第5章ー10
英仏米日統合軍の大攻勢が本格的に始まった。
最北端のベルギー解放軍の攻勢を皮切りに、最南端の仏東方軍集団が続けて攻勢を開始し、さらに中央部でも各所でそれより小規模ながら、独軍が無視できない参加兵力が10個師団近い規模の攻勢が英仏軍により複数個所で発動された。
独軍が予備部隊を急派して英仏米日統合軍の複数個所の攻勢を食い止めようにも、これだけの広正面での攻勢に対処するだけの予備部隊を最早、保有していない。
英仏米日統合軍の飽和攻撃は、独軍を着実に追い詰めつつあった。
この攻勢は空からも当然、追い討ちをかけるために独軍に加えられていた。
「我々は基本的には独軍の後方を叩く」
山下源太郎海軍航空隊司令官はつぶやいていた。
日本海軍航空隊は、陸軍航空隊と協働して、ベルギー解放軍に空から支援を与えている。
英仏米軍から支援を仰がれることもしょっちゅうで、司令部では英語、仏語が飛び交っていた。
何しろ、スパッド13戦闘機と新型DH4爆撃機という英米仏日統合軍でも最良の戦闘機と爆撃機の組み合わせである。
独軍の最新鋭戦闘機フォッカーD7を当時、操っていた独軍のエースのウーデッド中尉(当時)をして、
「この当時の日本軍航空隊の戦闘機どころか爆撃機にさえ、我々の最新鋭戦闘機は追いつけなかった」
と第一次世界大戦の回想録で嘆かせた高速の戦爆集団であった。
この英仏米日統合軍の中でも最良と認められていた日本陸海軍航空隊が重要な任務としていたのは、独軍の阻止攻撃であった。
具体的には、独軍が後方から運んでくる物資に対する攻撃である。
そのために独軍後方へと航空偵察を行い、それによって発見された物資集積所や輸送部隊等を狙い撃ちに攻撃していた。
この任務は、実は地上部隊には受けが悪かった。
地上部隊としては、直接に自分たちを支援してくれる近接攻撃支援を求めたからである。
しかし、航空隊には航空隊の理屈があった。
「勘弁してくれ。地上部隊を直接支援する近接攻撃は、航空隊の損害が大きいのだ。英仏のような大規模な航空隊を保有しているのならともかく、日本は少数精鋭なのだ。損害を多数出すわけにはいかんのだ」
日本海軍航空隊参謀長の山路一善大佐はそういって、近接攻撃支援を忌避した。
これには陸軍航空隊も同様の態度を示している。
日本陸海軍航空隊は、この頃、合計で1000人近くの操縦士を保有しており、最終的には700人余りにまで消耗した。
一見すると大したものと見えるかもしれないが、仏軍だけで世界大戦終結時に6400人余りの操縦士を保有していたことを考えると、いかに日本軍が少数だったか分かる数字である。
ちなみに仏軍は1918年だけで7000人近くの操縦士を養成しているのに対し、日本陸海軍航空隊は併せても500人程しか養成していなかった。
幸か不幸か1917年を比較的平穏な伊戦線で過ごせたことで、飛行訓練時間を稼ぐことができた。
そのために日本陸海軍航空隊は英仏軍の航空隊よりも相対的にベテラン揃いになり、全般的に精鋭部隊を呼号できるようになった。
だが、地上部隊の近接攻撃支援任務を行うと、地上部隊の対空砲火による損耗が酷かった。
制空戦闘なら、基本的にベテランが優位に立てるので損耗を避けられる。
また、阻止攻撃でも、対空砲火等が弱く、損耗をそれだけ避けることが出来る。
こういったことを考えるなら、補充が少なく、また、ベテランの損耗を嫌う日本陸海軍航空隊が地上部隊の近接攻撃支援任務を忌避するのは止むを得ない話だった。
そのために阻止攻撃を日本陸海軍航空隊は主任務としていたが、実は独軍が一番嫌っていたのもこの任務と言うのは皮肉だった。
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