106.帝国の思惑と古い面影
若くして筆頭審議官の座に任命されたニコラスは、随分久しぶりに足早に廊下を進んでいた。
宮廷の部屋は全てその用途が決められていて、高官であっても自由に使える区画というのは多くない。さほど重要でない話ならばそこら中にある柱の陰やカーテンの裏などで済ませてしまうことも多いけれど、今回はそうもいかず宮廷法務官のアーネストとともに早足で廊下を進み、政庁区画に入って一番近い小会議室に飛び込むことになった。
ドアを閉め、風魔法を発動させることで静まり返っていた室内の空気がざわりと動き出すのを確認すると、取り繕うのをやめて、応接用のソファに乱暴に腰を下ろす。
「はぁ、はぁ、くそ、運動不足だな」
「情けないぞ、ニコラス」
「仕方ないだろ……げほっ、宮廷勤めなんて、どれだけ仕事が、詰まってても、外では、優雅に振る舞うのも、仕事のひとつだしさ」
息切れしたままそう言うと、アーネストも向かいの席に腰を下ろす。呆れた表情を浮かべてみせたものの、今が冬でなければ、二人ともみっともなく汗だくになっていたことだろう。
「盗み聞きは警戒しなくていいんだな?」
「ああ、空気を撹拌して音を拾うのを妨害している。隣の部屋から壁に耳を押し当てていても、何も聞こえないはずだ」
風の魔法使いには、顔の横についた二つとは別に三つめの耳があると言われている。
音というのは、突き詰めれば空気の振動だ。ある程度距離があり聴覚では拾えない声や音も、風の魔法使いが集中すれば空気の微細な振動を拾うことによって何を話しているのか、足音や呼吸音から廊下の角を曲がった先からどれくらいの人数がやってくるのかなどを知ることができる。
逆に、そうした盗み聞きを前提とした防諜のために、風魔法使いは空気を複雑に動かすことで音を拾えないようにすることも可能だ。
こうしたやり方は、ニコラスが少年時代に仕えていた人に教えてもらったものだった。
彼は、これを教えてくれたとき、内緒話をするにはいいんだと、緑の瞳を細めて寂し気に笑っていた。
今となっては彼に対して思い出すのは、そんな表情ばかりだ。
幼い少年の決意なりに、生涯この人に仕えお守りするのだと誓ったはずなのに、まさかそれから十年以上も過ぎて、こんな話をするために使うことになるなんて想像もしていなかった。
「あまり時間はない。すぐに始めるぞ」
「ああ、って言っても、どうしたものかね」
アーネストは、表にいる時とは打って変わって砕けた口調で、とんでもないことになったなと肩を落とす。
「【出水】の術式となると、断ることも難しい……というか、持ち掛けられたのはグレミリオン卿の婚約者殿だからな。そもそも臣下の俺たちがどうこうできる話でもないわけだが」
「だが、何もせずに見ているだけというわけにもいかないだろう」
ソファの背もたれにだらしなく体を預け、アーネストはううん、と低く唸る。
「優秀な付与術師に【出水】の付与魔術の組み合わせは、わが国でも喉から手が出るほど欲しいものだしねえ。グレミリオン卿の婚約者でさえなければすぐに宮廷魔導師団にポストを用意するんだが」
「フスクス嬢は商人だ。しかも、あのウィンハルト家が完全後援をしてこんな場所にまで身内を送り付けてくるほどだぞ。宮廷に仕官など持ちかけても、あちらのほうから断るだろう」
「ウィンハルト家のアリア嬢といえば、中央高等学校を首席で卒業した才媛と名高い人だもんなあ。それだけウィンハルト家は本気ということだろうが……」
アーネストの口調は軽いが、政治家としては優秀な男だ。本気で困っているのは間違いない。
ニコラスもまた、頭が痛い状態になったものだと思う。
内海と海峡で隔てられた大陸を支配するザフラーン帝国とは細々とした交易はあったものの、こちらの大陸のどの国とも正式な国交を結んでいない状態だった。
それが崩れ始めたのが、今から二年ほど前、ザフラーン帝国から各国の王家に、縁談の打診が舞い込んでからのことだ。
帝国唯一の姫、セラフィナの輿入れ先をこの大陸の王家から選ぼうと思う。それに伴い、第二皇子カイラムと共に受け入れを希望する国を外遊して回り、セラフィナが最も気に入った相手をその夫とするという通達だ。
歯に衣を着せぬ言い方をすれば、各国の王家を相手にどの国が最もザフラーン帝国との国交樹立に相応しいか天秤にかけて回るという宣言である。
なまじな規模の国ならば、そんな馬鹿な話があるかと一笑に付すところではあるものの、相手は大陸全土を支配し精強な国軍を持ち、帝王が富と権力の全てを独占しているというザフラーン帝国である。
「あの時も、そうだったな」
「うん?」
「帝国から縁談の打診が来た時だ。縁談を受けると答えても、こちらは断る選択肢はなく、どうしたものかと頭を悩ませるばかりだった」
「ああ、あの時も参ったな。幸いなのは帝国が女性は表立った行動をしないしきたりがあるということで、訪問も滞在も内密に行ってくれるというところくらいだった」
結局打診を受けた国のほとんどがセラフィナ姫との婚姻を受け入れたものの、王家の男子が異国の女性に夫としての条件を天秤にかけられた挙句弾かれたという不名誉が表沙汰にならずに済むわけだ。
そうしてこの一年ほど、姫はカイラムとともにゆっくりと大陸の国を巡り、先日レイヴェント王国に到着した。
こちらへの滞在は三カ月ほどで次の国に旅立つかはその時に決めると言われている。つまり、その三カ月でカイラムがこの国なら国交を結んでもいいだろうと満足する条件を与える必要があるわけだ。
第一王子ヴィンセントの正妃、輿入れの際には新たな王妃宮を建設し、歴代の王妃の宝飾品の移譲と、莫大な結納金も用意すると告げてある。
だがそれも、決定打にはならないだろう。
カイラム自身は柔和で丁寧な態度と穏やかな笑みを崩さない青年だが、国と国の規模と国力がイコール政治力だ。
丁寧な口調の下で、こちらを下に見ていることを隠そうともしない。
カイラムが妹が世話になった付与術師に礼をしたいなどと言い出した時は、思ったより律儀なところがあるのだなと多少感心もしたし、自国の民が国外の皇族にそれと知らずに親切にした結果思わぬ褒賞を得たというのは、国交を結ぶことができた際には幸先のいいニュースになると、政治家の目線では思ったものだ。
調べてみればそれがウォーレンの婚約者だったというのは数奇な偶然であったものの、その段階では大きな問題とは言い難かった。
そうして今日、レイヴェント王国の王族からヴィンセントが立ち合いを務めて召喚に至ったが、カイラムがあんなことを持ちかけるとは、誰も想像もしなかった。
「まあ、デモンストレーションだよね。我々の提示した条件ではお話にならないっていう」
「帝国との縁を安く見積もるなと釘を刺したつもりなのだろうな……まったく、いやらしいやり方をしてくれるものだ」
お前たちがすでに失った【出水】など、帝国にとっては平民の付与術師に気まぐれに与えても構わない程度のものだ。
その帝国の唯一の姫を得るのに、もう少し必死に足掻いてみたらどうだ。
政治的な意味でのカイラムの言いたいことは、この辺りだろう。
「しかも、寄りにもよって【出水】とはねえ。カイラム殿下はあのことも分かっていて、その術式を選んだのかな?」
「この期に及んで偶然ということはないだろう」
「調査が終わっていないという形式をとっているけど、私たちはグレミリオン卿からスキュラの魔石を取り上げている状態だしね。ここで婚約者殿が【出水】を手に入れ魔石が必要なくなった時、グレミリオン卿の我々への心証は最悪だろうな」
「それでも、カイラム殿下の申し出を断るわけにはいくまい。むしろグレミリオン卿の婚約者が辞退を望んでも、我々は説得する側に回るより他ない。……面白い話ではないがな」
他国の皇族がぽいと捨てたものを必死で拾うような真似だ。大国の政治家の一角を担う立場としては、屈辱を覚える行為ですらある。
だが、王都周辺は水資源が豊富であったとしても、大陸を見渡せば水に困っている地域はいくらでもある。
歴史を紐解けば、数少ない水源を奪い合って血が流れた事態などいくらでもあるし、未だに日照りが続けば民の不満は蓄積するばかりだ。宮廷も治水事業には積極的に取り組んでいるが、天の恵みは文字通り気まぐれで、人にはどうにもならない時もある。
人が生きていくためにはどうしても、水が必要だ。それを思えば誇りなど犬に食わせてしまえとニコラスは思う。
そんな時に【出水】の付与を行える付与術師がいればどれほど心強いか、論じるまでもない。
まして、こちらの大陸では失伝してしまった術式だ。彼女にはゆくゆくは弟子を取ってもらい、今度こそ術式の継承を行ってもらう必要も出てくるだろう。
「すでに遅きに失している可能性も高いが、議会に働きかけて早急に黄金の麦穂にスキュラの魔石を返還するべきだろうな。どのみち彼の婚約者殿が【出水】を手に入れれば、彼らには必要のなくなる魔石だ。それならばこれ以上心証が悪くなる前に返還したほうが、まだしもマシだろう」
「『あの方』に納得していただくのは、骨が折れると思うけどね……」
「本来ならば決して視野の狭い方ではない。グレミリオン卿が二度と王都に近づかなくなるよりはマシだと、ご再考賜る以外にないだろう」
「しかもその場合【出水】を持った婚約者殿も一緒だろうしなあ。やれやれ、頭の痛い話だ」
「それでも、どうにかするのが我々の仕事だ」
「殿下にもお力添えをいただこう。――いっそ、グレミリオン卿が折れてくれたら、話は全部丸く収まるんだけどね」
「それは、我々の勝手な願いだ。決して外では口にするな。万一にでもあの方の耳に入れたくない」
わかっているさと頷くアーネストを横目に、ずきずきと痛むこめかみを指の腹でぐりぐりと揉む。
一度は追い立てられるように王宮を出され、静かに暮らしていたところで愛妾であった母親は不審な死を遂げ、王宮に戻ったものの居場所はなく。
そうして今度は自らの足で、この場所を出て行った、かつての主を思い出す。
ウォーレン・レオンハルト・グレミリオン。
今は王籍から外れ、王家には存在自体がないものとされていた、元第一王子。
長い時間共にいて色々な表情を見せ合ったはずなのに、今となっては寂し気に笑う顔しか思い出せない、自分をこんな魔窟に残して去っていった人だった。
オーレリアは強い女性に好かれがちで
ウォーレンは厄介な男性に好かれがちです




