36.縁談と思惑と帰りたい場所
ウォーレンはその日、ドレスシャツにネクタイを結び、ベストの上からラウンジジャケットを羽織った紳士らしい服に身を包んでいた。
靴はよく磨かれて傷ひとつない革靴。テーラーの勧めで懐中時計の金鎖をベストから提げた。
貴族の服としてはかなりの軽装ではあるが、今時の流行を取り入れた。とてもお似合いですよと仕立屋は満足そうな様子であったものの、普段冒険者らしい服ばかり着ているウォーレンは妙に居心地の悪さを感じるものだった。
――服を着ているというより、服に着られている気分だ。
王宮という、とっくに自分の居場所ではなくなった場所に無理矢理異物になった自分を当てはめるためのピースにされたような、何とも言えない居心地の悪さだ。テーブルの上に並べられた料理はどれも王宮の料理人が手掛けたもので、味も見栄えも大変に良いけれど、何を食べてもあまり美味いとは感じなかった。
四人掛けのテーブルの向かいには、淡い緑のデイドレスに身を包んだ女性がウォーレンと同じものを食べている。食はあまり進まないらしく、どの皿も一応口はつけるけれど大半を残していた。
こうした食事は社交のためのものなので、本来無言で行うのは重大なマナー違反だ。幼い頃、王子としての教育を受けていたウォーレンにとっても心地よい状況ではないものの、当たり障りのない話題には短い相槌が戻ってきてあちらからはひとつも話題の提供がない状態に、早々に嫌気が差した。
失礼極まりないと自分でも思うものの、向かいに座っているのが真夏のオレンジの果実のような髪を二つに結んだ友人ならば、前菜のクロスティーニのレバーパテにまるで臭みがないことに驚き、合わせたワインとの調和に喜んだだろう。サフランのリゾットに、サフランを収穫するのは大変に手間がかかると言えば大事に食べなければいけませんねとおかしいくらい真剣な表情を見せてくれたかもしれない。
図書館で最近気になっている本のテーマの話を聞かせてくれたり、次は料理の本を借りてみると彼女が言えば、ウォーレンはお勧めがあったら教えてくださいときっと真面目な顔で告げて、一拍置いて、笑い合っただろうか。
そんなことを考えていたせいか、ナイフがプレートに当たりカツン、と少し高い音が立った。失礼しましたと礼儀的に告げれば、向かいの女性――アイリーン姫は静かに目礼する。
メインの牛肉の赤ワイン煮は、ナイフを入れるとほろりと解けるほど柔らかく煮込まれている。丁寧にそれを食べ終えてデザートとコーヒーが出る直前、アイリーンが軽く手を上げると、給仕をしていた使用人たちが礼を執り、退室した。昼餐の席とはいえ人払いがされたことにやや戸惑っていると、彼女は静かな声で告げる。
「グレミリオン卿。私との婚姻のお話ですが、最初にきちんとお伝えしておいたほうが良いと思います。グレミリオン侯爵家の後継ぎはお産みいたします。侯爵夫人としての義務として社交も行います。ですが、その後は夫婦の義務に関しては、免除をお願いいたします」
淑女から出るにはあまりにあけすけな言葉に目を瞠ったものの、すぐに冷静になれたのはくぐった修羅場の数のおかげかもしれない。
どれだけ突飛なことを言われても、おぞましく尖った歯をむき出しにして襲い掛かってくるゴブリンの群れに比べれば、なんということもない。
「アイリーン姫。姫は私にはもったいない方です。結婚の打診はあくまで内々で、陛下の気まぐれのようなものです。おそらく姫と私が実際に婚姻を結ぶことはないでしょう」
「それでは困るのです」
ぴしゃり、と言い放った言葉は、十七歳の少女から出るには中々の迫力だ。だが一度冷静になったウォーレンにはさほど響かなかった。
「今回の婚姻で、私の生む子には男子、女子に関わらず、王族としての身分が保証されると陛下はお約束してくださいました。傍系王族の私の子が王族になる、最後のチャンスなのです」
アイリーンは国内の貴族に嫁いだ先々代国王の娘を祖母に持つ、ウォーレンの父の――現レイヴェント王国の国王の、はとこにあたる女性だ。
王族を名乗るにはギリギリのところにいる位置で、王族に嫁がない限り、次の世代は王家に連なるとはされない可能性が高い。
レイヴェント王国は、現国王の世代に子があまりにも少なかった影響で、直系王族は現在正式な王子とされる第一王子ヴィンセントと第二王子アイザックの二人だけだ。
おそらくこの二人には、近隣の友好国から直系の姫が妻として迎えられることになるだろう。アイリーンが国内の有力貴族の娘であり祖母を直系王族の姫に持つ身分であっても、ヴィンセントとアイザックどちらかの妻になるのは難しいだろう。
「これも内々の話ですが、男子ならばグレミリオン家の跡取りとしてヴィンセント殿下かアイザック殿下の姫を妻に、娘ならばお二人の王子の妻として迎えて下さると仰って下さいました。両方の子が揃い次第、婚約を取り交わしてくださると」
そうなれば、ウォーレンとアイリーンの子は父の孫の婚約者、つまるところ外戚扱いになるわけだ。
何がなんでも自分を王家の枠に取り戻したいらしい父の、執念すら感じるやり方である。
――くだらない。
すでに王族の籍を抜き、後悔もないウォーレンには、それほど王家の一人であるということが重要なのかという気持ちのほうが強い。
ましてそのために自分自身と、その子供まで道具にしようとするアイリーンにも、ほのかな嫌悪感すらあった。
「閣下、私には、想う方がいます。――もちろん、その方を愛人になどと考えてはおりません。実らぬ想いであることは納得しております。ですが、生涯私の心はその方のものなのです」
「………」
「私がこの気持ちを明かしたのは、閣下を縛るつもりが私にはないことをお伝えするためです。侯爵夫人としての義務は果たします。私は私の目的のため、閣下は閣下の愛する方を愛していただいても、私は決してその邪魔をする気はありません」
「いませんよ、私には、愛する人なんて」
自分で言っておいて、その言葉はやけに鋭く胸に刺さる。
ここで駆け出すと元気に跳ねる三つ編みを思い出すのは、その持ち主にひどく失礼な気がして、無理矢理抑え込んだ。
「姫、私は伯爵です。それも、与えられた領をまともに治めることもしていない不心得者の貴族です。生涯、子を持つ気はありません。いずれその籍は、再び王家に返還されることになるでしょう」
アイリーンは目を見開くと、みるみると険しい表情になった。
「卿は、王族としての義務を二度も放棄するおつもりですか」
「一度だけです。そして、一度捨てたものを再び拾うつもりはありません。――陛下が姫に何を言ったのかは、聞かなかったことにします。一貴族である私には、王族の皆様のやりとりに口を出す権限をもちませんので」
「グレミリオン卿!」
「食後のデザートとコーヒーは、省かせていただきます。アイリーン姫、本日は貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます。どうぞ末永く、ご健康であることをレイヴェント王国の臣下として、願っております」
立ち上がり、形ばかり貴族の礼を執って退室する。退室の許しを得ず部屋を出るのも礼を失した行為だが、アイリーンはことさら騒ぎ立てたりはしないだろう。
傍流とはいえ王家の姫が、たかが伯爵にそのような態度を取られた。そんなことを喧伝して得る得など彼女にはひとつもない。
それを判っていて、誇り高い王族の女性を侮辱する真似をした自分にも、ほとほと嫌気が差す。
人払いがされているのだろう、王家の昼餐室から貴族が自由に行き来できる回廊に出るまで、使用人一人とすらすれ違うことはなかった。
やはり、この場所は嫌いだ。
王宮という空気だけでなく、この場にいる自分自身が好ましくなく、時が過ぎるほどに嫌な人間になっていく気がする。
回廊を抜けて中庭に出て、晴れた夏の青い空を見上げて、ようやくほう、と息が漏れた。
敵の気配に首の裏がヒリヒリとするような緊張感に息を殺しながら、己の力のみで道を切り開く、あの充足感が恋しい。
雑多な空気のレストランで、仲間と、友人と、くだらない話をしながら笑い合いたい。
気の置けない人たちに囲まれてそんな風に生きていければ、どれだけ幸福だろう。
身分も思惑も、何もかもくだらない。それが自分を、母を、今はこの国の王である父ですら、誰一人幸せにしなかったのだと、なぜ父は分かってくれないのかと恨みがましい気持ちすらある。
白い手袋に包まれた拳を、ぎゅっと握る。
ウォーレンが帰りたいと願う場所は、もうとっくに、王宮ではなくなっていた。




