第5章ー8
ベルギー解放軍上層部はインフルエンザという大きな不安を抱え込んではいたが、8月7日午後10時30分にまず戦車部隊が事前集結地点から攻撃開始位置への移動を開始した。
夜間に戦車部隊を移動させることにより発生する騒音は、夜間空襲を航空隊が実施することでかき消すことになっている。
英軍から派遣された夜間空襲部隊が、25ポンド(約11キロ)の爆弾を3000発以上、独軍の最前線陣地に降らせることにより、航空機の爆音と爆弾の爆発音を響かせることで、戦車部隊の移動を欺瞞する。
8月8日午前2時頃に相次いで戦車部隊が歩兵部隊との攻撃開始位置への展開を完了すると、午前3時の実際の攻勢開始時刻を前に、将兵たちは束の間の休息、中には仮眠を取る豪の者までいたが、を楽しんだ。
8月8日午前3時、ベルギー解放軍の砲撃の火ぶたが切られた。
「これは壮観だな」
戦車中隊を指揮する酒井鎬次大尉は、数千門の大砲声を初めて耳にしながら呟いていた。
しかも、この砲撃は奇襲性を重視し、一切の試射を行わないまま、開始されたのである。
更に夜間と言うこともあり、航空機による弾着修正もない。
無謀と言えば、無謀な砲撃だが、その威力は初めて西部戦線での砲撃を実見する日本陸軍の士官、下士官の度肝を抜くものだった。
永田鉄山大尉は、第1海兵師団司令部で参謀の1人として、計画を見せられて以来、本当にできるのだろうか、と不安を覚えていたことが、本当にされていることに衝撃を覚えていた。
「こんなこと、日本陸軍が総力を挙げても出来はしない」
永田大尉は独り言をつぶやいた。
午前3時10分、40キロに及ぶ戦線で砲弾の弾幕が独軍陣地の奥へ奥へと進み出した。
事前の計画に従って機械的に砲弾の弾着場所を移動させていく「移動弾幕射撃」である。
この弾幕のすぐ後ろを寄り添うように、日米豪の混成による戦車と歩兵の多数の臨時戦闘集団が前進を開始した。
余りにも寄り添ったために、味方部隊を誤射してしまう砲兵が出るくらいである。
(最終的に全部で200名近くが味方部隊の砲撃により死傷したと判定された。)
それでも、黙々と臨時戦闘集団は前進を続けた。
独軍の前線陣地に臨時戦闘集団がたどり着くと、独軍前線陣地の部隊の多くがパニックになっていた。
わずか10分ほどの事前砲撃で弾幕の移動が始まり、更に戦車と歩兵の混成部隊が前進してくる。
これまでに独軍はこのような戦闘方法による攻撃を受けたことが無かったためである。
このような好機を見逃す臨時戦闘集団ではない。
歩兵と戦車は共同して、独軍の前線陣地を蹂躙し、防御拠点を次々と潰していった。
午前5時前、ベルギー解放軍の初陣は事実上終わった。
モナッシュ将軍は初陣であることから、無理な戦果拡張を図るつもりは全く無く、堅実な戦果をあげることのみで満足するという手堅い計画にしていた。
事前に計画していた前進ラインまで各部隊の前進が完了したことから、日米豪の混成部隊はその場所に速やかに防御陣地の建設に掛かった。
防御陣地を建設するのに必要不可欠な鉄板や杭、針金等は後方から補給部隊が運んできた。
更に射耗した弾薬は航空機が弾薬箱を投下することで前線に運ばれた。
味方部隊であることを示すために、混成部隊は白布を広げて、空から明瞭に味方であることが分かるようにしていた。
午前7時、モナッシュ将軍は作戦の完了を宣言し、総司令官の林忠崇元帥に誇らしげに無線で成功を報告した。
林元帥は、僅か4時間に満たず、更に実質的な戦闘は2時間以下で終わったこの戦闘を激賞した。
ベルギー解放軍は見事な初陣を飾ることに成功したのである。
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