運命の歯車 1
寝息を立てる智樹に、二階の部屋から持ってきた毛布を掛けてやる。乾燥機付きの洗濯機で綺麗になった私の服を取り出すと、ホカホカと良い匂いがしていた。自分の体から智樹の家の香りがする。それがなんだか嬉しくて、しばらく服に顔を埋めて呼吸していた。やがて借りた服を脱ぎ自分の服に着替えると、泣き虫の私から強い私にスイッチする。
折れてから治癒途中の左腕を動かすと、もう痛みはない。傷の治りの速さには自分でも驚かされてしまう。
台所で、水道から直接水を口で受け止めながらゴクゴクと飲み干す。身体中に潤いが広がっていくような、満ち足りた感覚にしばし酔いしれる。
それから、ダイニングテーブルの智樹の席に座ってみた。高い天井と広すぎるリビング。大きな外窓の向こうに広がる庭の奥行きが半端ない。これほどの空間がありながら、自分以外の誰かが居ないなんて寂しいんじゃないか?
私のアジトと良い勝負だな…。
そんなことを思い、胸がギュッと痛んだ。娘が酷い目に遭ったってのに、なぜ父親は未だ不在なのだろう。これ程立派な家を建て、生活費を与えておけば勝手に生きて行けるって思っているんだとしたら大間違いだ。
親って一体なんなんだ?
物心ついた頃から、親がもう居なかった私にはそれこそ難題に思える。家の中をゆっくりと見渡していくうちに、自然とデスクトップ型のPCが目に留まる。電源ランプが猫の瞬きのようなリズムで点滅している。起動されたまま、スリープモードに入っているのだろう。
椅子から立ち上がり、PC用の机に近付いた。そして、前かがみの姿勢でキーボードのEnterを中指で軽く叩いてみる。すると画面が明るく変化した。
壁紙はどこかの砂漠に朝日が昇ってくるところを映した美しい画像だ。砂丘の稜線が重なり合い、波を打つ。そこに親子らしき人影が二人佇んでいる。あまりにも遠くて性別も年齢も判別できそうにもない二人の影は肩の辺りで繋がっていて、頭一つほどある身長差から恋人とも親子や兄弟とも取れる。彼らの他には何もない。
気を取り直してマウスを掴み、メールソフトをアプリリストから見つけ出してダブルクリックする。PCはすぐに反応し、新しいwindowが開く。ざっと見た印象では、広告メールや通販サイトの通知の類で埋め尽くされているようだ。
左隅にあるリストの中から、仕分けられたファイル【父さん】と名付けられたものにカーソルを合わせてクリックした。メールリストから最新のものを開けてみると、なんとも味気ない心情が綴られていた。感情を感じられず違和感しかない。茫然と目だけで何度も読み返したけれど、結果は同じだ。
娘が生きるか死ぬかと追い詰められてもおかしくない程傷付けられたのに、なぜだ。こんなにあっさりしているなんて…、不自然過ぎる。父親とはその程度のものなのか。いや、そんなわけない。だって、啓介は…。
世の中の全ての父親が、啓介のようにベタ可愛がりするわけじゃないとは思う。だけど、だからこそ、子供が理不尽な暴力に曝されて深い傷を負ったなら、何を差し置いても駆け付けるものであって欲しいのに。このメールの文字からは、体温を感じられない。これをどんな気持ちで読んだのかと思うと、胸の下が抉られるように傷んだ。
もしも、父親が妻の不慮の死を嘆いて精神的な均衡を失ったのだとしたら―――。
それだと、間違いなく私に責任がある。私が非力で無知だったせいで、皆を危険に巻き込んでしまった。
だから、私は。
辛くて、許せなくて、記憶を封印したのかもしれない。
「ごめんね…。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
バカの一つ覚えみたいに謝ったって、もうなにもかも遅い。
それから、デスクトップのpictureというファイルを開いた。翔子が映った画像がずらりと並ぶ。時々、智樹が映り込む写真がポツポツとあった。二人とも、周りの子供達ほどの笑顔はなくて、ぎこちないほど固い表情を浮かべている。
学校行事で撮影された写真だということは、すぐにわかった。啓介の仕事を手伝うようになって、写真を見る機会も増え、PCの使い方も大分様になってきている。しばらく、スクロールしながら写真を眺めていると、古い写真が混ざり込んできた。日付は三年程前なのに、写真の中の兄妹は明らかに幼い。
そのうちの一枚をクリックして、画面いっぱいに写真を表示させてからズームアップする。智樹の顔を確かめたくて、それらしい男の子を見つけては拡大表示をした。黒服を着た大勢の人々が神妙な面持ちで並んでいるその写真には、生気のない顔をした喪主が妻の遺影を抱いて、その隣に男の子と、手を繋ぐ小さな女の子が並んでいた。
指先で画面の中の智樹の顔に触れる。気力の薄い無表情を纏った彼の瞳は、悲しみに暮れていて、胸が…心臓が、鋭い刃物で突き刺されたかのように、痛んだ。
―――私は一体、ここで何をしているんだろう。
母親が、私のせいで死んだと聞かされた時の兄妹のことを想像してみる。
本で読んだり、テレビで多くのドラマを見て少しは学習したつもりだ。人間の心は複雑な反応をする。私ごときの経験値では推し量れない事態が起こるだろう。それでも、かなりきつい葛藤を与えてしまうことには違いない。それに、どんな言い訳をしたって事実は事実。何も変わりはしない。智樹と翔子の母親は世界に一人しかいなかったのに、まだこんなに小さかった彼らから母親を奪ったのだ。私があの時、あの場所にいなければ、彼女を巻き込んで死なせてしまうこともなかった。
悔しさと嘆き悲しみが溢れ、体のあちこちから血が滲むような苦痛とざわめきが起こる。十字架に貼り付けにされて、両手に杭を打ち込まれ、火で焼かれたほうがどんなにましだろう。
私は弱い。弱さゆえに庇われ、守られ、逃がされて命を繋いできた。
なぜ、こんな私を…。
どうして、私のせいで命を落とさなければいけないのか。
「誰か、…教えてよ」
込み上げる悲しみに溺れた。でも、嘆いてばかりもいられないのだ。自分の頬を引っぱたく。ビリビリジンジンと皮膚の痛みが脳に伝わってくる。自分の拳で胸や太ももを強く叩いた。そうでもしなければ、この底なし沼から這い上がれない気がした。
目覚めない智樹の頬に口付けして、裸の彼が寝冷えしないように毛布ですっかり包んであげてから、私は家路に就いた。
朝の気配の中、澄んだ冷たい空気を吸い込んで、腹に力を込めて一気に吐き出す。吐く息の白さになぜか懐かしさを覚えた。永久凍土の大地を蹴ると、土がまるで固くなったワッフルみたいな不思議な弾力があって、その上を走ると普段走っている時よりも何倍も速く走れるような感覚になる。そんなことを思い出していると、私の少し先を、良く似た姉妹が楽し気に走っているのが視え始めた。
「アン! ほら、見てごらん。これが霜柱だよ」
「わぁ、凄い! 土の中なのに、どうしてこんなものが出来るの?」
「土のひとつぶひとつぶにはね、水のベールを纏っているからだよ」
「水のベール?」
「そう。それが、上から降りてきた寒波のせいでこんな風に縦に凍るんだよ」
私は不思議だった。なぜ、ミアがそんなことを知っているのか。
そこでミアの目を覗き込む。その瞳は今ここにあるものをなにひとつ見ていない。ただ遠くを見つめて、何もない空だけを映し出す。
風のない日の湖を思わせる澄んだ瞳を、隣から眺めるのが好きだった。
彼女は、私の姉であり母であり、世界の入り口だった。
「…ねぇ、ミア」
「ん?」
やっと、こっちを見た。それでも、彼女の瞳にはまだどこか別の世界を見ているような不思議なズレがある気がして。不安になって、その手を握る。
「……」
「どうしたの?」
「…どうして私達は移動するの?」
してはいけない質問だとわかっていても、聞かずにはいられなかった。ミアの困った顔を見る度に約束を破ってしまう自分を責めたけれど、それでも。私達は次から次へと住処を変えて、北へ南へ移動を繰り返していた。物心ついた頃から、ずっとだ。
「アンは何も知らなくても良いの。前にも言ったけど、私達は流浪の民。ひとつところに縛られなくても良いのよ。だから風の向くまま、気の向くままに旅をしているだけ。深い意味なんて、ないわ」
一言一句繰り返される隙のない答えに、その時の私はもう違和感しか感じられなかった。すっきりしない顔をしている私の頬を撫でたミアは、笑顔になると決まってこう言うのだ。
「ほら。空を見上げてごらん。あの白い雲に乗って、どこまで行けるかな?」
空を見上げる。太陽がまだ顔を出してはいないけど、空が白んで渡り鳥が飛んでいくのが見えた。生まれた郷の言葉が聞こえてくるような風が、気まぐれに吹き付けてくる。旅はまだ終わらないのだろうか。私を知る者達はもう、どこにもいないのに。
深夜の住宅地を抜け大通りに出ると、まばらに車が走ってくるのが見える。白い排気ガスを掃き出し、エンジン音を立てて、私の前を走り去っていく。探偵事務所の看板が見えてくるところまで近付くと、パンの焼ける美味しそうな香りが漂い始めた。今朝もいつものように、美味しいクロワッサンを食べよう。そんなことを思っていた時だ。ふ、と視線を感じて顔を上げてみる。
真正面。距離にして十メートル。
そこには、白いコートを着た女が立っていた。
彼女は最初、探偵事務所の窓を見上げていた。でも、私に気付くとこちらに顔だけ向けて、大きく開いた瞳を細めた。
思わず、立ち止まったまま固まってしまう。
心臓が痛みを感じながら、速鐘を打っている。
体の向きが変わり、真正面に堂々と立ちはだかった女は、何か言いたげに口を開いた。でも、何も聞こえない。唇は動いているのに、声が届かない。
「あんた、誰?」
堪らず、そう聞くと。
「……忘れたとは、言わせない」
掠れたような声だった。そしてやたらと高音で、耳の中でねばつくような不気味な性質の音。
この喋り方、知ってる。
「あんた、よくも平気で生きていられるわよね…。人食いの化け物のくせに…」
憎悪が、女の白いコートから黒い煙となって立ち上る。
「思い出させてあげる。あんたが私の家族を、めちゃくちゃにしたことを。あんたの身代わりになって死んだ、あんたの姉さんのことも」
空が赤く染まる。
輪郭のあるものが黒く塗りつぶされ、自分達以外の物体が砂のように崩れ落ちていく。
「…何を、知ってるの?」
「それは、あの世で直接聞けば良い!」
女は怒鳴りながら前のめりになり、一歩を踏み出したと思ったら、物凄い速さで突っ込んできた。咄嗟のことで反応が遅れてしまう。
身構えようとしている間に、女は右手の袖から黒光りする細長い凶器を私に向けて振り上げ、渾身の力で真っすぐ下に振り下ろした。半身を翻して、寸前のところで交わす。女の凶器は切っ先が波打っている両刃のナイフだ。女は後ろ脚を軸にして回転したかと思ったら、胸の高さ程の回し蹴りを繰り出してきた。これにも自然と身体が反応し、後ろに飛んだ勢いのまま背中を仰け反らせ、両手を付いて回転する。流れに乗って距離を稼ごうと逃げるも、女はそのスピードに追いつくほどに走り込んでくる。着地点を計算したかのように、刃渡り二十センチほどもあるナイフで突き刺してきた。それを両手首を重ねたところに誘い込み、絡め取りにかかる。受け止めたと同時に右手首を掴まえ、傍らに受け流し背後を取った瞬間に膝裏を蹴り払った。なのに、女は膝から崩れることなく態勢を立て直し、後退。しぶとい。切っ先鋭いナイフが横一線に払われ、紙一重のところを過っていく。ナイフが往復する度に後ろに飛んで交わし、相手が一瞬止まったところで小刻みにステップをいれ、右膝を寄せ上げた高さからさらに爪先蹴りを繰り出した。
凶器を持つ手から黒いナイフが飛び上がり、クルクルと回転しながら住宅の植え込みに落ちた。
女は金切り声を上げた。
「いきなり何なの?! 人違いじゃないの? あんたなんて知らない!!」
怒りに歪んだ顔を見て、ゾクゾクと悪寒が走る。その顔を、どこかで…。
風景がぐにゃりと歪み、平衡感覚がおかしくなりそうだ。膝を曲げ、両手をだらりと地面に触れさせた。切り取られたように自分のいる場所が浮き上がり、それ以外のものが線になりぐにゃぐにゃとした模様を描き出す。
「ああ、だから? あんなに、幸せそうに笑ってられるんだ。全部忘れて、全部無かったことにして! そんなこと、この私が許さない!!」
女の声が怒りで震えている。時々、ろれつが回らないのか、舌を噛みそうになりながら、続けた。
「あんたみたいな化け物は、この世に居てはならない! 私が今日ここで殺してあげる!」
女は再び突っ込んで来た。その迫力に圧倒され、脚が思うように動かない。ナイフが目の前を通り過ぎ、私は無意識のうちに地面に伏せていた。次の瞬間、女が私の脇腹に渾身の力で蹴りを入れた。黒いブーツの爪先に固い何かを仕込んであるような、そんな鋭い一撃に全身に力が入らなくなる。
そして女は何を思ったのか、私の周囲をぐるぐると歩き回りながら呪文のような何かを叫び出した。反響し、いくつもの甲高い声が混じり合い、乱れた視界が渦を巻き始めていた。いつの間にか私の周囲に黒い花弁のようなものをばら撒いていく。香水のような自己主張の強い香り。どこかで嗅いだことのある、そんな匂い。
「この花を見ろ! この花を育てていた女を、…私の母を、お前が喰ったんだ!! 違うか?!」
語尾の弱さに、迷いを感じる。確信がないのに、私を犯人だと決めつけている。
「知らない! 私は誰も喰ったことなんか、ない!!」
「嘘だ!! お前は喰っていた。私は見たんだ! お前が母を殺し、心臓を掴みだして林檎のように噛みちぎったところを!」
嘘だ! 嘘だ、嘘だ、嘘だ!!
「ち、違う! それは、私じゃない!! 絶対に、私じゃない!!」
そう叫びながら、そうとは言い切れない自信のなさを自覚した。記憶がないうえに、証拠もない。強烈な飢餓は正常な意思をも奪う。絶対に自分じゃないなんて、言えない―――。
女は零れ落ちそうなほど目を剥いて、獣のような唸り声を上げた。苛立たし気に私の身体を固いブーツの底で乱暴に踏みつける。長い黒髪を振り乱しながら、地団太を踏む子供のようだ。その異様な光景に、悪夢を見ているような気分になる。
でも突然。ぴたりと静止した。その顔は、何かを思いついたような、無邪気な色を帯びている。
悪い予感しかしない。
「…しらばっくれるというのなら、お前の大事な男を殺す」
疲弊した声色だけど、明らかな殺意を感じた。しかも、相手は私じゃない。私が愛した男を殺すと宣言したのだ。甘んじて罰を受けようとしたが、裏目に出た。この女はとことん私を苦しめて復讐したいのだ。
女は私の左腕を何度も踏みつけてから、去っていく。すぐに動けない私のことを、嘲笑いながら。
彼女が進む先は、今私が辿ってきた道。智樹の家へと続く道だ。
智樹が危ない!




