27.兄弟の会話と痛む過去
夏を迎えた王宮の中庭は、今が盛りを迎えていた。
庭師によって整えられた庭には花が咲き乱れ、美しく整えられたトピアリーの緑が目にも鮮やかだ。
普段は散策を楽しむ貴族や手入れをしている使用人が少しはいるものだが、今は人の気配はなく、庭木の枝にとまった小鳥が鳴き、かささっ、と小動物が走り抜ける微かな音が時折響くだけだった。
「申し訳ありません、兄上。あんな場所で呼び止めてしまって」
そんな中庭の中心部まで歩みを進め、やや気まずい沈黙が落ちていた二人の間に、先に声を発したのはアイザックだった。
「殿下、どうか私を兄と呼ぶのはおやめください。周囲に示しがつきません」
「今は、誰もいませんよ。僕、ちゃんと人払いしてきました。今だけは、いいじゃないですか」
「成人を迎えられ、今日のように公務にも携わるようになったのでしょう? 王族は民の規範とならねばなりません。私はもう、殿下に兄と呼ばれる立場でもありません」
「……王族でなくなったら、僕は兄上の弟ですらなくなってしまうのですか」
拗ねたように言うアイザックは、本当に子供の頃から変わらない。
苦笑して、周囲の目に届くところに人の気配がないことを確認し、そっとふわふわの淡い金の髪を撫でる。
王室から離れて八年。あの天真爛漫で権謀術数などから遠いところにいた弟も、一人前に人払いなどするようになったらしい。
「困った弟だな、アイザック」
「兄上!」
衝動的に抱きしめられて、何度か背中を叩いて落ち着かせてやる。そういえば、王宮から出る日の前日も、泣いて引き止めるアイザックをこうして宥めたものだった。
「兄上、お元気でよかった。いつも心配していました。ダンジョンの攻略も、おめでとうございます。僕は兄上を、誇らしく思います。それから、父上を止められなくてごめんなさい。レオン兄上はそっとしておいた方が喜ばれるって、ヴィンス兄上と二人がかりで説得したんですけど、頷いてはもらえませんでした」
会談の最中はそれなりに自制していたのだろう。言いたかったことを全部口から吐き出すように捲し立てられて、苦笑する。
「そうか。ヴィンセントは元気か?」
「はい、今日はどうしても外せない公務があって顔を出せませんでしたが、兄上に会いたがっておられました」
上の弟のヴィンセントは、今年十八になるはずだ。成人王族としての仕事も増えて、そろそろ妻を迎える頃合いでもあるだろう。
ヴィンセントと、その二つ年下のアイザックとは、共に過ごした時間はそう長くない。けれど昔から、母親違いの兄であるウォーレンに対しなにくれとなく兄上、兄上と慕ってくれる、可愛い弟たちだった。
東屋に入り、ベンチに腰を下ろす。アイザックは気まずげに膝の上で拳を握り、少し俯きがちだった。
「父上は、母上が亡くなってからは特に、お酒が入るたびに兄上を手放すべきではなかったとこぼすようになりました。陞爵すれば、兄上は高位貴族ですから、冒険者をやめて貴族として宮廷の仕事に就いてもらいたいんだと思います。廷臣になれば、今よりずっと会う機会が増えるでしょうし」
「困ったお方だ……」
「僕もヴィンス兄上も、その方が嬉しいんですけど、兄上はお嫌ですよね……」
嫌というよりも、不可能だ。
元々ウォーレンの王族としての籍は非常に危うく、曖昧なものだった。八年前、成人した直後に自ら王族籍を抜けると宣言した時は、周囲はさぞ安堵したことだろう。
とっくに王宮を離れ故郷の南部で暮らしていたにも関わらず、突然だった母の死も、その後ウォーレンの周囲で起きた不可解な出来事の数々も、宮廷の空気を尖らせ無用の軋轢を生むばかりだった。
今更宮廷に戻ったところで、最初から自分の居場所などない。未練もないけれど、それを信じてくれる者など、このきらびやかな宮殿にどれほどいるだろう。
母親を謀殺され、身分を奪われ追い出されたも同然の王子が、正妃が死んだのをいいことに舞い戻り、父王に取り入って何やら企みを抱いているに違いない。そう考える者の方が、ずっと多いはずだ。
王宮に自分の戻る場所などどこにもない。いや、最初からここは自分の居場所ではなかったのだ。
何も言わずとも、じっと目を見れば、それでアイザックには答えは分かったのだろう。申し訳ありません。そう呟くように言った。
「父上は、これからも説得してみます。元々兄上に何もしてあげられなかったとご自分を責めていらしたところにエディアカラン攻略を聞いてからは、とても頑なになってしまっているので、時間がかかるかもしれませんが」
でも、と慌てて付け足すように、アイザックは顔を上げる。
「国外への出奔は、もうしばらくお待ちください!」
「アイザック……」
「父上も、時々兄上の噂を聞くだけでとても誇らしそうに、嬉しそうにしています。僕とヴィンス兄上もそうです。――何より、兄上と、二度と会えなくなるのは嫌です!」
「……ああ、わかったよ。私こそ頑なな態度をとって、すまなかった」
甘いのは、自分でも分かっていた。
父が自分の存在を諦めるか忘れてくれない限り、とっとと尻尾を巻いて逃げ出した方が後顧の憂いを絶つことはできる。
とっくに籍を抜いたとはいえ、そして仮初であるとはいえ、元王族として、現在はこの国の貴族の一員として、国に禍を招く可能性があるなら、避けるのが正しい判断だ。
そうと分かっていたのに、唇をぎゅっと引き締めて涙を落とす弟に、八年前のまだ背も伸び切らなかった頃の姿を重ねて、何も言うことができなかった。
※ ※ ※
馬車に戻ると、ライアンは行儀悪く座面に足を投げ出し、腕を頭の後ろで組んだ体勢でウォーレンを待ってくれていた。
「よ、お疲れさん。――本当に疲れた顔をしているな。大丈夫か?」
「なんとか」
ライアンがこんこん、と御者席側の窓を叩くと、ゆっくりと馬車が動き出す。このまま東区の冒険者ギルドまで移動して、一応そこで今日の仕事は終わりだ。
「そんで、どうする? いっそ陞爵して国政に乗り出すっていうのも、悪くないんじゃないか?」
宮廷を裏から牛耳るつもりがあるなら、手を貸すぞ。笑いながら言われて苦笑を返す。
ライアンにそんな気がないのは分かっているが、やろうと思ったらできそうなのが、相棒の恐ろしいところだ。
「からかうなよ。そんなつもりはない」
ライアンとは長い付き合いだ。ウォーレンの内情についても、その性格もよく理解している。ああやって弟に呼び止められたあと、どんな話をしてどんな結果になったのか、聞かずとも大体のところは想像できるだろう。
ウォーレンはまだ王位を継ぐ前の、王子の一人だった父と、その愛妾である母の間に生を享けた。
母は南部の領地のひとつの管理を任された代官の家の出で、南部に視察に来ていた父と出会い、恋に落ちたのだという。
制度上はすでに貴賤結婚を禁じる法は形骸化していたものの、ただの貴族と平民ならばともかく、直系王族だった父と母の結婚は難しいことが多かった。
王族が愛妾を持つのは特に咎められることではない。当時、年の離れた兄が二人いて、王位継承権から遠かった父は母を王宮に迎え、実質妻として慈しんでいた。
まだ幼かったけれど、ウォーレンもその頃のことは覚えている。離宮を与えられた母と自分の元に、父は滅多に日を跨ぐこともなく通ってくれていた。
右腕に母を抱きしめ、膝に自分を乗せて、その両方にキスをくれるような、愛情深い父だった。
何も知らず、だからこそ幸福だった日々の記憶は、今となっては思い出すたびにほのかに苦い。
そんな家族に暗雲が立ち込め始めたのは、いつ頃だっただろう。
正妃を迎えた皇太子と第二王位継承権を持つ伯父の二人にいつまでも後継ができなかったことで、次第に王宮に重たい空気が満ちるようになった。
二人とも正妃を迎えすでに十年が過ぎて、王子も王女も生まれない中、ウォーレンを得ていた父に身分に相応しい正妃をという流れになったのは、直系王族の義務として、どうしようもないことだったのだろう。
直接聞いたことは無かったけれど、母もそんな日が来る覚悟はしていたのだろうと思う。
第三王子の正妃として迎えられたのは、友好関係を結んでいる異国から迎えられた王族の姫だった。ウォーレン自身まだ子供だったが、アイザックとよく似た天真爛漫な、まだ少女といえるような年頃の姫君だった。
第一王子が事故で、繰り上がりで皇太子になった第二王子が流行り病で次々とこの世を去った直後、父と正妃の間に生まれたのが6つ年下の弟、ヴィンセントだ。待望の、宮廷が強く望み続けた「正しい直系の王子」の誕生だった。
その頃から、母とウォーレンの周りで不審なことが起り始めた。
ウォーレンの親友でもあった離宮の番犬が、餌を吐いて死んだ。母が愛でていた花壇の花が一晩で枯れ果て、離宮の窓に石を投げ込まれ、近くにいたウォーレンが怪我をした。
公務でしばらく王宮を離れていた父からの贈り物として届いたチョコレートに口をつけた母が三日三晩、高熱を出して寝込む事態が起きた。父はそんなものは手配しておらず、徹底的な捜査を指示したが、持ち込んだらしい離宮付きの召使の一人が不審な死を遂げたことで、そのチョコレートがどうやって母の元に届いたのか明らかにならないままだった。
そうして、身の危険を感じた母は九つの誕生日を迎える前のウォーレンを連れて、南部の実家に戻ることになった。
それから十三歳まで――母が不審な死を遂げ、ウォーレンはそこから三年間、成人して離脱を宣言するまで王宮で暮らしていたが、その間も色々なことがあった。
両親との思い出はあっても、ウォーレンにとって、王宮は未だに馴染まない場所だ。
「今からひとつ爵位が上がるとしたら、侯爵だろう? 侯爵位といえば傍系王族の王女殿下も迎えられる身分だ。案外やんごとなきお方は、それが目的かもしれないな」
もうお前に危険はないだろうし。そう付け加えた声は、おそろしく皮肉気なものだ。
宮廷は権謀術数が蠢く場所で、様々な思惑が入り乱れ、それぞれが自分とその家の利益のために暗躍している。どこでどんな意図が絡み合っていて、どのように表出するのか読み切ることは難しい。
だから、父の正妃が、母と自分を謀殺しようとしていたという証拠は、どこにもない。
はっきりと分かっているのは、八年前、十六で身一つで王家を出ると決めたウォーレンに、王位を継いだ父は跡継ぎに恵まれず直系が断絶し、領地ごと爵位が国に返還されたグレミリオン伯爵家を与えると宣言した。それに最後まで反対していたのが、正妃エミリアだということだけだ。
そのエミリアも数年前、病を得てこの世を去った。
何が真実なのか今更掘り起こしても仕方がないし、母が帰ってくるわけでもなく、幸福だった日々を取り戻せるわけでもない。
真実など、誰も幸せにしない。
だから、呑み込み切れないものを呑み込んで、それが時々、腹の中でひどく痛む。
柔らかい布を収めたポケットを上着の上から押さえ、込み上げる物を、今日もただ、呑み込んだ。




