あなたの隣で眠らせて 7
顔色が良くなったあみは、眠そうな目を擦りながら俺の肩に頭を預けると、不思議なことをつぶやいた。
「良いヤツは、私が飢えていることを一目で見抜くんだ」
何が言いたいのかわからず、俺は黙って続きを待っていると。あみがククッと笑いをかみ殺した。
「啓介も、智樹にも、本当に…感謝してるんだ。二人と過ごせて楽しかった…」
まるで最後の挨拶みたいなことを…。
俺はあみの顔を見ようと下を向くと、すぐそばで暖かい唇が待っていた。
涙の味がする、キス。
あの夜と同じ、何かに怯えている小さな女の子の顔をした、あみ。
俺の前だけでも素顔でいてくれることが、やっぱり嬉しくて、愛しい。
彼女が求めるものを、余すところなく全て注ぎ満たしてあげたい。
どうやっても埋められずにいた空洞が、互いの存在で満ちていく。そんな関係になれたら、どんなに幸せだろう。
あみからキスをやめて、スンっと鼻を啜った。
「これ以上、私の匂いが着いたらと思うと…」
消え入りそうな声。俺は、咄嗟にあみの手を掴まえた。
「啓介さんに黙って…消えるつもりなの?」
あみは寂しそうに涙を浮かべて、小さく頷いた。
「ごめん…。だって、啓介にはこうする方が良いんだ。智樹、こんなことに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい…。私がいなければ、智樹まで別の何かに変身しないままでいられたかもしれない。誰も殺さずに、済んだかもしれない…」
「そんなこと言うなよ! あみ。俺は君に会えたことに後悔なんてないから!」
葬儀が終わった直後、俺と翔子を親類に預けてどこかへ行ってしまった親父の背中が思い出された。わけもわからず置き去りにされるなんて、もう耐えられない!
「君が行くところに、俺も行く! 君が嫌がっても、俺は君についていく! 俺の事大事に想うなら、俺の気持ちをわかってくれよ?!」
あみは手で俺の口を覆い隠し、小さく首を振る。まだ涙の膜に覆われているけれど、その瞳孔には何か強い意思を感じさせた。
初めて激流の中で目と目が合った時と同じ、瞳だ。
「智樹。落ち着いて…。冷静さを失えば、私達は内なる力に滅ぼされる。だから、どんな時も冷静でいなくちゃいけない。わかるだろ? 私もお前もなぜここにいるのか、考えてもみろよ?」
言っている意味がわからない。というよりも、わかりたくもないという気持ちのほうが遥かに強かった。
俺は聞き分けのないガキにでもなっちまったようで、なんだか急に全てをぶっ壊して白紙に戻したい衝動に駆られそうになっている。そんな俺を見抜いた目が、もう一度近付いて来る。
あみは目を閉じることなく、再び情熱的で短いキスをした。
「わかってるつもりだよ。智樹。お前の気持ちは、そのまま私の気持ちだよ。だからこそ、未来を見なくちゃいけないんだ。私は、自分のしがらみと全部向き合って、片付けたい。お前と、啓介とまた生きていけるように、したい! 智樹だって自分じゃなくなるのは、怖いことだろう? 私は、すっごく怖い…。自分がわからなくなるのは、もう、二度と嫌なんだ」
「あみ…」
確かに、俺は。あみを失ったショックと怒りで、なりふり構わずに人を殺した。この手はもう、血で汚れてしまったんだ。
すると。また、彼女は俺の心を読んだかのように、今度は俺の手を強く握りしめてきた。
「智樹は、クールっぽく見えるけど実はかなり危なっかしいヤツだって、橋から飛び降りた時にもうわかってた。でも、それだけ自分の気持ちに真っすぐ走れる素直さは、私は好きだよ。だからこそ、もう二度と先の事も翔子のことも考えずに軽率なことはすべきじゃない。智樹。絶対にモンスターの狂暴さになんかに飲まれるな。絶対に、もう二度と人を殺めちゃいけない。守るための力を破壊や復讐のために使うな。人を殺めることに躊躇いがなくなったら、もう終わりだ…。 いいな? わかったんなら、今ここで私に誓ってくれ」
出会った時にも感じた、彼女の心の強さに、俺は胸を打たれた。
「人間でいろ。お前は翔子の兄だ。それ以外にはなるな…。絶対に。お願いだから、私が好きになった智樹のままでいて…」
「君はどこで何をするつもりなのか、教えてくれたら誓うよ」
我ながら情けないとは思うけれど、こうでも言わないとあみはなんでも自分ひとりで決めてしまう。俺なんて要らないって突き放されているみたいで、猛烈に不安になる。
「消える意味がなくなっちまう…。それに、消えたくて消えるわけじゃないことぐらいわかってよ」
言われて初めて、そうなんだと気付かされた。驚いたことに、あみは今こうしている瞬間もちゃんと冷静なんだ。
「そうだな。私を信じて待ってて…。ちゃんと決着をつけてから必ずお前のところに戻るから。今、ここで誓うよ」
あみはまるでヒーロー映画の主人公のような顔をして、俺を見つめ返した。さっきまでの弱々しい少女の面影はすっかり消えている。それが、やっぱりなんだか気に入らない。
悲しくて、寂しい気分に獲り憑かれて、俺はあみを力づくで抱き寄せた。そして彼女の髪や首筋の匂いを吸い込む。
あみは戸惑いながら、ゆっくりと、遠慮がちに俺の肩に手を乗せて、目を閉じる。互いに言葉なくただ抱きしめ合った。
―――永遠にこの瞬間が続けば良いのに、と願いながら。互いに言葉にしない。できない。
「俺達はこれで終わりじゃないんだよな?」
震えそうな声を必死に制御する。あみも小刻みに震えながらも、遠くを睨んだ。
「…あの女。きっと、私が本当に死んだかどうか、何度も様子を見に来ると思う。あいつは私が獣人だということを知っていた。執念深いし、それにまた智樹や啓介に危害を加えてきたら、最悪だ」
白いコートの女の正体が一体誰なのか尋ねると、あみはただ首を横に振った。
「もしも、今度こそ俺が君を守るって言ったら?」
あみは小さな子のような泣き顔を一瞬だけ見せて、でもすぐに意を決したように毅然とした。
「だから危ないって言ってんだろ? お前は誰のことも殺してはいけない。その手を絶対に汚すな。失うものが、あまりにも大きいんだから…」
「ひとり殺せばあとは皆同じだ」
「それは違う! どんな相手にも人生がある。家族や大事な人がいる…。それを断つということを、良く考えるんだ。翔子が傷付けられてあんなに苦しんだお前なら、わかるはずだろ?」
それを言われると、俺は何も言い返せない。
「それに、自分の因縁は自分で決着つけたいんだ。力になってくれようとする気持ちは嬉しいけど、やっぱりお前が関わるべきじゃない。せめてもの救いは、お前が今回手に掛けた相手は皆獣人だったということだ。あいつらだって生きるためとはいえ、人間を殺し内臓を食ってやがる。しかも、組織ぐるみで。証拠を上手く消して、人間社会の裏に自分達の縄張りを張って生息してる。路頭に迷った人間を襲って、少しでも罪悪感がないように振舞っている。そんな、とんでもない連中さ。だけど、中には群れを離れてひっそり暮らす狼もいる。気を付けろよ、あいつらは鼻が効く」
あみは吐き捨てるように説明すると、短くため息を吐いた。
「この先、啓介のことが心配だ。あいつの心には、行方不明になった昔の女が獲り憑いてる。時々、夢遊病のように野山を彷徨うことがあるんだ。そんな時は、私の代わりに彼を守ってくれると、本当に助かる。啓介は狼に目をつけられてて、気を抜けばあいつもいつ餌食にされても不思議じゃない」
「わかったよ。それは俺に任せて…」
こんな時でさえ、俺よりもあみの方が遥かに逞しく、そして強い。
俺はその強さに憧れのような尊敬の気持ちを持っていることに、今気付いた。そんな凄い子が、俺のなにを好きになってくれたのかいまひとつ実感が持てないのは、俺自身の問題で、彼女はきっと関係ない。
大人になりたい。もっと、彼女と対等に渡り合える精神力が欲しい。今の俺じゃあまりにも拙い。それが、恥ずかしい。
永い沈黙の後、あみが明るい声で言った。
「もう、行くよ」
「…どこに?」
「ふふ…。その手には引っかからないってば」と、あみは苦笑いをして。
俺の腕からゆっくりと抜け出していく。
まだ顔色が悪いのに、あみは車のドアを開けて迷いも躊躇いもなく、するりと外に出た。
「私の故郷も北海道ぐらい雪が降る所でさ。もっとずっと、寒かった…。これぐらいの寒さなんて、全然平気。じゃあ、元気でね。智樹」
あみは舌ったらずにそう言うと、くるりと背を向けた。そして何を思ったのか、家と家の間にあるブロック塀にヒョイと飛び乗った。塀の上に乗った途端、マジックのように大きな黒猫の姿になった彼女は、俺に一瞥をくれてから足早に去って行った。
俺は車のドアを乱暴に開けて飛び出した。
あみが消えた塀の近くまで駆け寄ると、もう姿の見えない彼女に向かって、俺は思いの丈を叫んだ。
「行かないでくれ! アン!!」
でも、彼女はどこにもいない。
行かないでと言ったところで、彼女は去って行くのはわかっていた。それだけの事情が彼女にはあるのだ。あの白いコートの女が再びやって来て襲って来たらと想像するだけで、物凄く怖い。自分をうまく制御できず、取り返しのつかないミスをやらかすかもしれない。
俺は自分の両手のひらを見つめた。どうやって変身したのかも、よくわかっていない。わからないことだらけの自分に嫌気が刺す。
この能力は恐らく幼い頃、神隠しに遇ったことが起因している。その後間もなく母親が死に、親父が逃げ出したくなるほど俺の身体からは何かとんでもないものが滲み出ていた。呪われた俺を愛してくれる存在に、飢えていた。
だから、あの夜。あみに強く惹かれたのかもしれない。
俺以上に禍々しい業を、あの橋の上に立っていた彼女から強く感じていた。でもそれが、大きな力に包み込まれるような安心感となり、俺を直視しても怯まない彼女に特別な縁を感じた。あの瞬間、生まれて初めて体の奥にある魂が震えるという感覚を味わった。
また戻ってくると誓ってくれたのに、もうこんなにも心細い。
彼女の体温が、気の強さが、大きな懐が、俺の前から刻一刻と遠ざかり消えていく。今、この瞬間も。離れて…。
それが、辛い。
―――辛い。
そばにいて欲しい。
隣で眠って欲しい。
俺の名を呼んで欲しい。
俺を見つめていて欲しい。
こんなに、誰かを強く求めている自分が新鮮で、なんだか可笑しい。寂しさが増すほど、あみを求めるこの気持ちを愛と呼んで良いものなのか。
これが、こんな弱い自分を感じることが、不完全な俺達を唯一無二の存在として胸に刻んでいく痛みが愛だと言うのなら。
「あみ。君を愛してる…」
俺はもっと君にふさわしい男に、なる。
だけど今は。心細くて、惨めで、ガキみたいに泣きじゃくった。
探偵が戻ってくるまで、俺は自分が男で大黒柱で十八歳だなんてこともすべて忘れて、ただただ涙の海に溺れた。己の不甲斐なさを噛み締めながら。




