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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第九章 あなたの隣で眠らせて
30/33

あなたの隣で眠らせて 5

     *


「…智樹……なのか?」


 驚かれるのは承知の上で、俺は正体を明かした。


 探偵は目を見開いて、茫然と俺を見上げている。言葉が出て来ないようだ。


 無言のまま、素早くロープを切ってあげる。探偵は傷だらけだったが、歩くには問題ないらしい。


「ここは一体、何なんですか?」


 俺の問いかけに我に返った顔をして、やっと答えている。


「俺にも、まだよくわからない…。だけど、あみがここに連れ込まれたことは確かなんだが…」


「まだ、会えていないんですね?」


 探偵は力強く頷いた。


 死んだ男からズボンとジャケットを奪い、服を着る。まだ仲間がいるかもしれないと、探偵は警戒している。


「とんでもなくデカい男がいたんだ。そいつには俺の攻撃がまるで歯が立たなかった…。あれも人間じゃないのかもしれない」 


 ―――人間じゃない。その言葉に俺の身体が勝手に反応し、ガタガタと奥歯がかち合った。


「…智樹。なんであいつを、殺したんだ?」と、苦虫を潰したような顔を向けられる。彼が指した男は、村本刑事の相棒の相良刑事。俺は翔子の一件で初めから嫌いだっただけだ。村本刑事の後ろに隠れて舌を出す悪ガキのようにしか見えなかった。こういう高圧的な連中が弱いものを虐げる。何となく、そんなことを思っていた。薄ぼんやりとした霞が掛かっていて、何て答えたら良いのかすぐには言葉が出てこない。


 そんな俺を見て、ため息を吐いた探偵は話題を変えた。


「まぁ、いい。お前が来てくれなかったら、俺が殺られてたさ…。さっさとあみを連れて帰ろう。そのつもりで、来たんだろ?」


 俺は頷いた。この人の、こういう優しさが嬉しくて傍にいるだけで心が安らぐ。 


 ボロボロになるまで暴行を受けていた探偵は、壁伝いに足を引き摺りながら部屋を出て行こうとした。廊下に出ると、その奥から四つ足の獣がこちらを見ているのに気付く。


「あいつだ! 熊だ!」


 見れば本当に場違いな猛獣が廊下を駆けてくる。巨体を揺らしているわりに、かなり足が速い。


「退がってて!」


「なにを!」と、探偵は叫ぶ。その静止を振り切る。


 俺は再び変身をしながら壁を駆け上がり、宙返りの途中で熊の耳を思い切り引っ掻いた。切り裂いた傷から大量の血が噴き出す。ヒグマが人の手で傷を押さえ、反対の壁に右肩を激突させ止まった。


「ダメだ! 智樹!」


 探偵の静止を無視して、俺はヒグマに迫る。既に大量失血をしている敵の目には、力が宿っていなかった。それでも、とどめを刺すのが情けだという考えが俺を支配している。


「智樹!」


 右手だけを鷹の爪に変化させ、ぐったりするヒグマに突き刺そうと構えたとき。俺の手首を探偵がしっかりとつかまえた。思わず振り向くと、真っ青な顔をした探偵が首を横に振り、目で何かを訴えている。俺は訝しんだ。


「お前、前からそんなヤツだったのか?」


 唖然とした。何がマズイのか、全然わからない。


「本当に殺さなくちゃいけないのか? 俺はそうは思わない…。あみさえ返してくれたらそれでいい。無駄な殺生なんて、御免だ」


 探偵は暗い目付きで、弱り切ったヒグマを見下ろした。それに習って視線を戻すと、ヒグマは人間の姿に戻りながら頸動脈から流れる血を右手で押さえ、どこを見ているのかわからない目を光らせていた。瞳孔がみるみるうちに開いていく。


 血を失えばどんな怪力も終わりだ。真向から戦わずとも、急所を狙え。本能がそう語り掛けてくる。


 動かなくなった目を、探偵が指で閉じてやった。さらにその足下には、血の川が流れている。


 え?


 ブワリと嫌な空気に囲い込まれ、息苦しくなる。部屋の入口でうつ伏せになって倒れている首なし死体からも、大量の血が床に広がっている。


 ―――俺が…やったのか?


 急に夢から醒めた。そして、なにもかもが怖くなった。


       *


 広大な森が急に開けた。傾斜の厳しさは緩み、雪野原を掻き分けて必死に逃げる。凍てつく北風の中で呼吸が荒くなると、肺がヒリヒリとして咳が止まらないことがある。それでも、立ち止まれば命はなかった。


 私の背中に手を当て一緒に走り、背後を守ってくれるミアの喘ぐような吐息が、懐かしくて振り向きたいのに、身体の自由は効かない。タイムスリップ現象は、当時の自分の体験をなぞるだけで、過去を変えることは出来ないのだ。


「アン! 気を付けて! 上!」


 怯えた声が響いた。私達は上空を見上げ、悲鳴を上げる。そこには、大きな翼を広げた鷹か鷲が悠々と風に乗って飛んでいた。


「アン! 早く森に隠れるのよ!」


「うん!」


 膝上まで積もった雪に足を取られ、私は盛大に転んだ。雪まみれになった顔を上げると、苦汁を舐めているように歪んだ顔をしたミアが、私の上に庇うように覆い被さる。その時、不意を突かれたようにフワリとミアの体が持ち上がった。ミアと私は手を握り合ったまま、宙吊りになると凄い速度を上げて空高くへと連れて行かれる。


 見た事もない風景が、風のように流れていく。夜明けで白んだ地平線にオレンジ色の光の帯が両手を広げて待っていた。大きな翼のくせに、羽ばたいても音が静か過ぎる。こうやって猛禽類は地上の小動物を狩って、生きているのだ。


 長い時間は持ちこたえられない。肩が痛くて、汗をかく手が滑りそうで、必死に他の何かにしがみつこうとした。


「アン! 合図したら、飛び降りるわよ!」


 名前を呼ばれて我に返る。


 ミアが黒い猛獣の顔になったと思ったら、鳥の無骨な脚にいきなり噛みついたのだ。


 鳥は啼いた。


「怖くても、やるのよ!」


 私は振り落とされまいと、ミアの手をギュウと締め付け合う。激しい動きを始めた飛行に耐えられるかどうか、わからない。グルグルと回転が始まる。天地も方角もわからなくなるまで回りながら、ミアと私の悲鳴が重なり合う。山肌にぶつかるも、鳥はしぶとく態勢を立て直し、崖を垂直に上へと向かって飛び続けていく。突き出た岩肌にぶつかって、左腕を負傷した。腕がげてもおかしくなかった。と思った、その時。


「ミア!?」


 ミアの顔半分がゴッソリと削られ、赤い真皮がむき出しになっていた。


 北海道に来てからずっと、この得体の知れない鳥に狙われてきた。私達を餌か何かと勘違いしているのだろうか。人間の子供は狙われないのに、鳥はまるで私達が何者か見抜いているかのように、襲ってくる。


 どこまで逃げても、私達は何かに追われ命を狙われ続けている。施設を出る前に一瞬だけ躊躇ったのは、こうなることが最も恐ろしかったからだ。安全な場所がまるでない。落ち着いてもすぐに、次なる敵がやって来る。


「もう一歩も動けない」


 そう言って泣いた時、他の大人じゃなくミアが私の目線に合わせて身を屈め、顔を覗き込んできた。母親のような優しい眼差しだった。


「大丈夫。まだ歩けるわ。手を繋ぐと私の元気を分けてあげられるのよ。試してみる?」


 そうか。ミアは血のつながった姉ではないんだ。


 それなのに、じゃあなんで?


 なんで私を守るために命を投げ打ったの?


 最期の瞬間。満足げに微笑んだミアの瞳を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。


 鳥の足から解放された途端、落ちていく中で互いの力で引き寄せ合った。ミアに抱き締められた私は、ここで一緒に終わるならそれも良いかもしれないと本気で望んだのに。独りで生き続けなければならなかった恐怖が私を包み込む。


 迫りくる地面。そこに叩きつけられ、砕け散った身体から一度は抜け出したのに。ミアに説得されて泣きながら戻ったのだ。そしてミアの身体から溢れ出た血が、私に向かって集まってきて、傷を癒し始めた。



 吹雪きの中で黒い羽が舞い上がり続ける。広げた翼は悠に二メートルを超えていそうなのに、どんなに羽ばたいても僅かな音さえも届かない。鳥はたった一羽で三匹の狼を組み伏せ、あっという間に頸動脈を切断した。痙攣し死んでいく狼は、瞬きすると人の姿に変わる。鳥は黒い翼を背中につけた天使のような姿となって、そのまま建物の中に侵入していった。


 ザワザワと体中の血が騒ぐ。


 私の心の奥で散らばっていた何かが集まり形を成していくようだ。


 あの鳥のせいでミアが死んだ。


 あの鳥がミアを殺した。


 そう思ったら、私の心が真っ黒な羽に覆われていく。


 あの鳥が、人の姿に変身する鳥が智樹の母親を殺した。


 あの鳥が、殺した。


 あの鳥が。


 固く鋭い刃物を、あの得体の知れない鳥の心臓に突き刺してやりたい。


 殺したい。


 殺したい。


 殺したい。


 ザワザワと皮膚から黒い毛が吹き出し始める。骨が小さな軋み音をたてて、目線がゆっくりと降りていく。私はまた何かに変化した。四本足と、脚よりも長い尾がある生き物になる。自分の呼吸と鼓動しか聞こえない。目の前か全て真っ赤に染まり、縁が暗く、視界が狭い。


 三階から降りる為、階段を見つけた。そこにはいくつもの光る眼がまるで待ち伏せているかのように、一斉に私を捉えた。


「なんだ、こいつは!?」


 一人が叫ぶと、次々に声が上がる。


「こんなの、どこから沸いた?」


「捕獲しろ! 生け捕りにしろ!!」


 瞬く間に取り囲まれた。


 連中は全員、漏れなく狼に変身し対峙する。


 一頭が先手を打ってきた途端、三頭が同時に噛みついてきた。全員を一度に相手することなど不可能だ。統率の取れたチーム相手ならば勝ち目などない。それに、私は実戦経験が無さ過ぎる。


 そうとは言え、やられっぱなしは御免だ。先走って襲って来た一際大きな狼の喉笛に噛みつこうと立ち上がる。前脚で相手の身体にしがみ付き致命傷を与えようと顎を伸ばした。すると、下から鋭い牙で噛みつかれ。次々に何頭もの牙によって、制圧されてしまった。


「こいつ、トンネルの上で襲ってきたヤツだ!」


「…一頭だけか?」


「俺が見たのはこの一頭だけだ。こんなのがウロウロしてたんだ。あの数の死体の説明がつくんじゃねぇか?」


 あの数の死体? 死体など、関わったことはないのに言葉を発することもできない。


「見ろ! こいつ、とんでもない蘇生能力だ!」


 噛みついた一頭が叫んだ。


 無念の形でひれ伏した私の周囲には、十頭ほどの狼が集まってきて、冷たい目で私を見下ろしている。


「この娘は今朝の通り魔事件の被害者だ。襲った女はおそらくハンターだろう。厄介者を呼び寄せやがって…」


「もしかすると、ラブホテルの死体もこいつの仕業かもしれん」


 ハンターと聞いて一同は不安げにざわついている。あの女の正体を知る者はここにも居ないことが、これでわかった。


 手足を縛られ、引き摺られるように檻のある部屋に連れて行かれ閉じ込められた。沢山ある噛み傷から血が流れ落ちているのに、誰一人動じていない。血の臭いに慣れているのだろう。


「この娘から目を離すな」


 偉そうな奴がそう言うと、皆頭を低くして無言で命令を受けた。河川敷の狼がどいつか見当もつかないほどの頭数がいる。ここまで大きな組織だとは思っていなかった。七年前、逃げて正解だったのだ。


 見張り役の二人を残して、他の連中が直ぐに出て行った。残った男はどちらも二十歳程度の若さに見える。ひとりはフチなしのメガネをしていて、もう一人は刈り上げ頭の男。


「…あんたら。一体、何なのさ?」


「……」


 メガネが露骨に視線をそらしたが、もう一人が興味深いものを眺めるような目で、私を見下ろしている。いつの間にか人間の姿に戻ったのだと、気付いた。


「それはこっちの台詞」と、刈り上げの方が応えた。


「よせ! 余計なことを言うな。後で裁かれるぞ」


「ふん、そんなことを恐れてたら戦士なんてやってられねぇっての」


「やめろ」


「お前に命令される筋合いなど、ないね」


 二人は突然、対立を始めた。シンッと静かになった途端、悲鳴や怒号が遠くから届いてくる。黙って耳を澄ませていても、様子がおかしい。


「何が起きてるんだ?」


「…俺が知るわけねぇだろ!」


 若い二人は噛み合わない。噛まれた傷が塞がり、血が流れなくなると力が戻ってくるのを感じる。目を閉じて、指一本から身体中の筋肉の状態を確かめていく。


「あんたら、行かないの?」


「うるさい!」


 メガネが怒鳴った。


「さっき外にいたでかい鳥。あれがあんたらの上司を今頃全滅させてるかもしれないよ」


 動揺と恐怖に染まっていく表情を見ていたら、この子達の経験値が何となく知れた気がする。


「俺達はお前を見張れと命じられたんだ!」


「俺、ちょっと見てくるわ」


「ダメだ! 勝手な行動はやめろ!」


 揉み合う二人を横目に、私は鍵穴に爪の先を差し込んで開けた。そっと押し開いた出口にまだ気付かない。スルリと壁と床沿いを通り抜けて半開きのドアを開ける。やっと異変に気付いた二人が、また互いを責め合って追っても来ない。そうやって、いつまでも怯えて泣いて居れば良い。子供は大人しく安全な場所で寝ていろ。


 建物内に殺気が満ちている。階段まで来ると、血の臭いがここまで届いた。本当に多くの犠牲が出ているのだろう。あの黒い鳥の正体は? 狙いは?


 ともかく、一方的にやられっぱなしのままでなどいられる私ではなかった。

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