105.失われた術式と見えぬ思惑
「【出水】というと、水を出す術式ということでしょうか」
緊張感の強い空気の中、尋ねると、カイラムはええ、と微笑みながら頷いた。
「我が国の領土は広大である分、砂漠の地域も多いので、水に関する術式は何かと重宝するのです。鉱物への付与ではなにも起きませんが、水属性の魔物の魔石に付与を行えばかなり長い間水を得ることができるので、それなりに便利なものですよ」
軽い口調になるほどと頷く。
王都は特に水が潤沢ということもあるけれど、こちらの世界は都会には比較的水道が整備されているし、水属性の魔法使いもいる。
水属性の魔法使いがメンバーにいれば飲料水を持ち運ばなくていいと言われているくらいである。水関係は比較的困ることの少ない問題なのだろう。
それなら少しは気が楽かもしれない。そう思って頷きかけたとき、そっと隣のアリアに手を握られた。
「ア」
リア? と声を出しかけるより早く、水色の瞳にじっと見つめられる。
「オーレリア! なんてひどい顔色なの! 手もこんなに冷たくなって!」
「………」
「本当だ、オーレリア。ひどい顔色だよ。――カイラム殿下、恐れ多くも大変申し訳ありませんが、私の婚約者は緊張が強すぎて、貧血を起こしているようです。恐縮ではございますが、少し休憩の時間をいただけないでしょうか」
反対側に座っているウォーレンも、珍しく大きな声を出して言った。
「それはいけませんね。カイラム殿下、しばし休憩を入れてもよろしいでしょうか?」
「ええ、それは勿論、構いませんよ」
「別室で、温かいミルクでも入れさせましょう。温石と、ストールも」
「お心遣い、感謝いたします、ヴィンセント殿下」
「グレミリオン侯爵家の婚約者ともなれば、王国にとっても重要な方です。突然の召喚で緊張させてしまったこともあるのでしょうし、体を温めて、少し休まれてください。――では、再開は一時間後といたしましょう。カイラム殿下、その間にわが国の農園で作られたワインはいかがでしょうか」
「ええ、是非」
ヴィンセントは穏やかな表情で頷き、控えていた侍従を呼ぶとオーレリアたちを控室に案内するように告げる。
「我々は別室にて、少々政務の確認をさせていただきます。カイラム殿下、ヴィンセント殿下、御前をしばし、失礼いたします」
「ああ、また後で」
あれよあれよという間にウォーレンにエスコートされ、反対側からアリアに寄り添われて、応接間を後にすることになった。
なぜか一緒に応接間を出たニコラスとアーネストは、それではまた後で、と軽く挨拶をして、廊下を反対の方へ早足で立ち去ってしまう。
「あ、あの、ウォーレン。アリア」
「オーレリア、あまりしゃべらないでください。ごめんなさい、そんなに緊張していたなんて、もっと早くに気づいてあげられればよかったのに」
「はい、いえ、あの……すみません」
アリアの視線が先導している侍従に向けられたことで、今は不用意に口を開いてはならないのだと察し、こくこくと頷く。ウォーレンはオーレリアの歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれるけれど、顔を向けると申し訳なさそうな表情だった。
「すまないオーレリア。俺も気を付けるべきだった」
「いえ、私の方こそ……小心者で、申し訳ありません」
控室に入ると、メイドたちがすぐに温石とストール、紅茶と、オーレリアには温かいミルクと蜂蜜を運んできてくれた。
まだまだ寒い日が続いているのでありがたく膝にストールを掛けて温石を載せると、ほっとするほど温かい。
「――やられましたね」
ドアが閉まり、メイドたちの足音が遠ざかると、まずはアリアが忌々し気にそう漏らす。
「あの、アリア。どういうことでしょうか」
事の成り行きに付いて行けずにオロオロするばかりだったけれど、三人だけになって、ようやく聞くことができた。
「……【出水】は、現存している魔道具がいくつか残っていますが、わが国では十年ほど前に独占していた付与術師が亡くなったことで失伝している術式です。魔石への付与なので長く持ちますが、それでも時と共にその痕跡も失われていく、そういうものですが、ザフラーン帝国には残っていたんですね」
「もしくは、同じ効果のある別の術式を元々持っていたか、新たに開発に成功したのか……どちらにしても、国外の付与術師にぽんと与えるようなものじゃないんだ」
ウォーレンも珍しく、苦い表情を隠そうとしない。無意識だろう、左手がお腹の辺りをさすっていて、きゅっと唇を引き締める。
「あの、無知で申し訳ないんですが、【出水】ってそんなに重要な術式なんでしょうか」
オーレリアの生まれ育った東部の街には井戸があちこちに設置されていたし、中心地には水道もちらほらと通り始めていた。
王都に来てからはそれこそ水に困ったことはなかったし、何より、付与による効果は一度入れると魔力で塗りつぶすか効果が抜けるまで作用し続ける。
水が出続ける道具はいかにも使い勝手が悪く思えるし、それほど重要な術式だというのがピンとこなかった。
「そうですね……真っ先に思いつくのは、渇水地方への水源の確保でしょうか。地の魔法使いに大きな穴を掘ってもらって、そこに付与した魔石を放り込んでおけば時間が経過するほど大きなため池を作ることができるでしょう。それでも溢れたら水路を作って隅々まで行き渡らせればいいですし、水はあってこまるものではありませんから」
「王都近くでも、例えば南門の農園なんかはそういう施設があるとすごく助かると思う。南部の乾燥地域は土地はあっても水がなくて人が住めない土地というのがそれなりにあるから、そうした土地への開拓も可能になるし。……というか、多分、カイラム殿下がああ言い出したのは、俺のことを調べたからなんだと思う」
アリアは表情を陰らせるけれど、オーレリアは首を軽く傾ける。
【出水】の術式と、ウォーレンがどう関係するのか、よく解らなかった。
「黄金の麦穂がスキュラの心臓を持ち帰ったのは知っているよね。あれは王都に水路を増やしたと言われるくらいかなり優秀な水源になるんだ。俺とライアンはそれを、南部の渇水地域にあるダンジョンの近くに設置したかった。大きなダンジョンだけど、生活用水が不足しているから人の定住が難しくて、ダンジョンの探索もあまり進んでいない状態なんだ」
「はい」
南部はライアンと、ウォーレンの母の故郷だったはずだ。彼自身少年時代は一時期そこで暮らしていたと聞いたことがある。
故郷のために何かしたいと思うのは、ウォーレンらしいとオーレリアも思う。
「でも、今そのスキュラの心臓は、まだ王宮のどこかに置かれたままだ。名目は調査のためってことにされているけど……それを渡したら、俺が王都から逃げ出さない口実をひとつなくすと、思われているんだと思う」
「……それは、そんなこと、許されるんでしょうか」
冒険者の戦利品は、その冒険者のものだ。そうでなければ危険を侵して探索をする仕事として成り立たなくなってしまう。
黄金の麦穂が一流の冒険者パーティだったとしても、最下層の踏破は決して楽なものではなかったはずだ。
その成果を個人的な感情で取り上げて、未だに戻していないとは、道理に適っているとは思えない。
「うん、本当は駄目なんだ。駄目なことが、まかり通っている。おかしいよね」
「ウォーレン……」
「オーレリア、対外的にはその婚約者であるあなたに【出水】の術式を与えるということは、要するに、スキュラの魔石は必ずしもグレミリオン卿に必要なものではなくなるということです。【出水】を付与した魔石がひとつふたつでは、その効果はスキュラの魔石には敵わないでしょうが、少し調べればオーレリアが図書館での仕事やナプキンの事業で大量の付与を行っていたことはすぐに明らかになるでしょうから」
【出水】の術式と、大量に付与を行う魔力を持つ付与術師のオーレリアは、スキュラの魔石の代替品になるというのは理解できるけれど、それでも何故? という疑問は解けない。
これでは、ウォーレンとその父の和解を促すより、さらにこじれさせようとしているようではないか。
「カイラム殿下が……いえ、ザフラーン帝国が何を考えているのかまでは判りませんし、この状況がどこまで偶然の産物かも怪しいですが、この国で唯一【出水】の術式を持つオーレリアと、その婚約者であるグレミリオン卿の存在感はこの先増すばかりになるでしょう。オーレリアは宮廷の政争に巻き込まれかけている、そういう状況だと思います」
それを一時でも遅らせるために、強引にあの場から連れ出してくれたということらしい。
政争。
聞き慣れない言葉に動揺するどころか、現実感すらなく、ぽかんとする以外何もできなかった。




