44.夏の盛りと退職準備
8月に入ったばかりのその日、館長室に呼び出されたオーレリアは、涼しい空気の中で温かいお茶を啜っていた。
「いやあ、オーレリア君には本当にお世話になって、すごく助かったよ」
ようやく全ての書架と館長室にも簡易エアコンの設置が済み、司書たちも涼しく自らの仕事をこなすようになったのだとジャスティンは心底安堵したように言う。一時期げっそりとやつれていたのも回復してきたようで、にこにこと綻ぶ顔は笑顔になっていた。
「ようやく宮廷付与術師の後任の派遣も決まってね。臨時の予定だったのに、こんなに長くお世話になってしまって、申し訳なかったね」
「いえ、こちらこそ、たくさん付与させていただいてありがとうございます。無事付与術師も決まってよかったです」
新任の突然の退職から丸二か月以上も後任が決まらず、王立図書館側としてはやきもきすることもあっただろうけれど、オーレリアとしては予定より長く勤めさせてもらえてとても助かった。貯金通帳も作ってもらえたし、エアコンの付与も入れて数年は無収入でもなんとかなるほどの残高が記されている。
オーレリアの稼ぎの中で最もウエイトが大きいのはナプキンの付与であるし、元々王立図書館の【保存】の付与は宮廷付与術師の役割だ。今週末で円満に退職という運びになった。
「ウィンハルト家と新しく仕事をすると聞いたけど、手が空いたらいつでも遊びに来てください。オーレリア君の貸出票は維持しておくので」
「それは、とても嬉しいです」
うんうんと微笑んで頷くジャスティンに勧められるまま焼き菓子を摘まむ。
ここしばらく、休日はウィンハルト家に赴き様々なことを学ばせてもらっている。お菓子やお茶を勧められたら極力断らないというのも、その中のひとつだ。
「オーレリア君は一日に付与してくれる数も多いし、すごく熱心に働いてくれたから、このまま宮廷からの派遣が来ないようなら特別予算を組んでうちに就職してもらうということも、考えていたんだけどね」
「あら館長。いけませんよ、【保存】の付与は宮廷付与術師の鍛錬の場でもありますし、オーレリアさんにはこれからどんどん活躍してもらう予定なんですから」
「まあ、レオナ君がついているならなんの心配もないとは思うけどね、もしお仕事が行き詰まったら、いつでも相談にきてくれていいからね。僕に手を貸せるならいくらでも貸すし、また臨時職員に入ってもらってもいいから」
「ありがとうございます。ご心配をお掛けしないよう頑張ります。何もなくても、また寄らせてください」
丁寧に挨拶をして、館長室を出る。週末まではまだ仕事があるので、それまでに今作業室に積み上がっている本は付与を終わらせておきたいところだ。
窓の外は夏らしい青空が広がっていて、窓からは明るくも熱のこもった太陽光が差し込んでいる。途中、各書架の前を通ったが、どこも数人の来館者でちらほらと席が埋まっていた。
エアコンを導入してから来館者が有意に増えたとジャスティンは喜んでいた。来館者が増えれば図書館の収入も増えて、新たな本の購入の予算も大きく割けるので、司書たちも機嫌がよく、作業室に以前にも増して差し入れを持ってきてくれるようになった。
毎日少しずつ持ち帰っているものの、今週はその量が増えそうだ。
そんなことを考えながら、ふと足を止めて、窓越しに空を見上げる。
あの雨の日、ウォーレンと会った夜から、三週間ほどが過ぎた。あれから音沙汰もなく、今王都にいるのかどうかも分からないままだ。
戻ってくるのを信じて待つと言ったし、彼は高位の冒険者で、数週間地上を留守にすることだっておそらく珍しいものではないのだろう。無事でいることを祈りつつ、待つことしかできないのは最初から分かっていた。
思えば、ウォーレンと会う時はいつも彼から連絡を貰い、待ち合わせをしていたので、オーレリアは彼がどこに住んでいるのかも、どうすれば連絡が取れるのかすら知らないままだ。ライアンという友人がいることは知っているし、パーティを組んでいることも聞いているけれど、それだけである。
冒険者ギルドに聞けば、パーティのメンバーと連絡を取ることくらいはできるかもしれないけれど、時々会って会話を楽しむ程度の関係の自分がそこまでしていいとも思えない。
帰ってくると言ったのだ、きっと、無事に仕事を終えて、ただいまと笑ってくれるだろう。
「……私、何を考えているのかしら」
これまで友人と呼べる相手は数えるくらいしかいなかったし、王都だと親しい相手はスーザンやアリアやレオナ、お針子のミーヤや冒険者のロゼッタなどもいるけれど、みんなお世話になっている相手という感じで、なんのしがらみもない友人と呼ぶには少し恐れ多い気持ちがある。
アリアは友人だけれど、なにかと抜けの多い自分に歩調を合わせて手を引いて歩いてくれているのが分かるので、アリアと対等というには、まだまだ自分が足りていない。
思えばウォーレンは、仕事と関わりがない、衣食住の世話にもなっていないたった一人の相手だ。物腰も柔らかく、口調も丁寧で、臆病なオーレリアでも安心して付き合うことのできる人だった。
作業室に向かって再び歩き出す。立つ鳥後を濁さずというのは前世の言葉だが、後悔なく去るために残りの仕事はきちんと片付けていきたい。
オーレリアはまだ商売を始めるより、色々と学ぶことを優先したほうがいいだろうというレオナとアリアの意向もある。図書館を退職した後も、きっと何かと忙しい日々が続くだろう。
そうしているうちに、ウォーレンが戻ってくる日も自然と訪れるに違いない。
――たくさん学んで、しっかりして、少しずつ、進んでいけたら。
自分に自信を持てるようになったら、きっとウォーレンに笑っておかえりと言えるはずだ。
うん、と小さく頷いて、オーレリアは作業室までのそう長くない距離を、少し急ぎ足で進んでいった。




