運命の歯車 2
*
「智樹! ともちゃん!」
懐かしい声で名前を呼ばれると、目を開けるのが怖くなる。目覚めたらこの声を聴き続けることができなくなることを、俺は嫌というほど知っているせいだ。
…どこにも行かないで。母さん。
どんなに願っても、敵わない夢―――。
死んだ人間は、生き返ったりしない。でも、本当はどうだろう?
俺はたぶん、一度だけ死んだことがある。
大きな翼を持つ何者かに音もなく攫われ、空を飛んだ。ぐんぐんと遠く離れていく時の景色も、本当は忘れてなどいない。
「智樹!」
ハッとして、目が覚めた。俺を起こした声の主は、遺影の中で静かに微笑んでいる。
薄暗い座敷で、俺はなぜか自分の部屋にあるはずの毛布に包まって寝ていた。そういえば昨夜はここであみと…。
「あみ?」
辺りを見渡したけど、彼女はいない。
立ち上がってリビングに行ってみると、PCの画面が明るく光っていて、椅子が定位置からズレている。あみの姿はない。洗濯機を見に脱衣所へ行ってみると、蓋が開いて中身は空になっていた。汚れ物を入れる籠の中には、彼女が脱いだシャツと寝間着のズボンが丸まって納められている。
拾い上げるとすっかり冷たくなっていて、寂しくなる。俺は躊躇いなくそこに顔を埋め、匂いごと息を吸い込んだ。いつもとは違う匂いが混じっていて、確かに彼女がここに居たことを教えてくれている。夢じゃなかったことを確認できて、ホッとすると同時に悲しくなった。
潤んだ瞳、掠れた声で俺の名前を呼んだあみ。暗い部屋で浮かび上がるほどの白い肌。触れるとはっきりと解る傷痕を唇でなぞったのも、彼女と指同士を絡め合わせた手のひらの感触も甘い吐息も…。全てが愛おしかった。俺を求めて涙を浮かべ、身体を開いて手足を絡めつかせてくれた彼女の意思がなにより嬉しくて。どんな酷く辛い過去があったとしても、俺なら、俺達ならきっと大丈夫だと伝えたかった。だけど、言葉にならない想いに溢れた身体を自分でコントロールするのは、想像以上に難しくて。余裕を失くした俺は、ただの獣のようになり果て、気付けば一人で眠っていたなんて。ゾッとするほど寒い。幻滅させたんじゃないか。だとしたら、どうしよう。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。
それにしても、どこに行ってしまったのか。まだ外は真っ暗だというのに。
行先も言わずに居なくなるなんて、心臓が、痛い。この痛み、母親を失ったあの日に似ている。
あの時の俺も、本当はどうしようもないぐらい寂しくて不安で、もう二度と触れ合えないのだと思うと息もできないぐらい、苦しかった。隣に妹がいるから、なんとか堪えられた。母親の死を理解しているのか、できないのか、微妙な感情の起伏しか見せない翔子に俺はひたすら微笑みかけた。
「大丈夫…。ぼくがいるから。ぼくがお前を守るから…」
俺は嘘吐きだ。守って欲しいのは自分の方だった。妹相手に情けなく泣くなんて出来なかっただけで、本当は我慢していた。繋いだ手はやけに熱く汗ばんでいて、どっちの汗なのかもわからなかった。ただ握り返してくれる小さな手があったから、俺は虚勢を張ることが出来た。九歳になったばかりの翔子は、不思議そうに母さんの死に顔を見つめていた。でも、蓋をされる時にやっと何かがおかしいと気付いて、泣き叫び始めた。それを見たら、そんなのを見せつけられたら…。父さんが困ろうと、周りの人達の同情の目を向けられようと関係なく、ようやく自分の目からも涙が溢れ出した。僅か十一年しか一緒に居られなかった母さんが、目の前の大きな炉に入れられていくのをただ見ているだけで、すごく辛かった。
俺はこの時初めて、人間は死ぬと火で焼かれ灰になるのだと知った。熱い鉄板の上で人の形をした白い骨が横たわっているのを見上げながら、身内や母さんの親しい友人らが箸を使って骨を拾っていく。当時、箸の使い方がままならないせいで、俺も翔子も熱い鉄板から離れた場所で見ていることしか出来ずにいた。四角い箱の中に集まっていく母親だったものを、複雑な心地で眺める。
係の人が箒とちりとりで最後まで綺麗に灰をかき集め箱に収めると、蓋をして白い綺麗な布を纏わせて、父さんに手渡した。強張った顔をした父さんは、今にも倒れそうで頼りなげだった。
思えばその時から父さんの言動はおかしくなった。最愛の妻を失う辛さと、母親を失う子供の寂しさを秤にかけたところでとは思うけれど、俺は父さんにはこの境地を乗り越えるだろうと期待していた。でも、そうはならなかった。
指の隙間から零れ落ちる砂のように、平凡な人生を失っていく様を感じながらも、俺はどうすることも出来ず、ただただ無力だった。口先で守るだなんてほざいたって、実際にはこの有様だ。誰のことも守れたことなどない。あんなに誓ったのに、翔子は心に消えることのない傷を負わされ、今も入院している。翔子とどんな顔をして会えば良いのかもわからない。
一人では何もできない。
なにひとつ満足にできやしない。
そんな俺が、父さんを責める資格なんかあるわけないんだ。
ギリギリと唇を噛んでいたのか、気付けば血の味がしていた。
*
今日こそは翔子の見舞いに行ってやらないと。そう思い、かなり早めだけど家を出発した。橘探偵事務所の向かいにあるパン屋で翔子が好きなメロンパンやあみが好物だというクロワッサンを沢山買って、持って行こう。そしてついでにあみに挨拶だけでもしようか…。
彼女は翔子に面会したいと申し出てくれている。あみが傍に居てくれたら、正直とても助かる。元々仲の良くない俺ら兄妹は、以前も今もどう接したら良いのかわかっていない。これを機にゼロから関係をやり直せられたら…。
閑静な住宅地の緩い坂道を下っていく。ふと、白いコートを着た背の高い女の人が向こうからやって来るのが目についた。髪は黒く長い。顔半分を覆い隠すようなマスクをしている。
目と目が合った。
切れ長の大きな目が俺を見つめている。
鋭い視線を投げつけられられた気がして、思わず立ち止まってしまう。
すると、甲高い声が住宅地に響き渡った。
女は急に走り出して、全速力で近付いてくる。
ざわり。身体中の毛が泡立った。
良く見れば女の袖口には血がついていて、大きな瞳が怪しく光っていた。まるで、狩りをする猛獣のような殺気だ。
殺られる!
一瞬、クラリと眩暈がした。目の前が霞んで滲む。次の瞬間、気付けば俺は女に背を向けて走り出していた。
「誰かぁぁぁ!!」
怒鳴り声をあげながら、来た道を戻る。必死で走ってるのに、足音が近付いてくる恐怖に、気が気じゃない。通報したくても立ち止まる余裕もない。なぜ、あんな女に狙われなければいけないのか、意味がわからない。
重力を無視するように足が勝手に動いていた。
追いつかれる前に家に逃げ込まなければ!
鍵をかけて刑事さんに電話しなければ!
家の鍵はジャケットのポケットに入っている。
角を曲がる時、左側に視線を投げると、白いコートの女との距離が近過ぎて腰の辺りの感覚が遠のいたと思ったら、足が縺れて転んでしまった。コンクリートに叩きつけられた勢いで、両手と頬を強打する。起き上がろうとするも、脚に力が入らずもたついてしまう。そうしている間に女がもう目の前に迫っていた。
その右手には見た事もないような黒いサバイバルナイフが握られており、振り下ろせばブスリと一撃で絶命しそうだ、と不吉な未来予想図が脳裏を過る。
俺は両目を閉じてその瞬間を待った。
咄嗟に思ったのは、なぜこうも不幸が降りかかるのかという疑問と憤りだった。
タッタッタッタッ…。
聞いたこともない足音が背後から迫っていた。
ぶわりと強い風を受けて、俺は手で顔を庇った。同時に、近くから女の悲鳴が上がる。
ガァァァァ!
獣の、声だ。
目を細くしたまま、恐るおそる様子を窺う。
ふたりが組み合ったまま、俺の直ぐ前に立っていた。
いや、違う。
良く見れば、黒い服を着ているのは人間じゃない。
耳が生え、長い尾が緩やかな弧を描いて揺れている。
大きな口が咥えているのは、ナイフを持つ女の白いコートの袖だ。女の指先から血が流れ出ていて、ポタポタとアスファルトに落ちていく。
「化け物め! 本性を現したな! これでお前は終わりだ!!」
女は良く響く野太い声で、叫んだ。
獣は首をグイと左に捻じり、女の腕を噛みちぎろうとした。女は左手にナイフを持ち返ると、獣の腹めがけて突き上げようとした瞬間。動きを読んだかのように、獣は女の腕から顎を外し、太い手で細長い女の身体を押し倒した。
俺のすぐそばに、白いコートの女が叩きつけられて、ゴンっという鈍い音を立てる。頭部を打ったのだろう。獣はたたみかけるように女の上にのし上がって行ったが、女が動物の脇腹に膝蹴りを入れた。獣は後退し、四つ足で地面に伏せそうになっている。女は立ち上がり、弱った獣に向かって左手に握り直したナイフを振り上げた。俺はほぼ同時に起き上がり、女の左手首を捕まえる。でも、動きを読まれていた。女の左足の後方キックが俺の下腹部に突き刺さり、後ろへと突き飛ばされてしまう。再び、コンクリートの上に投げ出された俺は肘と腰を打ち付けた。余りの痛みに、情けない声が漏れてしまう。
ガガガァァァァ!
獣の唸り声がさく裂し、女がまた悲鳴を上げた。
見ると、今度は脚を噛みつかれている。獣は容赦なく牙を突き立てながら、俺と目と目が合った。
その時、不思議な気分になった。この眼を知っている。
でも。まさか、そんな…。
女は獣の鼻っ面にナイフの柄を振り下ろした。
間一髪で離れた獣は、前脚の爪で女の手を振り払うが、女はその攻撃を交わす。同じ人間の動きとは思えないほど女は戦いに慣れていた。ナイフを持ち換え、獣に向かって突き刺す動きを繰り返すと、獣は耳を伏せて怯えたような顔をした。
敵は一人。こっちは、二人!
俺が、助けなくちゃ!
すぐ傍で散らかった荷物の中から、果物ナイフを掴む。キャップを外し、小さい凶器を得た俺は立ち上がり、獣を威嚇している女の背後に忍び寄った。
ブンッ、とまたキックが飛んでくる。俺は間合いを詰めずに、後ろに避けた。その瞬間。
背後に気を取られた女の顔目掛けて、獣は伸びあがり右手を振りかぶった。鋭い張り手が女の顔に当たり、女は横倒しになる。だが、左手のナイフを同時に振り上げたせいで、獣は右わき腹にナイフを受けてしまった。
「うおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
俺は叫んでいた。
獣は声をあげずにバサリと崩れ落ちた。
女は起き上がり、ナイフの柄を掴んで一気に引き抜く。夥しい血が、俺のところまで鋭く飛んできて顔に当たった。振り返り、俺の顔を見ながら不敵な笑みを浮かべ、女はよろめきながらも来た道を小走りに去って行く。
―――最初から、狙いは俺じゃなくてあみだったんだ!
俺は、泣き叫びながら獣に飛びついた。顔を掴んで起き上がらせたときは、黒い獣が愛しい女の子の姿に変わっていた。
「あみ!!」
あみだ!
あみだ、あみだ、あみが!!
傷を見ると、俺の手で抑えつけているのに間に合わないほどの大きな刺し傷から、次から次へと生暖かい血が溢れてくる。
「駄目だ!!」
また、俺は…。
誰も守れない!
嫌だ!!
「死んじゃ、だめだ!!」
ぐったりしたあみが、蒼白い顔をして俺を探すように目を泳がせる。
「…うぅ…」
それが、あみの精一杯の声。
俺はそんな彼女の顔を自分に向けさせて、唇を重ねた。冷たい、キスだった。
あみは唇の端っこを持ち上げるように薄く微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
いつの間にか騒ぎを聞きつけた住民たちが俺達を囲って、突っ立って見下ろしている。
「救急車を呼んでくれ! 助けてくれ!! 俺の命を、彼女に…」
もう、いやだ。
こんなのは、いやだ!
俺達は、なぜ生きているんだ?!
あの日、死んだはずの俺はなぜ今、こんな思いをしてまで生かされているんだ!
なぜ、母さんは死んで、俺は生きてる?!
助けたい!
この手で、助けたい!
泣きながら、無力を嘆きながら、俺はあの日、あの瞬間のことを鮮明に思い出した。
俺を殺した者が、俺に命を与えた時を―――。
黒い翼を広げ、手には細長い刀のような剣。はりつけにされて、脇腹より背中にかけて切られた冷たい感触。そこからなにかを埋め込まれた。それが何かは、知らない。知らない方がいい。知ったところできっと、何もかもが手遅れだ。
名前を知らない生き物は瀕死の俺に口付けした。青い炎のような何かが視界を覆ったのを最後に、俺は気を失った。次に目覚めた時は病院のベッドにいて、すぐ傍にいた母親に抱き締められた。それからしばらく、俺の体は平熱が三十五度あるかないかの低体温だった。
小さな胎動を感じながら、俺はどうすることもできず震えていた。いつしか、そこにどんなものが納められたかなんてことも忘れて生きてきた。今、この瞬間まで。
再び、あみの青い唇にキスをする。
彼女の身体に向かって俺自身が流れ込むように、神に祈りながら。
命を分け与えたまえ。
寿命が半分になっても構わない。
いや、一年後に死んだって良い。
俺から彼女を奪わないでくれ。
彼女は、ずっと探し求めていた大切な人だから。
俺の中に住み着いていた黒い翼の神に、祈りを捧げた。
救急車のサイレンが近付いてくる。
警察車両のほうが早い。降り出した雨の中、傘を持つギャラリーたちを掻き分けてやってきたのは、村本刑事だった。




