幕間1-5
場面が変わり、同じ時期のロンドンに移っています。
「商船の売り込みにつき、英国政府との商談がまとまりました。英国政府は50万ポンドの手付金を払うとのことです。大規模な商談とはいえ、本当に英国政府が払ってくれるとは夢のようです」
鈴木商店のロンドン支店長、高畑誠一は、本国への電報を認めていた。
その電文を確認した部下が首を振りながら言った。
「でも、これが現実なのですよね。英国政府とこんな大規模な商談を直接できるようになるなんて、この戦争が始まるまで考えたこともありませんでした」
「全くだな」
現在、ロンドンで、独のカイザーが商人になったような男と謳われている高畑は悠然としながら言った。
高畑誠一、後に鈴木商店の3代目当主となり、日本財界の首相と謳われた男は、この戦争によりロンドンで莫大な利益を上げていた。
この頃の鈴木商店の凄まじさには、数々の真偽不明の話がある。
「スエズ運河を通る船の1割以上が鈴木の船である」
「西部戦線では鈴木の名前を知らない英仏兵は存在しない。なぜなら、鈴木の名前が書かれている小麦の入っていた空袋が大量に塹壕を築く土嚢に使われているからだ」
「会計資料を全く示さずに、イングランド銀行から1000万ポンド(現在の貨幣価値では1兆円を軽く超えるだろう)が鈴木にはすぐに融資された」等々
「日本を介さない三国間貿易、更に船の積み荷ごと船まで売る、様々な手法を自分は駆使したが、本当にこんなにもうかっていいものか、と思うくらいだった。1918年当時の鈴木商店の売り上げは、日本の国民総生産の1割を軽く超えていた」
晩年の高畑の回顧録のこの話は真実である。
この翌年の1919年の話になるが、日本の国民総生産は100億円にやっと満ちようかという時に、鈴木商店は全体で、空前絶後の16億円の売り上げを叩きだす。
この時、鈴木商店に次ぐ三井財閥全体の売り上げですら11億円に満たなかった。
21世紀まで鈴木商店は財閥として繁栄を続けているが、国民総生産に対する売上比率だけを見るならば、1919年が正に鈴木商店の絶頂だった。
1918年のこの時にはそこまではいっていないが、1割を既に鈴木商店は超えており、三井、三菱をしのぎ、日本の三大財閥のトップを鈴木は占めていた。
「おそらく年内にこの戦争は終わるな」
有能な商人として、高畑は戦争の成り行きが透徹して見えており、そう独り言をつぶやいた。
「そして、戦後も鈴木は繁栄を続けるだろう。全く海兵隊のおかげだ」
高畑は、海兵隊の注文を思う存分活用することで、鈴木を躍進させた。
だが、戦争と言うものは永久に続くものではない、いつかは終わるものだ。
戦後のことを考えて、商人ならば動かねばならない。
「この戦争で軍隊への自動車や航空機の導入が大幅に進んだ。鈴木もこの流れに乗らねばな」
高畑は、日本海軍いや海兵隊の暗黙の支援の下、米国企業に様々な便宜を米国が中立だった頃から行っていた。
米国企業が米国の参戦後に速やかに動けたのは、鈴木の支援が大きかった。
この見返りとして、米国企業もそれなりに日本に報いた。
例えば、リバティエンジンを積んだDH4が、日本の偵察兼爆撃機に制式採用されたのは、鈴木の支援の賜物だった。
「この男を鈴木に迎え、GM等の協力の下、この戦後に鈴木には航空機、自動車企業の子会社を作る」
高畑は1枚の写真を眺めながら呟いた。
その写真には、中島知久平海軍大尉が写っていた。
第一次世界大戦後、高畑の野望の大部分が現実となり、鈴木重工業は、中島社長の下、GM等と協力して国産自動車、軍用機を開発、製造し、日本トップの軍事関係企業に第二次世界大戦開戦までに成長するのだが、それは後に詳しく語られる話である。
幕間の終わりです。
次話から第2章になります。
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