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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第七章 生きる理由
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生きる理由 3 【あみ】

 智樹は面食らっていた。無理もない。まずは話をすり替えて、危機から脱することに決めた。空腹は命取りになる。


「…わかった。取りあえず、服を…」


 目のやり場に困ったように横を向いた智樹に、興奮してしまう自分を押しとどめながら、ベッドから白いシーツを引き抜こうとすると、苦笑いした智樹に止められた。


「着替えを出すから、シーツはやめよう?」


 耳も首もなんだか赤い。困ったように頭の後ろをひと掻きすると、クローゼットを開けて、引出しからTシャツとズボンを取り出した。


「これ、どうしたの?」


 私の脱ぎ捨てた着替えを拾い上げた智樹が、眉をひそめる。


「…川に落ちた」


「え? また?」


「溺れてる子犬を助けたんだよ」


「どうして、こんな時間に? それに…」


 聴きたいことは山とあるのはわかっているが、空腹が酷い。終には自分のこぶしを噛んでいると、智樹はギョッとした。


「…なにしてるの?」


「気分転換」


「手を、…かじることが?」


「いいから、早く温かいものを食わせてよ!」


 つい、勢いのまま怒鳴ってしまう。智樹はそれから黙って料理を振る舞ってくれた。


「牛肉は嫌い。豚肉も苦手。鶏肉が一番良い。でも、もっと嬉しいのは魚だ」


「…わかった」


 缶詰の魚でカレーライスを用意してくれた。カレーは好きだ。食欲を刺激される。付け添えのトマトも瑞々しくて美味しい。サバの缶詰と即席カレーは見事にコラボレーションしている。夢中になって食べていると、ふと智樹の存在を思い出した。


 顔を上げると頬杖をつきながら、興味深そうに私を見ていた。急に、なんだか恥ずかしい気分になってしまう。


「なに、見てんの?」


「美味しそうに食べるなぁって思って…」


「だって、美味いもん」


「うん。それ、俺も好きな組み合わせなんだ。料理したくない時に、缶詰とかレトルトで簡単アレンジ料理なんかして、息抜きしてたんだけど」


 母親のいない智樹は、きっとずっと前から料理をしなくちゃいけなかったのだろう。なんだか、申し訳ない気分になる。


 食べ終わった後、再び座敷に足を踏み入れると、懐かしい女性の顔写真が祭壇に置かれていた。彼女の名前を、私は思い出していた。


 永島 瑛子さん。私の何人目かの命の恩人だ。


      *


 病院のベッドで目が醒めた。隣を見ても、いるはずのミアの姿がない。


 心配になって起き上がろうとすると、身体中に痛みが走った。その痛みが引き金となって、何が起きたのかを思い出す。


 燃え盛る家を見上げている私。


 身寄りのない子供達が暮らす築年数のある古い民家。その仮初の家族を纏め、総て面倒を引き受けていた園長の塩岡照美さん。上は高校生から下は五歳児まで、合計十二人がいた。ミアと私は双子の姉妹として園長先生に保護され、半年ばかりお世話になっていた。


 園は街の資産家達からの支援と、園長先生個人の資産を切り崩しながら運営されていた。日本にはまだこんな場所があるのだなと感想を持ったことも、覚えている。


 点滴の針を抜き、ハラハラと包帯を解いて床に落とすと、私はベッドから降り立って窓に歩み寄る。そして恐々と暗い街を眺めた。


 冷たい真冬の夜のことだ。皆が寝静まった頃にどこからともなく焦げ臭さが漂ってきて、普段から眠りが浅いミアが私を起こした。私達が寝ている部屋は女の子だけがいて、男の子の部屋は一階にある。園長先生は二階の階段に近い部屋。他の先生達は中二階の部屋で寝ている。ミアが私を起こした時は、他の人達はまだ眠りの中にいた。


「アン。皆を起こして」


「うん。わかった」


 ミアは臭いの原因を調べるために、部屋を出て行った。


 私は友達を起こした。皆、直ぐには起きてくれず、「火事だ!」と叫んだら、やっと目を見開いた。部屋を出ると、煙が流れ込んできて廊下の天井には黒い川が出来ている。それを見た女の子らは悲鳴を上げた。


 「煙を吸っちゃだめ!  屈みながら進むのよ!」と、一番年上の幸子が言った。


 階段を降りていくと、廊下の壁はすでに炎に飲み込まれていた。これ以上進めないとわかり、二階へと戻る。七人の少女は身を寄せ合いながら混乱と恐怖で泣き始めた。ゲホゲホと咳き込んで動けなくなる小さな子を背負い、園長先生の部屋のドアを開けたとき。黒くて大きな背中がそそり立っていた。


 咄嗟にドアを閉めて、後退する。とてつもない恐怖に包まれた私は、茫然とドアノブを見つめていた。


 そこからの記憶が、ない。


 皆、どうなったのだろう。無事だろうか。


 先生達は? ミアは?


 包帯を外すと、露わになった皮膚はいびつに波打っていた。ところどころ赤黒くて、ただれた場所は薄い膜の下では生々しい真皮の赤がむき出しで、気持ちが悪い。でも、ザワザワと更に下の皮膚が蠢いて、消しゴムで消していくように元通りになっていく。ドクドクと鼓動が強くなり、息が切れてくる。汗をかくほど体中が火照り、溶けてしまうほど熱くなる。


 ガチャ。ドアが開く音がした。そして、ひたひたと足音が駆けつけてくる。霞む視界の中で見えるのは、白いナース服を着た女。彼女は身を屈めて私に聞いてきた。


「その怪我で動いたら、命取りになるわ! ちゃんと寝てなくちゃダメよ!」


 叱責の言葉なのに、慈愛の優しさが含まれている。抱き上げられ、ベッドまで運ばれて横たえられた。慣れた手付きで布団をかけられ、入り口に置いてあったワゴンを押してきて、そこから新しい針を取り出すと、私の血管に刺した。細い管に逆流する血液の色を見て、私はホッとしていた。だって、人間と同じ色の血だから。


「…あなた、名前は?」


「……」


「そっか、私がまず名乗るべきよね? 初めまして。私は永島 瑛子っていうの」


「…私は、アン」


「アンちゃん? 可愛い名前ね。それに、すごく綺麗な瞳の色…。きっと、お母さんにとったら自慢の娘ね」


 彼女はとても優しかった。やわらかい手で、私の顔に張り付いた髪を抓んで、耳の後ろにそっと押しやった。


「あなたが無事で本当に良かった」


「あの…。私にそっくりな姉がいたはずなんですが」


「え? お姉さん?」


 永島さんは考え込んだ。その表情から、知らないのだろうことは伝わってくる。


「じゃあ…、他のみんなは?」


 どうしても声が震えてしまう。聞くのが怖くて、悲しくて…。


 永島さんは首を振っただけで何も言わなかった。言えないが正解かもしれない。その俯き具合からも、最悪の事態を悟った私は。


 咄嗟に浮かんだあの黒い背中を思い出し、全身がガタガタと震え出した。


「どうしたの?」


 体温計を持ち、私の病院着に手をかけた彼女の目が、驚きで見開かれる。焼けただれていたはずの皮膚が、元通りになっていたせいだろう。


「アンちゃん! あなた、まさか…」


 ダン! ダンダン!


 突然。窓を叩く音に、二人して飛び上がった。永島さんが困惑しながら、窓に近付いてカーテンの向こうを覗いている。


「…今の、何の音かしら。あんな音聞いたことないわ」


 そう言って、こちらを向いた時。彼女の背後、ガラス越しに何かが動いたように見えた。


 次の瞬間。


 何枚もの窓が一斉に、割れた。


 ガラスの破片が全て、部屋の中に向かって飛んでくる。


 永島さんが壁になったお陰で、私は無事だった。


 でも、彼女は…。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 堪らず叫んだ瞬間、大きくて黒い者が窓枠から部屋の中に入り込もうとしていた。崩れ落ちた永島さんのを跨ぐようにして、そいつは床に両足を付ける。私はベッドの廊下側に転がり落ちて、四つん這いで逃げ出した。ガラス片の上をまともに走ったら、もっと危ない。だけど、手も膝も血まみれになっている。

 立ち上がり、ドアを開けようとしたらもうすぐ後ろにそいつはいた。


 ―――捕まったら、殺される!


 本能的に感じる殺気で、動けなくなるわけにはいかない。


 血で滑るドアノブをやっとの思いで回し、廊下に転がるように飛び出して、非常階段に向かって全速力で走った。何度も、後ろ髪をビュンと何かがかすめている。


 ―――風になれ! 


 故郷のシベリアの大地で訓練した時の記憶が、戻って来る。


「早く走ろうとするな! 風になれ! そうすれば身体は勝手に走り続ける」


 それを教えてくれた女性もまた、火事の中で命を落としている。


 もしかすると、あの時見た黒いヘルメットの女とこの黒い者は同じ?


 浮かんだ疑問は迫りくる気配とせり上がる恐怖に吹き飛ばされてしまう。


 ―――捕まりたくない! 死にたくない! 絶対に捕まるもんか!!


 無我夢中で走った。


 一度風と一体化した私は、ひとつ年上のミアよりも、速い。病院を飛び出し、雑木林に駆け込み、木々の間を縫って逃げ続けていく。何か月も過ごした街を背にして、色んなものを失って、一人で境界線を越えた。踏み込んだことのないその先へと単独で乗り越えていくのは、自分らしからぬことだった。しばらく、心を無にして只管走り続けた。


 膝上まで積もった雪の中。追ってくる黒い者の気配が消えた頃…。廃墟となった大きなホテルが、湖のほとりに佇んでいて私を手招いているように思えた。


      *


 ほんの僅かな時間だったけれど。私と接点を持ってしまったせいで、結果的に彼女は死んでしまった。偶然とはいえその身で盾となってくれたおかげで、私は何とかして逃げられたのだ。あんな形で巻き込まれてしまった永島さんには、本当に申し訳なくて。胸が苦しい。


 どんなに悔やんでも、あの頃の私はまだ守られることしか知らず、無力だった。言い訳なんて、しない。ただ、心から謝りたかった。


 でも、謝って済む次元の話じゃない。私に出会わなければ、彼女は死ぬことなんてなかったのに。


「…ごめんなさい」


 か細い声で伝えたけれど、死んだ人間は沈黙したまま、写真の笑顔を私に返してくれている。じっくりと見れば見る程、智樹は瑛子さんに良く似ている。


「アン?」


 智樹の戸惑う声がして、振り向いた。彼は困ったような情けない顔をしている。


「あみで良い。今は、橘あみだ。啓介がわざわざ戸籍まで作ってくれたんだもの」


「…そっか…。なんか、複雑だな」


 仏壇の前に座っている私の隣に、彼は座った。その大きな手が、私の頬を撫でる。


「泣いてるの?」


 言われるまで気付かなくて、自分の手の甲でグイグイと涙を拭うと、智樹に手首を掴まれた。そして、頭の後ろに回されたもう片方の手で彼の肩へと抱き寄せられる。そのまま肩に顔を埋めるようにして、私は目を閉じた。


「いますぐには話せない…。だけど、いつかちゃんと話すよ。だから、ごめんね?」


「どうして謝るのさ?」


 智樹は苦笑いを浮かべて、本当に困ったような顔をした。


「謝りたいんだ。私に出会った人は皆、傷付いたり、命を落としてばかりいたから…」


 智樹はキョトンとした。無表情に限りなく近い、驚きの顔。


「アンという名前は、二人だけの秘密だよ」


「わ、わかった。…でも、なぜ?」


「聞かないで」


 そう言ってまた、私から彼の首を腕を回してキスをする。謝罪と同情と、それを凌ぐほどの疼いた心のままに。


 畳の上に智樹を押し倒したら、彼は不安そうな表情を隠そうともせずに、だけどそのまま私を受け止め、深い口付けで応えてくれた。

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