運命の歯車 3
「何があったの?!」
頬を引きつらせながら、俺達を見下ろしている。俺はあみを抱きしめたまま、村本刑事を見上げた。
「…智樹くん」
彼女の太い声が、さっきの白いコートの女の声に似ている気がして、身構えた。
「その子、生きてるの? 死んでるの?」
「生きてます!」
「あんな傷で生きていられるわけがないだろ」と、誰かが言う。
どれ程の時が流れたのかわからないせいで、俺は不安のどん底に突き落とされた。呆然と眺めてるしか能がない連中に八つ当たりとわかっていても怒りが収まらない。何か叫びたいのに、言葉が出てこない。
「可哀想だけど、もう…」
「その子は死んでるわ」
「どう見ても、死んでるじゃない」
他人事の連中が口々にそんなことを言うのを黙って聞いていられず、俺は頭にきて吠えた。
「うるさい! あんたらは観てるだけで、なにもしようともしない! これが、自分の家族だったら、そんな悠長なことやってないだろ?! 助けてくれよ! どうして簡単に諦められるんだよ?! 手を貸してくれ!」
「わかったわ、智樹君。…その子を、見せて?」
「……」
「助けてあげるから」
村本刑事の毅然とした言葉に、俺は我に返った。腕の中で固くなったあみを見て、俺は奇跡が起きなかったことを実感する。彼女は、どう見ても。
「…あみはただ、俺を助けようとしたんだ…」
いやだ、いやだ、いやだ…。
せっかく出会えたのに。
やっと結ばれたばかりなのに。
今から始まるところなのに―――。
「彼女は、死んでません」
俺の口から、そんな言葉が飛び出すと。村本刑事は、ゴクリと唾を飲み込んだ。他の警官たちや、白い制服を着た救急隊の人達がやってきて、俺からあみを奪ってしまう。
「君も酷い怪我だらけじゃないか」
「手当てしないと」
「立ち上がれるかい?」
そう言って、俺も担架に乗せられそうになった頃。
「あみ!」
探偵の声が耳に届いた。
俺は、穴があったら入りたいぐらい自分が情けなくて、許せなくて、恥ずかしい。彼女を守るどころかまた、守られて…。こんなことになるぐらいなら、あの時死んでいれば良かった。
「智樹!」
啓介さんは、あみよりも先に俺のところにやってきた。
「なにがあったんだ?!」
何から話せば良いのか…。頭が朦朧として言葉を選ぶより前に何も考えられない。辛くて惨めで、残酷な現実に打ちひしがれた。
探偵は俺を見限って、あみのところに向かった。その背中を見送ってから俺は目を閉じて、心の中全部闇に沈んでいく。どこまでも無力な自分を呪いながら、手についたあみの血を舐めると、身体の奥で何かがぶるぶると震えた。
*
そんな馬鹿な!
知らせを受けた時、俺は耳を疑った。佳純からもたらされた内容に背筋が凍る。彼女は慌てて服を着て、あっという間に刑事に早変わりした。現役だった頃の俺もこんなものだったはずなのに、一歩も二歩も出遅れてしまう。
「すぐに迎えが来るの。五分で良い、時間をずらしてここを出て」
「…わかった」
佳純は心配そうに俺の頬に口付けると、長い髪をなびかせて去って行った。
深夜に自宅に戻らず佳純の部屋に転がり込んだのは、あんな事があったせいだ。河川敷で見た死体が、また消えた。今まで何度も殺人事件を扱ったことがあっても、あの死体の異様さは抜きん出ていた。女子高生か大学生か、二十代前半の女性か定かではないが、それを調べる前に忽然と消えてしまった。
それに、あの時。得体の知れない者達が闇の向こう側で蠢いているのを確かに感じた。目を凝らしても見えない、そんな濃い暗闇の向こうに奴らはいた。殺気を感じて、立ち上がろうとした瞬間に空気が変わった。渓流の音の中に、ざぶんという水しぶきを聞いた気がする。その瞬間、吹き抜けた強い風が樹々をざわつかせ何もかもをかき消した。
俺は咄嗟に怖くなり、その場から逃げ出した。それ以上そこにいると、自分が死体になりかねないと感じたのだ。
智樹が通報してくれたおかげで警察が駆けつけて来たその中に、佳純の顔を見た途端。彼女に触れたくなった。どうしようもなく突き上げる欲望を我慢できず、人々が引いた直後、死体が消えたという異常事態だというのに、佳純を掴まえて自分から求めてしまった。怖い。自分の死を意識した途端、今そこにある恋人に縋りつきたいと欲する。浅ましいかもしれない。罪深いかもしれない。でも、佳純は嫌な顔をせず、どうしようもない俺を受け入れてくれる。
「ここじゃ、嫌。この後、うちに来て?」
激しくキスをした彼女の唇を見つめながら、今にも叫び出したいほど俺は興奮していた。わけがわからなくなりそうだった。でも、智樹を送って行ってやらないと。まだ、あの死体を作り出した犯人がこの一帯に潜伏している可能性が高い。あそこまでやられた死体が勝手に消えるわけがないんだ。誰かが運んだ…。そうとしか考えられない。
そう思ったら、恐ろしくて腰が砕けそうだ。
もしも、亜沙美もあんな風に攫われてきて内臓を…。胃が締め付けられ、吐きそうになる。気丈夫を装い智樹を自宅へと送って行くと、その家の大きさに俺はまた驚いた。
智樹の父親は資産家なのだろうか。子供二人と住むにしても不釣り合いな程、立派な家だった。なにより庭が広い。この住宅地の中でおそらく最大規模の土地を所有している。
あみも謎だらけだが、智樹もまた謎に満ちているということか。似た者同士が惹かれ合う…。そんなことを考えながら、俺は智樹と別れ佳純の家に真っすぐ向かった。
佳純はドアの前で待ってくれていた。会話もなく始まった逢瀬なのに、文句も注文もなくただ俺のされるがままに身を任せ鎧を脱ぎ捨てていく女。俺と二人でいる時だけは素顔のままでいてくれと願いながら、肌を重ねて行く。不可解な死体消失事件など一生に一度で沢山だというのに、なぜこうも俺達の傍で起きたのか。考え出すとどんどん悪い方へと進んでしまうぐらいなら、温かな肌に顔を埋めたくて無我夢中で佳純に縋りついていた。
闇の向こうからこちらを狙う攻撃的な視線。確かに、俺は感じた。
怖じ気づいた途端、腰から下が川の水に浸かったように一瞬で冷たくなった。何かが起きて、俺は逃げ出せた。短い息遣いを聞いたような気がしたが、あれは何だったのか。緊張の糸が解けて、自由になった手足をなんとか動かして車まで戻った時も、振り向くのが怖かった。
時が経てば、あんなものは気のせいだと言えるようになることの方が多い中で、今回のケースは他と比べ物にならない。死が迫っていた。俺が食われる番だった。
だが、邪魔が入った。
ぶわりと武者震いが襲ってきて、情事の真っ最中なのに俺は過呼吸発作を起こした。小刻みに震える手足を掴んで、抱きしめ続けてくれる佳純の声に意識を持って行こうとしても、思い出すのはあみのことばかりで…。
俺にとって、あみは佳純よりも特別なんだろうか?
そう思ったら、胃の奥が痛いぐらいに苦しくなった。
「なんで、あんな子を引き取ったの? 養子縁組するならもっと小さい子が良いはずよ! 思春期にしては落ち着いてるし、伏し目がちなあの顔は七年前の消えた少女の死体にそっくり…。あなた、何かに取り憑かれてるんじゃない?」
前回のベッドで佳純に言われた言葉を思い返す。
「お前、あみに会ったことあったっけ?」
「…ないわよ」
「わかった。ちゃんと紹介してやるよ」
「なんて言うの? 私のこと」
その時、俺は言葉に詰まった。そんな俺を見過ごすわけもなく、佳純は短いため息を吐く。
「いずれお前の継母になる女だ、仲良くしろよ。ぐらい言えっての!」
強気なぼやきを聞きながら、俺はくつくつと笑ったものだ。それが、今。
佳純を抱きながら、あみを抱いているような奇妙な感覚に陥る。
それじゃダメだと考えると、今度はあみと智樹が抱き合っている画が脳裏に浮かんでくるのだ。俺はどうかしちまったのかもしれない。
冷えた身体を温めるために、二人で風呂に湯を溜めながら入る。重なり合う女の身体の柔らかさを手で弄ぶと、佳純がくすぐったいと笑い出す。彼女が笑うと空気が明るく軽くなる気がする。俺には勿体ないぐらい、良い女だと改めて思う。手のひらにすいつくような素肌の滑らかさを、俺の髭顎で撫でつけると大笑いする。
「俺は根暗だぞ?」
「そんなの知ってるもん」
「そろそろ、加齢臭とか気になるだろ?」
「まだ四十まで二年もあるじゃない? 気にし過ぎよ」
「事故物件だし、前妻は行方不明。水子もいる…」
「だから何? あなた、私に水子がいたらキスしないの?」
そう言ってまた、俺の両頬を手で包んだ佳純は愛おしそうにキスをしてきた。ゆっくりとやわらかな感触を味わってから、「私に何て言って欲しいのよ?」と甘く囁く。そして、くすくすと耳元で笑いながら女の割に骨太な声で言った。
「ちょうど七年目ね。あなたの仕事。本格的に手伝ってあげるから、四の五の言わずに今すぐ私と結婚しなさいよ」
そこまでハッキリと言われるとは思ってなかった俺は、笑うしかなかった。
「嬉しい? その笑い方、どっち?」
仕事中はタフな女刑事だが、こうしてじゃれる時は本当にただただ愛しい。色んな後悔があるのに、俺は幸せになる資格があるのだろうか? そんな事を考えると、躊躇してばかりだ。そこでいつも見透かしたように、佳純は俺の左手薬指を甘噛みしながら、魅力的な瞳でじっとりと俺を見つめながら、
「あなたの子供を産ませて。きっとうんと可愛い子に違いないわ」
そんな殺し文句でノックアウトされる。
おやっさんが不自然な死に方をして、周辺の奴らはどう見ても露骨な知らん顔を決め込んだ。あの時の空気だけは忘れてはいけないものだ。警察組織の中に殺し屋がいる。何が起きたのか知らないのは、俺と佳純ぐらいで、もしかしたら皆グルになっておやっさんを死に追いやったのかもしれない。あの日、俺は恐ろしくなり発作的に刑事を辞めてしまった。そんな俺を咎めずただ、求め合う男女の仲がこうして続いたことは何かの証明にさえ思えるのに。あみがまぶたの裏に浮かぶだなんて、本当に終わっている。
その時だ。彼女の携帯電話が鳴り出したのは―――。
警察車両が何台も止まっており、野次馬共を退避させているキープアウトの規制線を張った黄色いテープの下を潜り抜け、血まみれの智樹がいる救急車まで駆け寄った。虚ろな表情をしたまま動かない智樹の両肩を掴まえ、呼びかけてみる。幽霊のような青白い顔と焦点の合わない目が動き出した。そして、やっと目と目が合う。
「ふ…うぅ…うえぇ」
呻き声を漏らしながら泣き崩れていった智樹は、血塗られた手で俺の腕を力いっぱい掴んで、言葉にならない悲しみを訴えるだけだ。その様子から最悪の事態が起きたのだと感じる。まさか、そんな―――。
この目であみを見なければ。自分の目で見るまでは、何も信じない。
ドックン、ドックン、と心臓が大音量で鳴り出した。
俺は泣きじゃくる智樹を置いて、もう一台の救急車に向かう。制服警官の静止を掻き分け、角を曲がったその先に停まっている救急車を見つける。犯行現場となった場所で写真を撮る鑑識課の連中と、仁王立ちにして考え込む殺人課の連中がいたが、誰も俺には目もくれない。音も景色も遠ざかったかのようだ。夢心地で目的の場所に辿り着く。
青いシートをかけられた担架から、右手だけが零れ落ちている。女のわりに大きめの手だ。血と泥で汚れている。生気のない色に変化しているのが、俺にはわかった。
おそるおそるシートを捲り上げると、眠るような綺麗な顔をしたあみだった。その途端、ゾッとする。
似ている。七年前の視覚による記憶が降りてきて、あの時の甘い香りまでもが思い出された。高速道路の中で、まるで落下死したかのような二人の美少女。鮮やかな赤いワンピースを着た人形のような美しさ。だけど、手足があらぬ方へ曲がり、一人は顔面半分を削り落とされたように真っ赤に…。消えた方の少女は、まだ生きているんじゃないかと思う程、完璧な優しい寝顔だった。認めたくはなかったが、俺はその顔を見て欲情した。だから、解剖は立ち会えなかった。
信じられない。あの時も今も、俺は息が出来なくなるほどショックを受けている。
俺の可愛い娘の顔を、両手で包んだ。
弾力のある肌から、まだ命の気配を感じ取る。
「あみ! 起きろ! 俺を見ろ!」
黒ずんだ唇の端から流れ落ちる血だけが、やけに眩しく見えた。
これは誰の血だ?
途端にそんな疑問が浮かんだ。
「おい! 誰か、この血を採取するんだ」
傍に居た救急隊員に話しかけると、あからさまに迷惑な顔をされた。
「あなた、誰ですか?」
「俺は、元・殺人課の刑事だ! この子の父親だ!」
「さがって下さい!」
白いヘルメットを被りマスクをした救急隊員は強引に俺の胸を両手で押しやった。規制線の外へと追い出され、奴は急いで車の後部ドアを閉めた。
「それは俺の娘だぞ!」
隊員は完全無視を決め込んだ様子で運転席に乗り込んだ。そして救急車のランプのサイレンも鳴らさずに、裏道を進んで角を曲がって行く。その様子に猛烈な違和感を覚えずにはいられなかった。
『組織だ。その中には必ず、犬共がいる』
村本のおやっさんが俺に遺した言葉が、蘇る。
消えた少女の遺体事件の、直後のことだ。それまで幾度となく起きた死体損壊及び遺棄事件を追っているうちにひとつの仮説が思い浮かんだのだ、と俺に言った。そして、自分が死んだら間違いなくそいつらに殺されたと思え、と。そいつらが誰を指すのか、根性なしの俺は考えることもしなかった。
おやっさんは自殺に見せかけた殺人事件の被害者で間違いなかった。でも、俺は恐ろしくなり、逃げ出すことしかできなかった。
敵がどれほどの規模かも、見当がつかなかったのもある。多勢に無勢では勝ち目などないに等しい。
クラリと眩暈がしたが、俺は音もなく走り去っていく救急車を追うため、急いで自分の車に乗り込んだ。上空にはヘリコプターが飛んでいる。報道機関のものだろうか。窓を開けるとプロペラのけたたましい音が響き渡っていた。




