表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第九章 あなたの隣で眠らせて
26/33

あなたの隣で眠らせて 1

      *


「もしもし? 啓介さん?」


 電話は繋がるのに、なぜかすぐに切れた。耳から携帯端末を下ろしながら現場を見渡すと、ついさっきまでそこに居た救急車もいつの間にか消えていた。


「ちょっと、相良! あの子を乗せた救急車、どこに行ったの?」


「死んでるんなら、運ばれる先はもう決まってるじゃないですか」


 相良は不貞腐れた顔を私に向け、目付きの悪い反抗期の子供のように睨み上げてくる。迫りくる顔に両手で押し返そうとすると、手首を掴まれた。息がかかる距離から燦々と輝く瞳孔に目が吸い込まれてしまう。


 ―――ドクン。


 背筋に冷水が差し込まれたような気味の悪い感覚に襲われる。音も風景も遠ざかり、まるで水の檻に捕えられたような幻の中に閉ざされた。空気が水のように重く、質量のある壁が私から自由を奪う。


 相良仁人は口角を上げ、歪に笑って私の背後を見つめながらつぶやいた。


「今度こそ逃がすかよ。あんたはここで大人しく待ってるんだな…」


 意識が遠のきかけて、咄嗟に唇を噛みしめた。天地がひっくり返るような激しい眩暈に襲われ、何かに捕まろうと手を伸ばしたけれど何もない。両膝をついて地面にしがみついていると、今度は耳の傍でブーンと羽虫が羽ばたいているような不気味さに包み込まれた。意を決して目を開けても、見えるのは黒い布越しのような朧げな光だった。


 グルグルと目が回る。それが加速して手足からも力が抜けていく。


「相良! 何をしたの?!」


 どんなに叫んでも、応答がない。


 これは、毒なの?


 なにが起きているの?


 自分が今、どうなっているのかよくわからなかった。


 目覚めると、見慣れた場所に私はいた。薄暗い廊下の隅っこに置かれた警察署の中のベンチのひとつに座っている。周囲には誰も居ない。完全に静寂の中にいる。怪しく点滅する緑色の非常口灯が、不規則な音を立てているだけで、人の気配が全く感じられない。


 喉が渇いていた。唾を飲もうとしても、口の中がカラカラに乾いている。ジャケットのポケットに手を入れても、頼りの携帯端末は入っていない。


 ―――どうなってるの?


 混乱した。左腕には就職祝いにパパから贈られた腕時計が、きつめに嵌められているからだ。それにスーツや靴も、あの頃ユニフォームのつもりで着倒したものばかり。ショートブーツは五センチのハイヒールになっているのに、スニーカーのようにしなやかでグリップが効いている。これはもう非売となったもので、どんなに欲しくても手に入らない。だから私はもしもまた気に入った靴に出会ったら二足買おうと決めている。爪先と踵の感触を味わっていると、廊下の一番奥のドアがひとりでに開いて、薄明かりが覗いた。ギクリと驚きながらもゆっくりとおそるおそる歩き始め、ドアの中に意識を集中させていく。


 右手を伸ばしてドアに触れようとした時だ。怒号が響き渡った。


 飛び上がるほど驚いたけれど、浅く短い呼吸を繰り返しながら、耳を澄ませた。間違いなく声なのに、残念ながら何を言っているのかまではわからない。複数の者達がほぼ同時に声を発しているようだ。殴ったり蹴ったりするような暴力的な音の中に、ごく短い呻き声と共に怒号が激しく繰り返される。


 怖くて逃げ出したいはずなのに、どうしても中を見なければ…。そんな責任感が私の身体を制御した。音を立てないように祈りながら、そっとドアを引き開けていく。薄暗い明かりが突然眩いばかりに輝いて、思わず目をそらした。


「佳純! 見るな! 見てはいけない!」


 パパの声が聞こえたけれど、光の槍に襲われて立っているのがやっとだった。


 そして、次の瞬間。


 私は戻ってきた。低く垂れこめた黒い雲がまた、時雨を振らせている。誰も私に関心がないようで、茫然と立ち尽くしていた。ここがどこで、今何をしなければならないのか、思い出すまで指一本さえも動かせない。強い疲労感とそれ以外の何かが、私を止めているようだ。


「村本さん!」


 名前を呼ばれて振り返ると、いつかのストーカー相談に訪れた女性だった。漸く、金縛りが解けたように彼女の傍に身体が動く。雪へと変わるかもしれない雨に濡れながら、彼女に近付いた。


「あの…、私見たんです!」


 ふんわりとしたカールを揺らし、怯えた目付きで私を見詰める。引き攣った頬には薄いくぼみが浮かんでいる。


「見たって、犯人を?」


 彼女はこくりと大きく頷いた。


 目撃情報を採集すべく、野次馬や近隣の家に事情聴取をしている途中だったことを思い出した。現時点でどれもこれも似たようなものばかりで、誰も加害者の特徴を詳細に説明できる者がいない。ただ、白いコートを着ていたということだけだ。


「あの白いコートの女の人、もう半年も前からこの辺りに出没してます!」


 そう言いながら、自分の携帯端末を忙しない手付きで操作してから、画面をこちらに向けてきた。ガラス越しの向こう側を横切る白いコートを着た女が映されていた。滲んでいるため、顔を識別できない。ぐるりと襟を立てていて、口元がまったく見えない。額がむき出しで髪は真ん中で左右に分けられており、コートの中に納めているせいで髪の長さは不明。


「なんでこの女だと?」


「これから罪を犯そうとする目をしてました!」


 真顔で鬼気迫る勢いが説得力を増している。この女性はかつての恋人に執拗に追いかけ回され続け、自宅で待ち伏せされた挙句に肩を果物ナイフで刺されている。現行犯逮捕を狙って張り込みをしていた私は、一歩現場に踏み込むのが遅れてしまった。それにしても、殺害未遂に終わったとはいえ、そうした犯罪被害を体験した彼女の証言は無視できないものがある。


「フルムーンというパン屋の前に、毎朝開店と同時に毎日現れるんです。パンを買う素振りもなく、突っ立っているだけでした。今朝も同じ時間に、同じ場所に立っているのを母と私はこの目で見ています! でも、今朝はいつもより早く立ち去っていました」


 フルムーンは橘探偵事務所の真正面にある店の名前だ。彼女の実家でもある。


「橘さんのお嬢さんを狙っていたんじゃないでしょうか」


 その言葉に、今回の事件の構図がうっすらと視えてきた気がした。啓介の話では、永島智樹と橘あみは恋人同士だとか。私は証言者に礼を伝えてから、もう一度きっちりと事情を聴こうと二台目の救急車に駆け寄った。


 様子がおかしい。


 無人だ。


 運転席や助手席に誰に姿もなく、車両の後ろに回り込んでみても中身は空っぽ。永島智樹を保護した際に身体に巻き付けた銀色のシートがくしゃくしゃに丸められて、落ちている。良く見れば、少し離れた場所にオレンジ色の制服を着た白いヘルメットの救急隊員が片膝をついてしゃがみ込んでいた。


「どうしたの?」


 隊員は気分が悪そうな顔を上げた。


「わかりません。急に目の前が真っ暗になったんです…」


「男の子は?」


「…わかりません」


 周囲の警察官に聞いても、誰も永島智樹を見ていないことがわかっただけだった。


 ―――相当なショック状態だった彼がどこへ消えたというの?


 少し離れた場所から、再び橘啓介に電話を入れる。さっきは出なかったのに、今度はたった数秒で応答があった。


「啓介さん? いま、どこ?」


 矢継ぎ早に訴えても、電話の向こうは静まり返っていた。


「啓介さん? ねぇ、聞こえてる? もしもし?」


 携帯端末は音もなく回線を切断した。圏外の印に愕然とする。


「…電波妨害?」


 その時、刺さるような視線を感じて顔を上げた。皆、思いおもいのことをしていて、誰一人私を見ている者なんていないのに、見られている気がしてゾッとする。こうして眺めていると、焦っているのは私だけ。凄惨な事件が起きたばかりなのに、誰一人怯えた様子がない。


 ふと、またあの耳鳴りが聞こえた。


 私は両耳を塞ぎながら速足で坂を降り始めた。こんな時に車がないなんて最悪。


 誰かに着け狙われている気がして、コンビニに逃げ込み、トイレの個室に入って鍵をかけた。激しく高鳴る心臓の音と、息苦しさで乱れた呼吸を整えるために、ドアの裏に額を当てて目を閉じる。瞼の裏に焼き付いていたのは、血まみれの永島君に抱きかかえられた少女の死に顔だった。


 消えた少女の遺体。それはまさしく、橘あみだったのだ。


      *


 白い。どこまでも、白い地平線が横たわっている。


 砂でもなく、コンクリートでもない不思議な地面を両手で押して、身体を持ち上げた。痛みや重さは消えていて、風も匂いもない。立ち上がり、両手を握っては開いていると、誰かが歩いてくることに気付いた。


 少女がいる。白いドレスを着た、懐かしい顔。頬が薄いピンク色に染まった彼女は、私と目が合うと薄く微笑んだ。温かい眼差しだ。


「ミア!!」


 駆け寄ろうとした私に向けて、ミアは右手をかざす。すると、私の身体は動けなくなる。まるで、その場に足が縫い付けられたようにびくともしない。


「…聞いて、アン。あなたはまた仮死状態に陥ってしまったの」


「また?」


「覚えてない? あなた、二度も仮死状態になったことがあったでしょう? 私達の命は三つ。次に目が醒めてもう一度死ぬことになったら、今度こそ永遠に目覚められなくなるわ」


 ―――そんなの、今初めて知ったよ。と、言いたいのに、声が、出ない。


 胸を締め上げてくる様々な想いが溢れ出しそうで、嗚咽が出た。


 苦しい。辛い。悲しい。怖い…。


「聞いて、アン。時間がないわ。あなたを助けたいの。だから、言いたいことは山ほどあるだろうけど、今はそれよりも大事なことを伝えたい」


 ミアはそういうと動けない私のところまで歩み寄り、両腕を伸ばしてそっと抱きしめた。実体のない透き通った身体からは、悲しいほど何も感じ取れない。それが、命ある者とない者との違いなのだと、実感した。


「ミア…、ごめんね。私を庇ったせいで死んじゃったんでしょう?」


 ミアは耳元で、優しい声で囁いた。


「アン。あなたを愛してる。なにがあっても、どうなろうとも、あなたを必要とし愛する者がいることを絶対に忘れないで。強すぎる力はあなたから理性や記憶を奪おうとするわ。…敵は目の前にいるんじゃない。あなたの中にいる。よく聞いてちょうだい。 力に操られてはいけない。あなたが力をコントロールするの。自分を信じるだけでいいのよ?」


 透き通った指先が頬を伝う涙をなぞる。ミアはあの頃となにひとつ変わらない仕草で、まるで実の母親のように微笑んだ。


「私達は、…何なの?」


 ミアは人差し指を唇に押し当てる。そして、悲し気な微笑みを浮かべて囁いた。


「その謎を解いてはいけない…。あなたが何者かは問題じゃないの。どう生きるかを決められるのは、あなた自身だわ」


「ミア!」


 彼女の輪郭が水の落ちたインクのように溶け始めてしまう。


「消えないで! まだ、傍に居て!」


 私から離れていくミアを呼び止めたけれど、無駄だった。悲しくて辛くて、その想いに溺れながら泣きじゃくるけど、泣いたって何かが変わるわけじゃない。ミアは顔だけを残して宙を漂いながら言った。


「最後のチャンスよ。橘あみとして生きたいのなら、それも良い」


「嫌だ! 逝かないで! 私をひとりにしないで!」


「もう、ひとりじゃないでしょう? あなたを愛してくれる人に巡り会ったじゃない。彼らを愛するのよ。その愛が、あなたを強くする」


 そう言い残して、白い世界に溶けて消えていったミアの名を叫んだ。


 守ってくれてありがとうと伝えたかったのに。


 いつだって時間は待ってくれない。


 ミアと過ごした記憶が過去になるには、もっとずっと長い時間が欲しいのに。残酷な運命に翻弄され続けたあげく、こんな異国の地で命を落とすなんて…。辛過ぎる。


 重い嘆きを吐き出すまで、しばらく動けなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ