102.紋なしの馬車と王宮への呼び出し
ろくに入らなかった朝食を終え、ウィンハルト家のメイドと招集された美容師によっていつもより念入りに化粧と準備を調えられて、迎えの馬車が到着したときには、すでに疲労感が重たくのしかかっていた。
紋章の入っていない、だが一目で豪奢なものと分かる馬車は、滑らかに進む。
ウィンハルト家の馬車だってかなり豪華仕様なのに、それとは明らかに違うのは、何かしら特別な加工をしているか、自分も知らない付与を施しているのだろうかと考えるのは、現実逃避だった。
馬車の窓は閉められているけれど、細長く加工された塔結石が天井に設置されていて、明るい。
オーレリアの隣には正装のアリアが、向かいにはモーニングコートを身に着けたウォーレンが座っていた。どちらもよく似合っているけれど、同じ空間にいると自分だけ浮いているのではと不安になる余裕すらない。
――なんでこんなことになったのかしら。
「オーレリア」
「は、は、はい」
「オーレリア、気を確かに持ってください。大丈夫、どんな状況でも、私がサポートしますから」
「俺もできる限りフォローするし、王宮と言ってもそうそう取って食われたりはしないよ。……たぶん」
「……ありがとうございます」
二人の言葉はとても心強い、すごくありがたい。
小心者の自分が情けなくなるばかりである。
「それに、今回はお礼が目的だというお話ですし、オーレリアは優雅に微笑んで余裕そうに振る舞っていれば、それで充分ですよ!」
頷いて、少しくらくらする頭をそっと押さえる。
アリアの言う通り、今日呼び出された目的は叱責や注意といったものでないことはあらかじめ伝えられているのだからそれほど緊張する必要はないのかもしれないけれど、念入りに準備を施されたことから今日の召喚が気軽なものでないことは明らかだ。
本当に、どうしてこんなことになるのか。
滑らかに進む馬車の中、気を抜けば貧血を起こしそうになりながら、オーレリアはそんなことを考えていた。
* * *
話は数日前、冒険者ギルドにアリアと共に呼び出されたことから始まった。
急な呼び出しであったことと、ジャスマン商会により作製された吸収帯及び分業による付与を施されたナプキンの出荷が本格的に始まったばかりである。出荷前にアリア、ミーヤと共に念入りに検品し、問題ないと確認したものの、実際に販売が始まればイレギュラーなことも起きる可能性はあるだろうから、てっきりその関係だと思っていたけれど、応接室に通されて現れたエレノアの表情が思ったより深刻だったことに、アリアと共に改めて背筋を伸ばす。
「オーレリアさん。以前ギルドに来た時、セラフィナ様とお会いした付与術師というのは、オーレリアさんのことでしょうか」
挨拶もそこそこにそう言われてぱちぱちと瞬きをし、すぐに宝石が人の形をしたような美しい女性のことを思い出す。
「靴の踵が壊れて困っていた方がいたので、踵を付与で接着しました。確かその女性が、そう名乗っていたと思います」
あれは一ケ月以上前のことだ。ギルドで昼食を摂った後、廊下でたまたま鉢合わせした女性に、主の靴が壊れてしまった、国外から来たのでこの辺りに土地勘もなくて困っている、替えの靴を買ってきてもらえないかと声を掛けられたことがあった。
あの後、正式に商会を立ち上げたりミーヤがアウレル商会の仲間入りをしたり、ジャスマン商会と正式契約にと多忙が続いていたため、ほとんど忘れかけていた。
「あの、何か問題があったのでしょうか。一応、自宅に戻るまでの応急処置で、新しくしたほうがいいとはお伝えしたんですが」
そう告げると、エレノアは困惑した表情を浮かべて、いえ、と軽く首を横に振る。
「先方はとても助かったと感謝しているわ。それで、オーレリアさんに改めてお礼をしたいと言っているのだけれど、おいそれと動けない立場の方だから、オーレリアさんの方から訪ねてきてもらいたいと、私が仲介を依頼されたの」
なんだ、そんなことかと肩から力が抜ける。
エレノアの口調から察するに、セラフィナはかなり身分の高い人だったのだろう。だがオーレリアがやったのは付与ひとつで本体から外れた靴の踵をくっつけた、それだけである。
「応急処置でしたし、お礼をして頂くほどのことではありませんよ。先方にはどうぞお気になさらないでくださいとお伝えいただければ」
「それが、そうもいかないの」
エレノアはそう言うと、ソファのひじ掛けに腕を預け、体勢を崩す。
いつもピンと背筋を伸ばしている彼女らしからぬ仕草に、驚いた。
「あの方のレイヴェント王国来訪は非公式のものなのだけれど、国が正式に招いたお方でね。あの日は兄のカイラム殿下がギルド長と話をしている間、控室でお待ちいただいていたのだけれど」
セラフィナの国では、女性は結婚まで男性家族がともにいなければ移動ができないのだという。
レイヴェント王国内では兄のカイラムと共に行動することになっているけれど、女性は男性の前にはみだりに顔を出してはならないので、ああして侍女とともに控室で待っていたらしい。
兄が殿下ということは、セラフィナは他国の王族ということになる。
相当に高貴な身分だろうとは思っていたけれど、まさか王族だったとはと、さすがに息を呑んだ。
あの日、エレノアはやけに多忙そうな様子を見せていたけれど、おそらく相当に気を遣わねばならない来客があったからなのだろうと、今更合点がいった。
「あの、私は何か、その、不敬なことをしてしまったのでしょうか」
かなり付け焼刃ではあるが貴族や富豪相手の礼儀作法はウィンハルト家である程度学ばせてもらっているものの、その中でもジェントリと呼ばれる爵位のない富豪と貴族相手では、同じ場面でも微妙に違うマナーを求められることは多い。
まして王族相手の礼儀作法など、分かる訳もない。知らない間にとんでもない無礼を働いていたのかと青ざめた。
「いえ、違うの。――セラフィナ殿下はその時助けてくれた付与術師に大変感謝をしているのだけれど、お礼もできずに立ち去ってしまったことが気がかりで、もう一度会いたいと思っていた、本当にそれだけみたいなのよ」
「私は、踵をくっつけただけですが……」
「まあ、何に恩を感じるかは、人それぞれですものね……」
仲介を願われたらしいエレノアも、セラフィナがオーレリアを呼び出そうとしている動機については、あまりピンときていない様子である。
「王国に来た直後は色々と予定も入っていたのだけれど、それも少し落ち着いてきたので改めて、ということになったようなの。それで、話を聞いたカイラム殿下から直接、その付与術師を探してほしいと依頼があってね。ギルド内でも話を聞いたのだけれど心当たりのある者がいなくて、来館者リストを遡ってみたら、あの日ギルドに所属していない、来訪していた付与術師は、オーレリアさんだけだったので、来てもらったわけなのだけれど」
隣に座っているアリアも、状況を飲み込み切れず絶句したままだ。
オーレリアにも、この状況をどう判断するべきか、分からない。
「……あの、ちなみにそれは、辞退することは」
「ザフラーン帝国は、すごく大きな国なの。我が国も大陸の中では大国だと言われているけれど、海を渡った大陸全土を支配しているのが、ザフラーン帝国よ」
「………」
「分かってくれるかしら、オーレリアさん」
いえ、ちょっとよくわかりません。
到底、そう言える雰囲気ではなかった。




