空いてないだろうけど、適当につまんでくれ。――それで、なにか分かった? その様子だと、あんまりいい話はなさそうだけど」
「ああ……」
湧き上がってくる苦いものをグラスに残った酒で飲み干し、少し乱暴にグラスをテーブルに置く。
「ウォーレンは、陞爵を受け入れるそうだ」
しばしの間。アルフレッドは自分のグラスに手酌でジンを注ぐと、ぐっ、と煽った。
「これだけ長く戻ってこないなら、交渉は難航しているだろうとは思っていたけど、逃げられそうになかったってこと?」
「ああ。はっきりとは言わなかったが、おそらくパーティのメンバーの誰か、もしくは数人を人質に取ると暗に匂わされたんだろう」
「冒険者なんて掘り返せばひとつやふたつ、後ろ暗いところがあるもんだしね。僕もまあ、完璧に身ぎれいだとは言えないし。それで、君も爵位を受け入れることにしたのかい?」
「………」
「今回は、宮廷に勤める女官に手引きしてもらえたけど、そう何度も通じる手じゃないだろう? 僕たちも君にだけ危ない橋を渡らせるつもりはないし、ウォーレンと連絡を取るには現実的な選択だと思うよ」
「手引きなんて人聞きが悪いな。宮殿の、貴族なら誰でも入れる場所まで案内してもらっただけだ。それくらい、スキュラの討伐に比べれば危ないことのうちにも入らないさ」
だが、アルフレッドの言う通り何度も通じる手段ではない。
宮廷に留め置かれているウォーレンと連絡を取るには、爵位はあるに越したことはない。
「まあ、うちの実家は爵位こそないが権勢はそこらの貴族より大きいから、何かと危なっかしいところがあったしな。ちょうどいい機会だ、子爵位の継承は、兄の子を養子に迎えて正式に実家に譲ることにするさ」
まだ湯気が出ている青菜の炒め物を口に入れる。にんにくがガツンと効いていて、酒には合うが明日は誰かをデートに誘うのは難しそうだ。
「……あいつは、戻ってこれないかもしれない」
「黄金の麦穂は、解散になりそうかい?」
「いや……、まだ、わからない。状況は悪いのは確かだな」
言葉を切ると、アルフレッドは何も言わず、もう一杯、グラスにジンを注ぐ。
強い酒は喉の粘膜を焼いてカッと熱さが先にくる。その痛みに近い刺激が、やるせなさを僅かにかき消してくれる気がした。
「あいつの父親は、何がなんでもウォーレンを手元に取り戻したいらしい。――正直、正気を失っているとしか思えない。まさかエディアカランの攻略が、こんなことになるなんてな」
「だねえ。本来ならおめでたいことのはずなのに、攻略からこっち、ずっと腹が痛そうな顔ばかりしてたもんね」
その言葉に眉根を寄せ、ライアンは重くため息を吐いた。
ウォーレンは、子供の頃から何かと自分の感情を押し殺しがちな男だった。
ここ数年は冒険者稼業が上手く回り、依頼をこなし探索を進め、ライアンとウォーレンがゴールドランクに上がってからはエディアカランの攻略も視野に入れ、着々と実績を積み上げ、ようやく力を抜いて笑えるようになったところだというのに、今日人目を憚りながら顔を合わせた友は、まるで十年前に戻ったような血の気の薄い顔をしていた。
ウォーレンは王都で生まれ育ち、ある時母親に連れられて、ライアンの住む街に引っ越してきて、その頃からの付き合いだ。
ウォーレンの母の実家が南部の都市のひとつを任されている代官の家であり、ライアンの実家はその都市を拠点とする豪商で、親同士が友人という関係だった。
年が同じという共通点しかなかったが、同じ初等学校に通い、何かと一緒にいる機会が多かった。ウォーレンの母親は寝付くことが多く、よくウォーロック家に滞在していたこともあり、上の二人の兄と下の妹たちともども、新しい兄弟のように育った。
――思えば、昔から周囲に気ばかり遣う奴だったな。
南部の子供は活発で、十を越えれば仲間と遊びに出かけて夜になっても帰ってこないくらいヤンチャなのは普通のことだ。ライアン自身多少危ない遊びもいくらでもしたし、困った顔をするウォーレンの手を引いて付き合わせたこともある。
過去を思い出せば、身分だの立場だのといった荷物を背負わず、だからこそ自由で、無鉄砲な記憶ばかりだ。
手に持ったグラスの中で氷がからり、と音を立てた。
――あの頃は、あいつを臆病で男らしくないなんて思っていたな。
危ないことはしちゃだめだ。大人に心配をかけるようなことはしちゃだめだ。そんなことばかり言うウォーレンを他の仲間は煙たがった。
子供は、悪気なく残酷な一面も持つものだ。南部訛りがなく、雰囲気も品が良くどこか自分たちとは違っているウォーレンは異物のように感じられもしたし、同じ初等学校の子供たちの中には、分別付いたことばかり言うウォーレンを疎ましがる者も少なからずいた。
それが変わったのは、ある夏の夜、同じ年の少年たちで郊外の森にある廃屋に肝試しに行こうという話が出た時だった。
それ自体は、あの街のその年頃の少年たちにとってある種の通過儀礼のようなものだ。兄たちも同じようなことをしていたし、おそらく今も似たような度胸試しがあるだろう。
ウォーレンは誘っても来ないことは最初から分かっていたし、そんな計画があると知ればまた夜中に子供だけで出歩くのは危ないとか、大人が心配すると忠告めいたことを言うだろう。それがウォーレンを孤立させていると分かっていたライアンは、その計画を伝えず自分だけ参加することにした。
他の年と違っていたのは、どこからか流れてきた野犬が森に住み着いていたことだった。縄張りに侵入してきた人間の子供など、野犬の群れにとっては攻撃対象でしかない。追い立てられ、仲間と共に辛うじて木に登ったものの、下では野犬がウロウロしながらこちらを見張っていて、動くに動けない状態だった。
そこに助けに来てくれたのがウォーレンだった。木剣で群れのボスに痛打を与え、野犬を追い払った後は力が抜けて動けなくなった仲間が木から降りるのを手助けし、負ぶって街まで連れ帰ってくれた。
少年の世界というのは、シンプルだ。強くて頼りになる者は一目置かれ、尊敬される。ウォーレンはその日から仲間として認められ、やや口うるさい忠告も、ウォーレンがそう言うならと、みんな真面目に聞くようになった。
――あいつは、昔からあいつだったな。
決して前へ前へと出る性格ではないくせに、ここぞという時は大胆に状況を一変させる手を打つ。穏やかで理性的な顔と同根の表裏に、苛烈な南部の血も確かに感じさせる。
建物の隙間を探検し、棒きれを拾って剣術の真似事をし、中等学校の成績でしのぎを削った。肩を組んで笑い合い、時に下らない意地を張り合って喧嘩をした。
容姿はまるで似ていないけれど、あの頃はよく兄弟に間違われたものだ。
何事もなければそのまま南部の高等学校に進んでいただろう。おそらくウォーレンは祖父について代官の仕事を手伝っていただろうし、自分は流れの冒険者として、国内を放浪でもしていたかもしれない。
時々故郷に戻り、友人と酒を飲み、旅先の土産話でもして笑い合ったのだろう。
それはすべて、来ることのなかった未来だ。
あの日――夕食を済ませ、いつものようにウォーロック家で生意気盛りの妹たちとカードゲームに興じていた時、激しく響いた扉を叩く音を、今でも思い出すことができる。
禍々しく響く音と、使用人が開けたドアから入ってきたウォーレンの実家、ベルツィオ家のフットマンの焦りに歪んだ口から飛び出したのは、ウォーレンの母、セリーナの死の報せだった。




