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第5章ー12

 日本軍の中でインフルエンザ蔓延の影響を、最初に一番深刻に受け止めたのは、陸海軍航空隊だった。

 先述したように、航空機の操縦士がインフルエンザに倒れては、絶対に操縦等させるわけにはいかないからである。

 また、整備兵が倒れても、航空機の整備に技術が必要であり、急に整備兵を補充すること等、できるものではない。

 ある程度は、部隊間で操縦士や整備兵を融通して、ということも当初は考えられたが、それにより別の部隊にまでインフルエンザが蔓延するのではないか、という懸念の声が航空隊の内外から挙がるにおよび、部隊間で操縦士や整備兵の融通は取りあえず禁止ということになった。

 8月下旬のある日、1000人近い操縦士の内30人以上がインフルエンザで病床に伏す惨状になった。

 大した数ではないように見える。

 だが、8月上旬の時点では一桁しか病床に伏していなかったのだ。

 そして、整備兵等にも徐々にインフルエンザの患者が増えつつある。

 山下源太郎海軍航空隊司令官も福田雅太郎陸軍航空隊司令官も、背筋が冷たくなるのを覚えつつ、少しでも熱が出たら、すぐにインフルエンザの疑いをかけ、軍医に診察させ、病院に隔離することで、インフルエンザの蔓延阻止に努めていたが、今のところ、効果は挙がっていなかった。


 次に影響が出たのが、海兵隊だった。

「鬼のかく乱とはよく言ったものだな」

 第2海兵師団所属の山下奉文大尉は、病院の寝床で熱にうなされつつ自嘲していた。

「欧州で風邪にやられるとは情けない。鍛え方が足りなかったな」

 山下大尉の独り言が聞こえた軍の看護兵が慰めた。

「大尉、そんなことはありません。風邪ではなくインフルエンザに罹ったのです。ともかく安静にして早く治るように努めてください」

「分かった」

「それに速く治ってもらわないと、ベッドが足りなくなりそうですし」

「何か言ったか」

「いえ、お気になさらず」

 看護兵はため息を秘かに吐いた。


 海兵隊の病院はベッドの規定数を確保していたが、インフルエンザ患者の多数発生により、ベッドの余裕が不足気味になりつつあった。

 秘かに本来は薬品購入用等に使われるべき金を目的外に流用して、ベッドを取りあえず購入して確保するという動きを軍医部は示すようになっていた。

 本来は本国からの送金を待って処理すべき案件である。

 しかし、そんな時間的、資金的余裕はない。

 それで、軍医総長が林忠崇元帥に相談したところ、

「わしが腹を切ればよい」

 との鶴の一声で、林元帥は目的外に金を流用するという非常手段を認めた。

 それにより、何とか海兵隊のベッドだけは確保するめどがたっていた。

 だが、それも今のところは、であった。

 これ以上増えては、いかんともしがたくなるし、薬品購入がおぼつかなくなりかねなかった。


 続けて影響が出たのが、海軍本体、欧州派遣艦隊だった。

 相次いで、軍艦乗組員の間でインフルエンザが流行りだした。

 八代六郎欧州派遣艦隊司令長官は、当初は大したことにならないと軽く見ていた。

 だが、「楠」の悲劇を受けて、真っ青になり、隷下にある各艦に厳重な対策を取るように通達を出した。


「楠」は、マルタからマルセイユへ赴く輸送船団護衛のために8月28日、マルタを出航した。

「楠」には87名の乗組員が乗り組んでいたが、29日に最初に8名がインフルエンザにり患してから、あっという間に乗組員が次々とインフルエンザで倒れていった。

 9月1日にマルセイユ沖合に「楠」がたどり着いた時、「楠」は事実上、幽霊船になっていた。

 同行していた「樺」が、一部の乗組員を「楠」に乗り組ませたことにより、「楠」はマルセイユ港に入港できたが、最終的に10名が戦病死する悲劇が起きた。 

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