169.朝焼け色の付与術師
ステッキをついて普段と変わらぬ態度を装いながら馬車に戻ったものの、長く傍に仕えている侍従のジェイコブは一目で主の異変に気付いたらしく、慌てたように駆け寄ってきた。
「グレゴール様、どうなさいました!」
「人に酔ってしまったみたいなの。劇の途中ではあるけれど、今日はもう屋敷に戻るわ」
「はい、すぐに。……馬車の中で少しお休みになりますか?」
「止まっていて話しかけられても面倒だし、ゆっくり走ってちょうだい」
てきぱきと指示を出す妻のオリヴィアは、なんとも頼りがいがある。侍従に肩を借り馬車に乗り込むとタイを緩めて背もたれに体を預け、グレゴールはふう、と息を吐いた。
貴族たるもの、衆目のある場では弱った姿を晒すわけにはいかない。背筋を伸ばしてここまで移動したものの、隔離された馬車の中に入るとどっと気が抜けたようだった。
「今を時めく歌姫の歌を聞きたかったけれど、やっぱり、今夜はやめておいたほうがよかったわね」
「まったく、情けないものだ。若い頃は旅から戻って夜通しパブで浴びるようにビールを飲んだあと、苦いコーヒーを一杯飲んで議会に出向いたものを」
苦々しくぼやくと、オリヴィアはむしろそれで安心したように苦笑しながら、ふう、と息を吐いた。
「もう若くないのだから、無茶も利きませんよ。今夜は屋敷に戻って、ゆっくりしましょう」
「ああ、そうだな」
そう話している間に馬車は動き出し、車輪が王都の石畳の上を走る細やかな振動が伝わってくる。
数日前、本領から王都に到着したばかりで、長旅で疲れが溜まっていたのだろう。旅装を解いてからは紳士クラブに出向いて久しぶりに会う友人や知人と近況を報告しあったり、友人宅に訪問してゆっくりと最近の王都の動きについて話を聞いたりとあまり休めていなかった。
旅には慣れているつもりだったが、オリヴィアの言うように、若い頃のようには中々いかないらしい。
ボックス席から出てコーヒーでも飲もうかとオリヴィアと話していたところ、くらりと来て半ば倒れるようにベンチに座り込み、そのまま立てなくなってしまった。幸い座り込んだところは誰にも見られなかったようで、オリヴィアが傍に寄り添い親密な雰囲気で話しかけてくれたので、誰に声を掛けられることもないまま幕が上がるまでやり過ごすことができたけれど、今夜騒ぎにならなかったのは、グレゴールにとって幸運というべきだった。
劇場にはなにかと知り合いも多い。あのグレゴールも、寄る年波には勝てないらしいと面白おかしく噂されるのも業腹である。
オリヴィアが少しだけ開けてくれた窓から入り込んでくる風が心地いい。緩めた襟元に当てた、【冷】を付与したハンカチはひんやりと冷たく、火照った頭を冷やしてくれる。
「それにしても、まさかあんなところで出くわすなんてねえ」
「ああ、少々誤算だったな」
名と特徴は資料では知っていたが、こんな邂逅を果たすとは思っていなかった。
オーレリア・フスクス。
多彩な付与術を操り男も女も魅了する数多くの商品を開発し、瞬く間にヒットさせ続ける辣腕の付与術師。税率で財務局を退け、国家事業に相当する発明を内務局が口出しする隙も与えず国に属さぬ二大ギルドと提携をとりつけて独立した部門として立ち上げ、象牙の塔まで引き込んだ。
訳ありの高位貴族であり英雄であるプラチナランクの徽章を持つグレミリオン侯爵と電撃婚約を成し、人を寄せ付けぬザフラーン王家の妹姫と友誼を結び、今王都で最も話題の高い商会となりつつあるアウレル商会の代表という印象とはまるで違ったものだった。
「あの功績に赤毛の若い女と言われると、どうしても苛烈なイメージだったからな」
「想像よりずっと、気立てのいいお嬢さんだったわねえ。それに赤毛というより、夜明けの空のような優しい色だったじゃない? 余計な先入観を抱いてしまうし、調査資料はもっと正確に書くように言っておかなければいけないわ」
グレゴールは、人を見る目にある程度の自負はあるつもりだ。
妻のオリヴィアは社交界という大いなる魔窟を涼し気に渡り歩いてきた。グレゴールには見えないものを見て、察する能力も高い。
だが彼の付与術師に関しては、どうやら互いの印象はしっかりと一致をみているようである。
ただ困っている者に親切にしようという、素朴で自然なふるまいだった。共にいた男は多少こちらを警戒していた様子ではあるものの、手中の珠のように守っていた彼女の元から一時でも離れて水を買ってくるお人好しな部分もありそうだ。
「なんとも危なっかしい二人でしたね」
「ああ。資料を見る限り、アウレル商会はこれからますます大きくなるだろう。もう少し、色々と身に着けたほうがいいだろうが」
巨大な渦の中心人物としても、その守護者としても、文字通り「危なっかしい」という印象が真っ先に来る。
「でも、とても可愛らしい二人だったわ」
オリヴィアの声は機嫌が良さそうだ。
グレゴールとは別の意味で警戒心が強い一面を持っているオリヴィアだが、どうやらあの二人が気にいったようだった。
「本性ばかりはどうしようもないけれど、分からないことはこれから身に着けて、武装していけばいいことだもの」
「武装しているうちに、その鎧の脱ぎ方を忘れて中身まで変質していくのもよくあることだがな」
オリヴィアは、くすくすと肩を揺らして笑う。つい斜めに物を見てしまいがちなグレゴールに対して、仕方のない人ねというように。
話をしているうちに大分体調が回復してきた。居住まいを正し、緩めたシャツのボタンを留めてタイを戻すと、馬車が減速し、門の中に入る時の慣れた振動がやってくる。
馬車から降りてジェイコブが開いた扉をくぐると、帰宅の音を聞きつけたらしい上の娘が奥から出てきたところだった。
「お帰りなさい、お父様、お母様。今夜は終幕まで見てくると仰っていたのに、随分早いお帰りではありませんか?」
出迎えてくれた娘は、予定より早い帰宅に少し驚いた様子だった。すでに就寝の準備を終えていたようで、ゆるく波立つ髪をほどき、ガウンを羽織っている。
「お父様が少し体調を崩してしまってね。早めに戻ることにしたの」
「あら、お父様、大丈夫ですか?」
「ああ、人の熱気と香水の匂いにやられただけだから、夜風を浴びたら大分よくなったよ」
娘はほっとした様子で、それからすぐに責任感の強い表情を覗かせる。
「それはよかったです。念のため、今夜は夜酒はお控えになってくださいね」
「いや、移動の途中で仕入れた、楽しみにしているウイスキーがな……」
「いけません。ジェイコブ、お父様に言われてもグラスを用意しては駄目よ」
「かしこまりました」
「おいおい、参ったな……」
長女としては非常に頼もしく、元々しっかりしていた娘だが、こうしたところは年々妻のオリヴィアに似てくるようだ。
「あの子はもう休んだのかしら?」
「部屋の明かりはついているので、起きているとは思いますが、呼びましょうか?」
「いいわ、また明日の朝食の席でも。――ふふ」
「どうかなさったの? お母様」
不思議そうに首を傾げる自慢の長女に、オリヴィアは悪戯っぽく笑う。
「今夜はとても素敵な出会いがあったのよ。途中退場は残念だったけれど、むしろあの出会いでお釣りがくるかもしれないわ。ねえグレゴール」
「ああ、そうだな」
「やっぱり、私たち二人は運がいいわ」
運がいい。それはオリヴィアの口癖のようなものだ。だが実際、彼女と結婚してからというものいいことづくめで、共にいる自分まで運気が上がってくるような気がする。
「あら、なにかいいことがあったんですか?」
「色々と噂を耳にするばかりでは分からないことも多かったけれど、付与術師のオーレリアさん、とてもいい子じゃない。まあ、心配なところもあるけれど、あの子が夢中になる気持ちも分かる気がするわ」
娘は――レオナは驚いたように水色の瞳を見開く。
「王都についてからもバタバタしていたけれど、明日からしばらく私たちはオフだし、ゆっくりアリアと話をするのが楽しみだわ」
「まあ、お手柔らかにしてあげてくださいね。あの子、本当にオーレリアさんに夢中ですし、やっと元気になってくれたんですから」
「そうね、――本当によかったわ」
オリヴィアの言葉に、レオナは苦笑を漏らし、姉の顔で穏やかに言う。
「あの子、お父様とお母様が王都に戻ってくるって聞いてから、何を言われるかと内心焦っている様子でしたので、安心させてあげてくださいな」




