20.姉の立場と妹の気持ち
折角の休日だったというのに、疲れを滲ませた様子のオーレリアを帰宅の馬車に乗り込むまで見送り、屋敷に戻ると姉はまだ応接室にいた。
応接室の空気はひんやりとしていて、乾いている。オーレリアを見送って戻ってきただけだというのに僅かに汗ばんだ肌から汗が引いていき、肌着が肌に貼りつく不快な感じもあっという間に解消された。
「外から戻ると、エアコンの良さが余計にわかりますね。本当にしばらくここで寝起きしちゃおうかな」
「アリア、あなた、何を考えているの」
静かな声で聞かれて、控えていたメイドに紅茶を淹れるように告げる。
「ゆっくり淹れてちょうだい」と付け加えたのは、しばらく人払いをという意味だ。
自分と同じ水色をした姉の瞳は、今は静かにこちらを見据えている。
貴族の家の姉妹としては、姉は大概自分に甘く多少の我儘はしょうがないわねえですませてしまうけれど、今は姉としてではなく、ウィンハルト家の次期当主としての問いかけだ。
分かっていて、おどけるように小首を傾げ、微笑んだ。
「お姉様、何か怒っています?」
「腹を立てているわけではないわ。ただ、あなたが何を考えているか分からないのよ。オーレリアさんを説得してくれると思ったからこそ退席を許したのに、部屋に閉じこもっていたかと思ったら話の続きもせずに帰してしまうなんて」
「オーレリアさん、ちゃんと持ち帰って考えますって言っていたじゃないですか。今日言われて即答しろなんて、そもそも乱暴な話だと思いますよ」
帰宅の挨拶をして、何か言いたげなレオナに申し出をすぐに断ったことを詫び、少し考えさせてほしいとまで言っていたのに、姉は不満らしい。
「しばらくは個人での受注も個人の紹介以上には受けない、新しい開発も控えるとまで言っていたではないですか。オーレリアさんにだって、考える時間は必要ですよ」
「そうしている間に他所に取られてしまったらどうするの。あれだけの腕の、しかもフリーの付与術師なんていくらでも欲しがる家はあるわよ」
「あれだけの腕の、「使える」付与術師は、ですか?」
「アリア!」
レオナはソファから腰を浮かしかけ一瞬声を荒らげたものの、すぐに冷静さを取り戻して座り直し、指先で額を押さえ、細く長く、ため息を吐いた。
「アリア、付与の魔道具の効果を止めた後、任意に再開できる仕組みが、どれだけの公共の利益を生み出すか、あなたには分かっているの?」
「そうですねえ。私なら真っ先に環状ではなく、高速で走るトラムを作ります。動き続けることを前提として環状に作るしかなかった線路を真っすぐに伸ばし、かつ停止することもできるとなれば主要な駅と駅の間の行き来は極端に移動時間が短縮できるようになるでしょうね。それから、船にスクリューをつけて運搬技術も向上させますね。領地に港がある貴族は喉から手が出るほど欲しがるでしょうし、この時点で物流は革命を起こすはずです」
ゆっくりと紅茶を傾け、にっこりと笑う。
「それから、二十年前に北の都市で大火を招いたことで製造禁止になった【温熱】を付与したストーブも、改めて議会に働きかけて製造できるようにします。火事なんて暖炉でも起きる時には起きるんですから、任意に効果を切ることができるようになるなら製造禁止にする必要はないという方向で。凍える人が一人でも減るとなれば、優しい人ですから、きっとオーレリアさんも喜ぶでしょうね」
他にも、「付与はその効果を止めることができない」という理由で利用されていない機構はいくつも思いつく。
全てが実現すれば、とんでもない技術革命になるだろう。
「現存する【出水】の術式を刻んだ魔石をオンオフすることができれば、とても便利ですね。水が出続けるせいで持ち運びもできず、現状は据え置きの水源にする以外利用法はありませんし。――ああ、独占していた付与術師が亡くなって以降【出水】は術式が失われているそうですが、それだってオーレリアさんなら復活させることができるかもしれませんね?」
オーレリアに強い野心がないことは、少し話せばわかることだ。その上であれほど多彩な術式を手に入れているのだから、彼女は正真正銘、本物の天才、いや、人の枠を超えた付与の神である。
方向性を示せば現在失われている術式だって、新たに開発し直すことさえできるだろうと容易に想像ができるほどに。
彼女は、あまりにも利用価値が高すぎる。彼女の価値を知れば誰だって、我が物にしたいと願うだろう。
「アリア、私だってオーレリアさんを悪い意味で利用したり、あの無防備さに付け込もうと思っているわけではないわ。けれど、私がそうしなくても早晩他の誰かがそうするでしょう。その人が善人であるという保証などどこにもないわ。そしてあの才は目立つし、隠しておけるものでもない」
「そうなったら多分、オーレリアさんは王都から出ていくと思います。誰にも行き先を知らせず、ふいっと、最初からいなかったみたいに」
レオナの眉間にうっすらと皺が寄るのに、皮肉っぽく笑う。
「オーレリアさんは人が好いですし、お姉様の言うように無防備な方ですけど、馬鹿な人ではありませんよ。功名心もなければ未練があるほど王都で積み上げたものもないのだから、引き留める術はありません。そうして流れた先で、今度はその爪を隠してもっと上手くやるでしょう」
元々が控えめな人だ。付与術師たちが地味だと嫌う【保存】を丁寧に掛け続け、仕事がもらえて助かると嬉しそうに笑う。贅沢をしたいとも思っていないのはその振る舞いを見れば明らかだ。
オーレリアは、偶然その一部を覗かせたところを見つけることができた、まだ石に包まれた宝石の原石のようなものだ。
一度見失えば、その輝きを消して周囲に埋没し、再び見つけ出すのは困難を極めるのは目に見えていた。
そして姉は、オーレリアの纏う邪魔な石くずを綺麗に除去して磨き上げたいのだろう。
「……あれだけの才能を、みすみす埋もれさせるわけにはいかないわ」
「それをオーレリアさんが望んでいなくても?」
「能力のある人は、その力を社会に還元するべきよ。彼女がその気になるだけで王都の、いえ、この国の生活の水準は何段も跳ねると分かっていて、放ってはおけません」
レオナは決して私欲でそう言っているわけではないのは、妹であるアリアには分かっている。
例えばオーレリアの能力をレオナが持っていたとしたら、名誉も対価も度外視で、喜んでその力を国家の礎として使うだろう。
もしもアリアがその能力を持っていれば、立場を慮り、心をすり減らすことのないようにマネージメントしながら、そうさせるはずだ。
レオナは、妹である自分を大変可愛がってくれている。オーレリアをある意味実の妹と同じように扱おうとしているだけ、レオナとしては最大限の心遣いをしていることになる。
それでも、姉は貴族の次期当主であり、私心より公益を重視する人だ。血縁といえどもそこに揺らぐことのない信念がある。
――だから、私は友人として、その気持ちを尊重しよう。
出会う順番が違っていれば、レオナの考えの方に迎合していたかもしれない。
けれど、もうオーレリアが素朴ながらおずおずと王都の暮らしを楽しみ、少しずつ前向きに変わろうとしている人であることをアリアは知っている。
「今のオーレリアさんに何を言っても仕方がないです。あれだけの才能と多彩な付与の術式を持ちながら、王都にきてから作ったのが赤ちゃん用のおむつと花の時期用のケア用品という人ですよ。――功名心も名誉欲もない人に貴族の後見だの身の安全だのと言っても、危なくなる前に逃げるという選択に行くだけです。実際、そうなっていました」
「………」
「今のオーレリアさんに必要なのは、王都から離れたくなくなる理由を作ることです。関わりを望むたくさんの人とか、愛着のある家やお気に入りのお店とか、たまに会いたくなる相手とか、家族とか」
いっそ予定通り結婚していればその家ごと取り込むことも可能だっただろうにと思う反面、彼女の価値を知らないまま石くずのように放り捨てたヘンダーソン商会の一部にならずにすんでよかったと心から思う。
少なくとも、元婚約者とやらがオーレリアに相応しい男ではなかったことだけは明らかだ。
「……いっそ、功名心や名誉欲があってくれれば、楽だったのだけれどね」
「オーレリアさんがそんな人だったら、私たちに出会う前に大きな商会の正妻に納まって今や音に聞こえる名声を手に入れていますよ。不利な条件で付きつけられた婚約破棄にしがみつかず、宮廷付与術師すら嫌がる地味で安価な付与を毎日こつこつと続けられて、自分の持っているもので周りを助けようとする、そんな人だから出会えたのではないですか」
どれだけ輝かしいものを差し出しても、それが相手の欲しいものでないならば、何の意味もない。
「逃げられたら彼女は今度こそ、どこにでもいる凡庸な付与術師として社会に埋没して生きていくでしょう。いえ、付与術そのものを封印して一市民として生きていく可能性すらあります。そうならないように、時間をかけて外堀を埋めたらいかがですか」
アリアは別にレオナの邪魔をするつもりはない。レオナの目的がオーレリアの気持ちの向かう先に沿うものならば、むしろ応援したいくらいだ。
だから精々、彼女の友人として、そのように誘導していくと決める。
「ともあれ、今日の応接室はとても居心地が良いです。それで良いではありませんか。――欲しいものはゆっくりと手筈を整えて。急いては事を仕損じますよ、お姉様」




