32.図書館長の懇願と預金通帳
「というわけなんだ、もう誰も彼も引かなくてね、いくつかの工房に頼み込んで、筐体は大急ぎでなんとかできそうなんだが、あとは付与の問題だけでね」
「ごめんなさいね、オーレリアさん。【保存】のお仕事もあるのに、たびたび呼び出してしまって」
先週会った時より一回りも小さくなってしまったように見える館長のジャスティンと、困ったものだわ、というように頬に手を当ててほう、とため息を吐くレオナを前に、オーレリアも眉尻を下げる。
特にジャスティンは、目の下に濃い隈が浮いており、元々ふくよかだった体が一回りも二回りもしぼんだ風船のようだ。その物悲しい風情はやけに痛ましく感じさせた。
「元々【保存】に来てもらっているオーレリア君に、一度に八基のエアコンの付与を頼むのは、本当に申し訳ないと思っているんだが……勿論、オーレリア君の魔力に合わせての作業で構わないから、そちらをお願いできないだろうか」
王立図書館の館長ということは間違いなく貴族出身だろうに、ジャスティンはほぼ平身低頭という様子である。
「本当にごめんなさいね。もちろんエアコンの付与は週に一度で、残りは休みを取ってもらって、その間の日当はお支払いするという形で全然構わないわ。だって魔力の使い過ぎは大変だもの」
おっとりとした口調だけれど、レオナの視線からはあまり安請け合いしすぎないようにというメッセージが伝わってくる、気がする。
「ええと、今は一日五十冊を目標に【保存】の付与をしていますので、それを半分……いえ、二十冊くらいに減らせば、一日一基のエアコンの付与も、可能かもしれません」
「本当かい!?」
「ええと、はい、多分……やってみないとわかりませんが、おそらく」
「勿論、無理になんてしなくていいよ。それに関してはオーレリア君に文句が行かないように徹底するからね。ありがとう、本当にありがとう」
よほどせっつかれたのが辛かったのだろう、目元に涙まで滲ませて礼を言うジャスティンに、レオナもほう、と小さくため息をついた。
「どの書架の司書も、本当に圧が強くてね。朝から夕方まで司書たちがかわるがわる館長室を訪れては、自分の書架がどれほどエアコンを必要としているのか熱弁していく日が続いているんだよ……」
「そうなんですね……あの、ジャスティンさんは、大丈夫ですか?」
「ああ、うん、まあ私は、これが仕事だからねえ」
そう言ったものの、先週はほとんど食事が喉を通らなかったよ、と付け加えられる。
それはもう、大丈夫ではないだろう。
「夏に食事ができないと、汗が出なくて体調が悪くなってしまうことがあるので、塩と水分はできるだけ摂ってくださいね」
夏の王都はそれなりに暑い。館長室にだってまだエアコンはついていないし、八基とは九つある図書館の書架からすでに設置された総記を抜いた数だ。自分のことは後回しにしていることになる。
熱中症や脱水などを起こしてはよくないだろうと思ってそう言うと、ジャスティンは懐からハンカチを取り出し、目頭を拭った。
「オーレリア君は優しいねえ。司書たちとは長い付き合いなのに、誰も僕が痩せたことにすら気づかないんだよ」
「仕方ありませんわ。みんな、自分たちの書架が快適になれば、ますます仕事が捗るとしか思っていませんもの」
「あの、よろしければ、館長室のエアコンも一緒に付与しますけど」
「ああ、うん、嬉しいんだけどね。筐体を作る資金はなんとかやりくりできたけど、これ以上職人たちを過重労働させるわけにもいかないからねえ。私は時々、エントランスで涼むことにするよ」
「でしたら、適当な金属に【冷】を付与して、そこにファンを当てたらどうでしょう。構造としてはエアコンと同じなので多少は涼しくなりますし、湿度も下がると思います」
ファンは【回転】を付与した扇風機のようなもので、こちらの世界でも大きな商会では取り扱いのあるものだ。大きなたらいに【冷】を付与した金属を立てて風を当てればいい。
「え、そんなことでいいのかい?」
「エアコンの構造って、冷たいものに風を当てて結露させるだけなので、基本的にはすごく簡単なんです。広い書架と違って執務室くらいの広さなら、数時間に一度溜まった水を捨てるくらいで済むと思います」
前世では冷媒や送風に精緻な技術が必要な家電だったけれど、こちらには付与という便利な技術がある。ジャスティンは目を輝かせて小さなメモ帳にすらすらとメモを取っていた。
「それならすぐに手配できるね。冷やす金属は何でもいいのかい?」
「銅が一番向いていると思いますけど、ガラスの板でも、錆びないよう加工すれば鉄でも大丈夫です。ガラスにする場合は割れないように【強化】の付与も入れた方がいいと思います」
「それならいっそ、エントランスに排水機構を備えたガラスのオブジェを置いてそれを冷やしてしまうのもいいかもしれませんね。涼し気ですし、景観も良いでしょうし」
「いやあ、とても美しいと思うけれど、そうすると冬は凍えるくらい寒くなってしまうだろうからねえ」
「魔道具は一度作動すると付与が解けるまで同じ動作をし続けるのが、難点ですね」
「付与はとても便利な技術なんだがねえ……まあ、無いものをねだっても仕方がないよ」
ファンなら大手商会に注文すれば比較的手に入りやすいものであるし、【冷】は付与術師ならば基本的には誰でも使うことができる。最も手っ取り早い解決法といえるだろう。
「お役に立ててよかったです。あの、私はそろそろ作業室に戻りますね」
「あ、待って待って、オーレリア君にはいつもお世話になっているから、これをどうぞ」
ジャスティンは先ほどより活き活きとした様子で立ち上がり、棚から綺麗な布に包まれた箱を取り出す。テーブルの上で布を取ると、中は木箱で、その中には焼き菓子が丁寧に並べられていた。
「あら、ボヌール・ドゥスールの焼き菓子ですね。季節の果物を砂糖漬けにしたものが練り込まれていて、とても美味しいんですよ」
「頂き物なんだけどね、僕はほら、多少縮んだとはいえ、このお腹だからねえ。妻にも心配されてしまっているから、しばらく甘い物は控えようと思ってね。オーレリア君、甘い物が嫌いでなかったらどうぞ」
「ええと、いいんでしょうか」
「置いておくと、館長が誘惑に負けてしまうかもしれませんし、館長のお腹のためにもなりますよ」
「そうそう、ってレオナ君ひどいなぁ」
「あら、ふふふ」
砕けた雰囲気にオーレリアも肩から力を抜いて、ありがたく受け取ることにした。
オーレリア自身お腹周りが気になるところではあるけれど、運動量を増やすなどして対応すればいい。
「それと、これも渡しておくね」
そう言って、ジャスティンが手渡してくれたのは一冊のノートだった。図書館の本とは違い表紙まで植物紙で作られたもので、表にはバーリー・バールベル銀行と入っている。
「ええと、これは」
「預金通帳だよ。オーレリア君に支払う金額が大きくなってきたから、口座があったほうがいいと思ってね。八基分のエアコンの付与の報酬も、先に入れておいたからね」
ノートを開いて、そこに書いてある金額に驚いて顔を上げ、もう一度数字の桁を確認する。
庶民が贅沢をしなければ、二年ほどはゆとりをもって暮らせるくらいの金額が入っていた。
「あの、こんなにいいんでしょうか」
「初めての魔道具だから、どれくらいが適正か分からなくてね。これについては技術工学の書架のナタリエ君に、これくらいが妥当だろうと計算してもらったのに、まとめて付与してもらうボーナスもすこしつけさせてもらったから、大丈夫だよ」
エアコンの付与は主に【冷却】と【結露】、【吸気】と【排気】の四つを組みあわせたものだ。オーレリアの感覚では、本への【保存】の付与四冊分程度の認識なので、少し怖くなる。
「遅くなりましたが、当家の試作機のお礼も同じ額の小切手を用意させてもらいました。アリアが自分の部屋にも絶対に欲しいというので、今別口で筐体を作っているのですが、オーレリアさんがお休みの日にでも、また来ていただけませんか?」
「それは勿論、お休みの日ならいつでも」
「これからは【保存】のお給料も小切手で発行するから、小切手と通帳を銀行に持っていけば口座に記入してもらえて、お金の出し入れも自由にできるからね。ちょっと面倒だと思うけど、盗難なんかの心配もなくなるし、そっちの方がいいかなと思うんだ」
「あの、ありがとうございます、すごく助かります!」
私設図書館から始めたアルバイト代や、ナプキンの代金もそれなりの金額になってしまい、大量の現金をどうしたものかというのはここ最近のオーレリアの悩みだった。
銀行口座は個人で作るにはハードルが高く、一定の財産や確かな身分が必要になる。住所不定アルバイトのオーレリアは、審査の時点で弾かれるのが目に見えていた。
連泊の場合、部屋の掃除は自分でするのが鷹のくちばし亭の決まりなので、すぐに使う現金以外は小箱を用意してはお金を詰め、【封】を付与してベッドの下に隠すという大変危なっかしくも原始的なやり方をしていたけれど、銀行に預けられるならば安心できるというものだ。
通帳は手書きであり、金額の欄に最初に振り込まれた数字が、銀行の担当者の欄にサインが入れられている。こちらの世界の通帳を見るのはオーレリアも初めてだが、こうして入出金の都度、記入とサインを行う方式なのだろう。
「エントランスのエアコンは、どこの商会で購入できるのかと問い合わせも多くてね。司書たちには誰が付与しているかは口止めをしているし、守秘義務があるからでかわしているけど、本当にそれでいいのかい?」
「はい、元々はお仕事として始めたことではありませんし、他に依頼されても、私一人では対応できませんので……」
王立図書館の来館客は、ほとんどが裕福な商家の者か、さもなくば貴族である。真正面から同じものを作るように言われた場合、断れる気がしない。
「うちとしては【保存】の仕事を続けてもらえればすごく助かるけど、こうした仕事は実入りがいいだろう? 悪い気がしてしまってね」
「館長、オーレリアさんがいいと言っているのですから、いいじゃないですか。それに、オーレリアさんの性格だとあっという間に悪い貴族に捕まって、利権をがっちり握られてこき使われるなんてこともあり得ますし」
「オーレリア君は、優しいからねえ。分かるよ、断れない仕事は、本当に辛いよね……」
ジャスティンはうんうんと頷くと、胃の辺りを撫でて、草食動物のようなつぶらな瞳でオーレリアを見た。
まるで同病を相憐れまれているような気がしたけれど、あながち間違っていないのだろう。
「すみません、色々と気遣っていただいて」
「いやあ、何かとお世話になっているしね。もしエアコンの製作をお仕事にする時は、特許や権利に強い弁護士も紹介するからね。お互い頑張ろうねえ、オーレリア君」
何を、とは言われなかったものの、ジャスティンの気持ちは伝わった。
だからしっかりと頷いて、「はい」と答えることしかできなかった。




