第5章ー42
10月29日、ヴィルヘルムスハーフェン軍港にいた独艦隊に出撃命令が下った。
英仏艦隊に少しでも損害を与え、講和交渉を有利にするためである。
だが、1000人余りの水兵がサボタージュを行った。
彼らにしてみれば、祖国独の敗北は間近になっており、そんな中で絶望的な出撃により死にたくは無かったのである。
艦隊司令部は、彼らを逮捕し、キール軍港に送ったが、11月3日、彼らの釈放を求める労働者や兵士のデモが武装蜂起へと発展した。
翌日、キールは労働者・兵士によるレーテ(ソヴィエト)の支配下に置かれることになり、それは津波のような勢いで独全土へ波及する勢いを示した。
話は変わるが、10月下旬、米国をはじめとする連合国側は講和条件の一つとして、独皇帝の退位を持ち出していた。
これについては、あくまでも講和条件の一つとして提示しただけで、実際には連合国側にはそんなつもりは無かったというのが歴史家の通説だが、少数説は連合国側は本気で提示していたとしている。
ともかく、連合国側が独皇帝の退位を求めていたことやレーテ(ソヴィエト)の発生は独全土を革命の嵐へと巻き込んだ。
ヴィルヘルム2世は、連合国側から独皇帝の退位を要求されたことから、10月末からはベルリンを離れて、ベルギーのスパに赴いていた。
そこは最早、最前線と言ってもよい場所だったが、いざと言う場合、ヴィルヘルム2世は軍によって自分を護ってもらおうと考えていたからである。
だが、スパの皇帝の下に届く情報は悪い物ばかりだった。
10月29日、独の水兵多数による艦隊出撃命令拒否
10月30日、トルコが休戦協定を締結、
同日、 イタリア戦線が崩壊、墺は休戦交渉を連合国に緊急に求める。
11月4日、 キールにてレーテ(ソヴィエト)成立、全国に波及の勢い。
等々
11月9日、レーテ(ソヴィエト)はとうとうベルリンにまで波及した。
ベルリンの労働者は組織化されており、デモの隊列の中には兵士の姿も多数みられた。
独政府は、最早、皇帝の退位は避けられぬと考え、11月に入ってからヴィルヘルム2世に退位を求めるようになっていたが、皇帝は同意していなかった。
だが、ここで皇帝の同意を待っていては、独が赤く染まり、共産主義国家となる。
ベルリンに残っていた独政府の首脳陣の何人かは、そう考えて非常手段を執ることにした。
実際、11月7日には、ミュンヘンで革命騒動が起き、バイエルン王国が共和国に移行している。
また、カール・リープクネヒトが11月9日の午後遅く、「社会主義共和国」の建国宣言をしている。
そうしたことから考えると、独が共産主義国家になるという心配が、当時の独政府首脳陣にとって、全くの杞憂であったとは言えないところがある。
11月9日昼前、独宰相マクシミリアンが、ヴィルヘルム2世の同意がないまま、独断で皇帝退位の布告を行った。
更に社会民主党の指導者の1人、エーベルトに宰相の地位を譲った。
そして、社会民主党の指導者の1人、シャイデマンの下には更なる情報がもたらされた。
リープクネヒトが「社会主義共和国」の建国宣言の準備をしているというのである。
シャイデマンは独断専行することにした。
11月9日午後2時頃、シャイデマンは国会議事堂の一室の窓枠の上に立ち、絶叫した。
「帝政は倒れた。新しきもの万歳、ドイツ共和国万歳」
エーベルトは、シャイデマンの独断専行を知って、激怒した。
エーベルトは君主制主義者だったのだ。
しかし、このシャイデマンの独断専行によって、ドイツはあくまでも結果論だが、共和政に移行し、赤色革命は阻止されることになる。
そして、この動きはヴィルヘルム2世の下に速やかに届いた。
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