第2章ー5
船団護衛戦術の歴史は古い。
敵海軍なり、海賊からの襲撃から自国の船を護るために、自国の船に船団を組ませて、海軍で護衛する手法は、海軍創設以来ある手法と言っても過言ではないだろう。
一応、現存する書籍で確認できるということからすれば、最も古い船団護衛戦術使用の確認例は紀元前5世紀のペロポネソス戦争の際のアテナイ海軍にまでさかのぼれるらしいが(この当時のアテナイは食糧を自国で自給できず、黒海沿岸からの穀物の輸入に自国の食糧を頼らざるを得なかった。それで、スパルタやコリント等の海軍による食糧輸入の妨害に対処するために、アテナイ海軍による船団護衛を行っていた。)、このあたりまで歴史をさかのぼると、どこまでが船団護衛戦術と言えるのか、という論争に軍事史家の間で論争が巻き起こってくる。
何しろ、有史以来、海軍が創設されてからの基本任務が自国の通商保護と敵国の通商妨害にある以上、自国の船を護る手段として、船団護衛はある意味ではずっと採用されてきた戦術になるからだ。
その後も、古代から中世、近代にいたるまで船団護衛という戦術は採用されてきた。
日本史でもその有名な例として、戦国時代の石山本願寺攻防戦が挙げられる。
石山本願寺への補給物資を満載した輸送船団を毛利水軍は護衛しており、それを織田水軍は迎撃した。
第一次木津川口の戦いでは毛利水軍が勝利を収めたが、第二次木津川口の戦いでは織田水軍が勝利を収めている。
第一次世界大戦の地中海での戦いにおいて、日本の欧州派遣艦隊司令部は大論争の末に船団護衛戦術の採用を決断した。
それ以外に、商船を護る手段が実際問題としてなかったからだ。
だが、早速、護られるべき商船の持ち主や船乗りからは不満が続出した。
船団護衛戦術について、何故、護られる商船の持ち主や船乗りから不満が続出するのか?
それは商船の稼航率が低下するからである。
商船が船団を組むと、当然、船団の中で一番遅い商船に航行速度を合わせないといけないし、船団が組めるまで港に待機しないといけないという問題が生ずる。
そのために商船の稼航率が低下してしまい、商船が挙げられる利益が大幅に低下してしまうという問題が生じるのだ。
だが、一度やると決めた日本の欧州派遣艦隊は、ある意味で問答無用と言う強硬な態度まで取った。
この時のことについて、当時の鈴木商店のロンドン支店長、高畑誠一は次のように回想録で書いている。
「ロンドン大使館にいる海軍の駐在武官から呼び出されて、何事かと思って自分が行ったら、地中海を航行する日本の商船に対し、船団を組むように自分が音頭を取ってくれ、と言ってきた。そんなことをしたら、鈴木商店の利益が下がってしまうから、言を左右にして断ろうとしたら、鈴木商店は国賊か、欧州派遣艦隊からの要望には黙って従え、と恫喝してきた。いやあ、あの時は、英国政府の方が遥かに紳士だと自分には思えたね」
ともかく、鈴木商店のロンドン支店長、高畑が音頭を取り、三井や三菱等を巻き込むことで、地中海では日本の商船は船団を組むことになり、欧州派遣艦隊がそれを護衛することになった。
いろいろと試行錯誤をすることもあったが、船団護衛戦術の採用により、日本の商船の被害がそれによって激減したのも、また事実だった。
同じく高畑の回想録から引用する。
「1916年の後半は、自分の記憶で言わせてもらうと、地中海で航行していた日本の商船の6パーセント近くが沈められてしまっていたかな。その被害がほぼ完全に船団を組むようになった1918年の後半頃には、0.2パーセント台、約20分の1まで低下したよ。本当に船団護衛戦術はすごく効果があったね」
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