41.傘と雨の夜
その日、オーレリアは夕食を済ませて部屋に戻るとナプキンの付与に取りかかり、広場の時計台が夜の九時を告げる鐘の音が響いてきたのを合図に作業を切り上げた。
王都は東西南北の区にそれぞれ時計台があり、朝の六時から夜の九時まで一時間ごとに時報の鐘を鳴らしている。一日の最後の鐘は、同じく四つの区にある大門が、夜の九時に扉を閉めるので、その報せも兼ねている。
小さな馬車などは大門の横に設置された小さな門から出入りすることもできるけれど、こちらには夜通しの門番が立っていて、入市税が大門の倍も掛かるのだという。冒険者は基本的にこの入市税が免除されているけれど、夜間の出入りに掛かる金額は別枠で徴収されてしまうので、うっかり探索を終えて夜中にダンジョンから出てきてしまった場合はその上にある塔の簡易な宿泊施設でひと眠りしてから街に戻ってくるのだと、ウォーレンが話してくれたのを思い出して、なんとなく窓の外、ダンジョンの方に視線を向ける。
夕方から降り始めた雨は日が落ちても降りやまず、今も窓の向こうの景色を煙らせていて、ダンジョンから伸びた塔も、その雨にうっすらと輪郭を滲ませ白く輝いていた。
備え付けの机について、アリアから借りた本をめくる。内容は王都に実際にあった事件を小説風にまとめた短編集で、寸借詐欺や結婚詐欺、横領や遺産相続をめぐるトラブルなどが描かれている。
オーレリアに世知辛さを学んでほしいという気持ちが伝わってくるものの、オーレリアは元々物語が好きだ。前世はよく推理小説やハードボイルド小説も好んで読んでいたし、案外普通に楽しめている。
得意ではない分野といえば圧倒的にホラーや怪談の類で、とりわけ祟りや怨念といったものには弱い。映画などで後ろに気配を感じて振り向いたら何もなく、ほっとして前を向き直ったら――という演出などは心底苦手だ。
しばらく読書に没頭していると、不意に部屋の扉を叩く音が響く。宿暮らしということもあり、日が落ちてから人が訪ねてくることなど滅多にないので驚いて、思わずびくっと背中が震えてしまった。
「オーレリア、起きてるかい?」
「あ、はい!」
幸い、扉の向こうから聞こえたのはスーザンの声だ。急いで鍵を外して扉を開ける。
「スーザンさん、どうかしましたか?」
「いやね、あんたを訪ねて下に男が来ててさ。うちは基本、夜は宿泊客以外二階より上に上がるのは断ってるから、明日にしてほしいって言ったんだけど、声だけでもかけて欲しいって言うからさ」
訪ねてきた人の名前を聞いて、オーレリアは驚いた。
「すみません、間違いなく私の友人です。その、少し外で話してきます」
「いや、まだ雨が降ってるし、食堂を使ってもいいよ。あたしは奥で明日の仕込みをしているからさ」
スーザンは少しほっとした様子だった。一緒に階下に降りると、ドアの前でマントのフードを目深にかぶった長身の男性が立ち尽くしている。
「あんた、椅子に座ってていいって言ったのに。そんなところに濡れたマント被りっぱなしじゃ、夏っていっても冷えるだろう」
「いえ、濡れていますし、すぐに帰るので……」
顔はよく見えないが、声は間違いなくウォーレンだ。
「そうかい。オーレリア、あたしは仕込みが終わったらそのまま家に戻るから、悪いけど鍵を掛けておいておくれ」
「はい、あの、ありがとうございます、スーザンさん!」
二人で話せるようにという、スーザンの気遣いだろう。頭を下げると、気にしなくていいよと笑って、スーザンはカウンターの奥の厨房に入っていった。
「オーレリアさん、こんな時間に訪ねてしまって、不躾ですまない」
「いえ、私は大丈夫ですが……何かありましたか?」
ウォーレンは、いつもとても丁寧で気遣いのある人だ。会う約束をするときは何日も前に予定を聞かれるし、暗くなったらきっちり鷹のくちばし亭の前まで送ってくれる。そんな彼が急に夜に訪ねてくるなど、よほどの理由があったとしか思えなかった。
「その、少し離れたところに行くことになって、多分、しばらく会えないから、その挨拶をしておきたくて」
「他の街に移動されるんですか?」
スキュラが討伐されて、高ランクの冒険者は拠点を移すかもしれないというのは、他ならぬウォーレンから聞いた話だ。
ウォーレンはゴールドランクの冒険者である。パーティを組んでいるという話も聞いていたし、そういうこともあるかもしれないと思って尋ねたけれど、いや、と彼は軽く首を横に振り、呟くように言う。
「仕事で、少し厄介なことになっていて。もしかしたらすぐに戻れるかもしれないけど、長引く可能性もあるんだ。いつ戻れるか分からなくて」
「そうなんですね。……危険は、ないんですよね?」
「それは大丈夫。多分」
そう言いながら、なぜかその表情は皮肉っぽいものだった。
フードの陰になっているけれど、顔色が悪く見える。彼の左手が腹の辺りに添えられているのに、出会った時のウォーレンを思い出した。
ウォーレンと友人になり、週に一度ほど出かけたり、食事をしながらお喋りをしたりしているけれど、オーレリアは彼の何を知っているというわけでもない。
冒険者で、パーティを組んでおり、自宅は王都の中央区にあるけれど滅多に戻らず友人に泊めてもらったり、出先で宿を取ることもある。冒険者ギルドに用があるついでにオーレリアに声をかけてくれて、楽しい話をしてくれる。
物腰が柔らかく、口調が丁寧で、威圧的なところは微塵もない。こちらの事情に踏み込んでこない、だからこそ安心して付き合うことができる、いい友人だ。
けれど、その距離感が、今は少しだけもどかしい。
どこに行くのか、王都にいるなら、自分から会いにいくことはできるのか。本当に危なくないのか。
今、辛い思いをしているのかと問いかけることすら難しい。
「夜中に、急に来てすまなかった。戻ったらまた連絡するから、エールの美味い店に付き合ってくれたら嬉しい」
オーレリアが言葉に困っているのを感じ取ったのだろう。苦笑するように会話を切り上げようとするウォーレンに、ぐっと唇を引き締める。
「あのっ、ちょっとだけ待っていてください。すぐ戻ります!」
「オーレリアさん?」
夜なのでできるだけ足音を殺しながら三階まで急いで登り、自分の部屋の隅に立てかけておいたものを掴んで、再び食堂に戻る。
「これ、持って行ってください。夜ですし、シンプルなデザインなので」
そう言って差し出したのは、先日買い求めた傘だった。
こちらの世界では、雨の日でもあまり傘を差すという習慣が薄く、傘は主に日中女性が日焼け避けのために差す日傘である。雨傘も一応売ってはいるが、薄い布に油や蝋を塗ったもので微妙に重く、前世の傘と比べると使い勝手はあまり良くない上に、そう安いものでもない。
それでも、雨の日は傘が欲しいと思ってしまうのは、やはり前世の記憶があるためだろう。中央区の帽子屋で見かけて購入したそれは淡い茶色のシンプルなデザインで、大銀貨一枚もした。ある程度稼いでいるとはいえ、根が貧乏性のオーレリアにとっては勇気のいる買い物だった。
「借りられないよ。いつ返せるかも分からないし」
「いいです。いつでも、ウォーレンさんが返せる時で。でも、ひとつだけ、勝手な言い分ですが……返す時は、ウォーレンさんが手渡しで、返してください」
もし戻れない状態が長く続けば、ウォーレンは人伝てにオーレリアの手に戻るように手配するだろう。
たとえ戻ってくるのに何年かかっても、彼の手で直接返してほしい。
「傘が返ってこないより、今夜、ウォーレンさんが雨に濡れて帰る方が、嫌なんです。ええと、これは、私の我儘なので!」
ウォーレンのマントは滴こそ落としていないけれど、すっかり水が染みている。
何かと気を遣ってくれる彼のことだ、この雨の中で、しばらく鷹のくちばし亭の前で声を掛けようか、このまま帰ろうか、迷っていたのではないだろうか。
――塔に目を向けた時、窓の下を見たら、見つけることができたかもしれない。
そんなのは、オーレリアの勝手な想像だ。
だから、今夜の帰路、これ以上雨が彼の上に降り注ぐことがなければ、それでいい。
「……ありがとう、借りるよ。できるだけ早く、返しにきます」
「はい。気を付けて、いってらっしゃい」
ウォーレンはぱちぱちと瞬きした後、強張っていた表情をようやくふわりと綻ばせた。
「うん……いってきます、オーレリアさん」
見送りは大丈夫だと告げられ、彼はそのまま、鷹のくちばし亭を出ていった。
からんころん、と聞き慣れたカウベルの音が止まって、内側から扉の鍵を掛ける。
もっと気の利いた言葉が掛けられたのではないだろうか。少しでも、彼の心を解せるようなことを言えたのではないか。
微かな後悔を感じながら、細く、息を吐く。
彼が帰ってきたら、エールを傾けながら、何があったのか聞いてみるのもいいかもしれない。
ウォーレンが触れてほしくない話だったら、それ以外の話をたくさんしよう。
彼が戻るまでに、積もる話を用意して、待っていよう。
彼の友人としてできることが、それくらいしかないのが、ほんの少し寂しく感じられた。
そんな雨の夜だった。




