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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第七章 生きる理由
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生きる理由 2 【あみ】

     *


 赤々と燃え盛る家の中で、私は立ち尽くす。火は瞬く間に燃え広がり、キャンプファイヤーのようにぱちぱちと音を立てながら、家の中のものをゆっくりと侵食していく。黒い煙が立ち込め、立っているのが危険な状態の中、私は炎の中に揺らめく人影を見つけて息を飲んだ。でも次の瞬間、影はもう消えていた。


 炎の行方を気にしながら、服の袖で口を覆って周囲を見渡してみると、床に倒れている女性の足が見えた。大きなソファとローテーブルの間にばったりと不自然な格好で動かなくなっているのは、誰だろう…。とにかく、その女性を助けなければと思い立ち、私は駆け寄った。


 彼女の腕を自分の肩に回し、脇腹を引き寄せて立ち上がらせ、出口に向かって数歩進むと突然足が止まる。今度は威圧的なオーラを放つ全身黒ずくめの女が、ヘルメットを被ったまま立ちふさがっていた。その手には長く伸びた棒が握られている。担いでいる女性の額からは、大量に流れ落ち続ける血…。こいつが全ての元凶なのだ、と、理解した瞬間。


「死…ね」


 女の声はかなり低く、滑舌の悪い不協和音のように脳内を引っ掻き回した。おぞましさに腰が抜けそうになったけれど、私は自分を奮い立たせるために思考速度を上げる。


 カーテンや壁を這い上がっていく炎が勢いを増し、充満する煙が目に染みて視界を邪魔してくる。気絶している女性を見捨てるわけにはいかず、彼女を背中に背負い直してから反対側の勝手口へと向かうことにした。


 ヘルメット女が追ってくるかと思ったけれど、なぜか追っては来なかった。嫌な予感がしつつも、選択肢を他に見付けられず進んだ。台所はまだ燃え始める前の状態で、唯一の逃げ道となっている。だけど、勝手口のドアをあけようとノブを掴んだら、そのあまりの熱さに悲鳴を上げ、手を離した。でも、諦めるわけにはいかない。歯を食い縛り、首に巻きつけていたマフラーを使ってドアを開け、外に飛び出そうとした途端。空気が、一瞬のうちに室内に吸い込まれていくのを感じて、私達は力づくで前のめりに倒れ、外に躍り出た。地面に顔を叩きつけながら、背後で大きな爆発を感じて固く目を閉じる。少しでも早く遠ざかりたくて、地を這いながらもがくように匍匐前進ほふくぜんしんした。


 背中を炎で焼かれてしまった女性は、もう死んでいた。泣きながら勝手口の外に置き去りにして家から離れると、屋根の上にはあのヘルメット女が立っているのが見え、金縛りのように動けなくなる。殺される。そう思ったけれど、女は人間とは思えない跳躍力で屋根から飛び降り、私には指一本触れることなくどこかに去っていった。



 ビクン、と全身が痙攣した拍子に目覚めた。また、あの夢を、見ていた。


 木から降りて、橋まで迂回するため小走りで移動していたはずだった。いつの間にか、疲れて座り込んだまま眠ってしまっていたようだ。


 車のヘッドライトがすぐ側を豪快なスピードで追い抜き、あっと言う間に遠ざかる。赤いテールランプを見詰めながら、私はゆっくりと歩き出した。広い歩道の端に寄り、欄干に捕まる。吹き付ける風は、益々強く冷たくなっていく。空腹と渇きでふらふらだ。これじゃあ、とても家まで持ちそうにない。


 ふと左側にチカチカ光る赤が目に飛び込んで来た。先程まで居た場所に、そこそこの人員が投入されている。目撃者が通報したのだろう。今頃人間達は消えた遺体のせいで混乱しているに違いない。雑木林の木陰の向こう側に並んだ緊急車両の数を見ると、大騒ぎという程でもない様子だ。それにしても、あの狼たちは遺体をどこへ運ぶのだろうか。


 歩き続けていても、歩幅が小さい。身体の自由が、あまり利かない。今、襲われたら間違いなくヤバい。早く進め。出来るだけ早くこの場を去れ、と自分に言い聞かせた。そして、死んだ少女のことを思う。その家族の悲しみを思う。胸が苦しくなる。駆けつけても、ああ敵が多いんじゃ手も足も出ない。


 どうしたら良い?


 どうすればこんな残酷な世界を終わらせられるのだろう。


 駄目だ。また、眠りそうだ。視界が霞んで、呼吸は極度に浅くなっている。行き倒れになりそうな自分を奮い立たせ、なんとか橋を渡り終えた。この空腹感を放っておくわけにはいかない。今すぐ、何か食べなければ。匂いを気にしてスモークジャーキーを置いてきたことを後悔した。燻製肉は良い。血生臭いそれとは違って、調味料の味しかしない。生肉は見るのも嗅ぐのも危険だ。私の中に住む獣が暴れ出せば、一緒にいる啓介に多大なる被害を与えかねない。


 そうだ。智樹の家に行こう。なにか、食べさせてもらおう。この冷えた身体も、温めたいし。まだ、左腕が痛むし、治癒は途中のようだ。


 心を無にして歩き続けること二十分。智樹の家は暗く冷たかった。塀を飛び越え庭に下り立つ。庭の大きな桜の木に飛び乗り、二階の部屋のベランダに降りた。そっと窓をスライドさせるべく押すと、簡単に開いた。


 「戸締りが成っていないよ、智樹」


 そうつぶやきながら、室内に入る。


 智樹の匂いに包まれると、なぜか心の穴が埋まっていく。最初は頼りない兄貴だと思ったけど、今は違う。彼は私とどこか似ている。


 思わず、濡れた服を全部脱いだ。不快で冷たい錘に解放されて、頭の先から足の爪先まで緊張が解けた。すっかり冷えた身体を、昼間の陽だまりが残した空気が抱きしめてくると、このまま押し倒されて眠りたくなる。押し寄せてくる疲れの波に浚われて思考停止。目の前のベッドに夢中で潜り込んだ。


 どうしよう。とても眠い。しかも、温かい。シーツの感触がなんて気持ち良いんだ。


 こうなると最早、空腹などは二の次になる。本当は、飢えたまま眠れば無意識に人を襲ってしまうかもしれないから、必ず寝る前にしっかりと食べることに決めているのに。


 ―――先ず食べるべきだ。寝るな。起きろ。


 重い瞼を無理やり押し開いた。その時、玄関が開く音が聞こえてきた。


 静まっていた家の中に家主を迎え入れた途端、沈殿していた空気がふわりと浮かび上がる。意思ある家はまるで飼い犬のように表情を変えた。



 耳を澄ませば、走り去る車のエンジン音。啓介の愛車だ。男二人、仲良く数時間も一緒にいたのか。そう思ったら、なぜか微笑ましくなった。


 でも、ベッドから消えた私に気付いたときの啓介を想像したら、途端に不安になる。彼がどれほど心配するか、想像できるからだ。今まで、何度も真夜中に抜け出したけど、一度もバレなかったのは啓介が良く眠っているタイミングを狙っていたせいだった。


 普段、眠りが浅い啓介は三日に一回のサイクルで深く眠ることができている。その寝顔を、私はこっそり見守ってきた。夢の中の啓介は、ある意味起きている時よりも素直で饒舌。どうやら忘れられない女がいるらしい。寝言でよく、あさみという名を口にする。私のことをその名で呼び間違うことも度々あった。自分で間違えておいてがっかりして、どんな存在なのか聞かせてもくれず、ただ何となく私と同じ寂しさを知っている彼が愛しくて。


 涙に濡れた寝顔にキスしたら、ピリッと静電気がさえぎった。私から啓介に触れると、必ず見えない何かに威嚇されてしまう。


 啓介の服や肌から微かな化粧品の香料が匂うときは、彼の身体は普段の固く重い感じよりも僅かにふやけて軽くなっている。忘れられない女の他に、恋人がいるようだ。その彼女は知っているのかな? 哀しみと寂しさの濃い香りは、誤魔化しようのない真実だと思う。


 だからこそ私は、父になってくれようとする彼の努力を裏切るわけにはいかない。困らせたら、恩返しにならないし、長く一緒に居られなくなってしまう。


 未練を振り切るように部屋を出て、夜風に吹かれながら街を駆け抜けた。切ない胸の痛みをやり過ごしながら、夜の住人達に遭遇しないように気を付けて、古い寝床に戻った。


 この場所に辿り着いた時のことだけは、はっきりと覚えている。他の記憶はきれいさっぱり失っていても、あの日を忘れることはできなかった。泣きながら辿り着いた秘密基地。私を安全な場所へと導いてくれたその人を、ただ感じる。


 その人はそっと囁いた。


「その謎を解いてはいけない。知らなくて良いことに、自ら手を伸ばしてはいけない。忘れるのよ。あなたは幸せになれる」


 朦朧としながら、そんなことを思っていた。


 足音が階段を上ってくる。智樹が近付いてくる。その足音で、ぼんやりした頭が急に覚醒した。ドアが開けられる瞬間、服を全部脱いでいたことを思い出したけれど、もう間に合わない。照明が付けられ、智樹が驚いて息を飲む気配を背中に感じる。


 覗き込もうと近付く彼の鼓動は、この上なく高鳴っている。何の言い訳も思いつかないまま、私は振り返った。そして、近付いて来た顔を両手で挟んで、彼の乾いたくちびるにそっと口付けした。


 脳天が痺れるほど甘美な衝撃が走る。孤独や過去が霞んでいく。


 ひとつになりたい。そんな願いが浮かんで、角砂糖が解けるように崩れ落ちる。甘さが増していく身体は、本能的に愛を求めている。


 啓介に感じる気持ちとは明らかに違う、この感じ。


 ただ、寂しいから? 寒いから?


 気まずくなったら、さっさと捨てられるから?


 様々な自問自答をしていくけど、それすら吹き飛ぶ程に智樹の体温は優しく私を包み込んでいく。彼は、私に恋をしている。それだけは、わかる。


 じゃあ、私は?

 

 その答えが今ここにあった。彼からの積極的なキスが嬉しくて、目尻から涙が流れ落ちていく。幸せ。その言葉の意味を噛みしめる…。


「あみ…」と、甘く囁かれると、何も考えられなくなる。抱きしめ返す腕に力を籠めたら、左腕に激痛が走った。その痛みに撃ち抜かれた瞬間、落ちていくミアが脳裏に浮かんだ。


 白いドレスを着た美しい少女は、手を差し伸べながら私の下を落ちていく。追いかけるように落下していく私の身体は、地上に叩きつけられた瞬間に引きちぎられた。赤い血の海が、私達姉妹の身体を飲み込んでいく。でもしばらくすると、離れていった血液が再び身体に戻ってきた。その中には、粉々に砕け散ったミアが混ざって私の体内に侵入してくる。何億という細胞のひとつひとつに、ミアが移り住んで、今も彼女は私と共にいる。


 生きる力を与えてくれた姉が、私の本当の名を繰り返し呼んだ。


「…違うんだ。智樹…、その名前は本当の名前じゃない」


「…何か、思い出したの?」


 優しい声だ。その声を聴いた途端、泣き出しそうになる。ずっと封印していた泣き虫で臆病な私が瞼を上げる。目の前には、智樹の端正な顔があった。我慢できず、また夢中でキスをした。深く強く繋がりたくて、せり上がってくる欲望を必死で抑え込む。そうしている間にも、また記憶が蘇ってきて…。


 過去が私に追い付いて来た。


 愛しくて大切な思い出が、残酷で惨めな思い出が、大量の情報が、砂嵐のように襲ってきて飲み込まれた。


 不安。後悔。懺悔。絶望。そして、愛し愛されていた幼い頃の思い出達。


 両親のいない私を連れて、悪い奴らから守ってくれた勇敢な人々…。


 私のせいで死んだ。


 私を守るために自らを投げ打って、皆、……死んだ!


 悲しくて、辛くて、全身が震え出す。


 そんな私を智樹は黙って抱きしめてくれる。


 今度こそ、守らないといけない。守る力がなければ、甘えてはいけないんだ。


 守られてきた私から、守るために戦う私になる。


 一人では決して、手に入らない勇気だけが、私を強くする。


「智樹。私の全部…知ったら、逃げ出したくなるかもしれないよ?」


 彼は唇を離した私を見て、うっとりとしながらも微笑んだ。


「それはないよ。だって、俺はもう君しか見えない」


「百年の恋も冷めるような、酷い過去だって言ったら?」


「…そんな脅しは通用しない。君の本当の名前、教えて…?」


 目と目が真っすぐに向き合った。智樹の澄んだ瞳のなかで、私がこちらをジッと見つめているのが見える。彼を通して世界を知りたい。血塗られた世界じゃなく、平和で優しい世界を知りたい。


「…アン…」


 掠れた声でつぶやいた。智樹は目を見開いて、でもすぐに優しい微笑みに戻る。


「あん?」


「…そうだよ。アンだよ」


 ミアには愛称で呼ばれていた。本当はもっと長い名前だけど、それだとこの国には似合わない。黒髪と灰色の眼、浅黒い肌と細い骨格。私はたぶん混血なのだ。日本人と西洋人の血が交じり合っている。


「あみとそう、変わらないね」


「あみは、私の姉さんの名前を逆さまから読んだんだ」


 智樹は少し考えてから「みあ?」と聞いてきた。


「そう。私は姉さんに良く似ていたから、周りの人にアミって呼ばれることもあった…」

 海を渡ってくる前の思い出に、少しだけ想い馳せた。色白で金髪の美しい女性達が一丸となって私達を逃がしてくれたのだ。皆、生きていてくれていると信じたい…。


 どこまで話せば良いのかわからない。だから今は、名前だけにしておこうと思う。


 智樹とは、嘘も偽りも要らない真っすぐな関係を結びたい。


 私の全てをいつか、知ってくれたら嬉しい。


 でも、あの呪文を思い出す。

 

 ―――その謎を解いてはいけない―――

 

 私はパンドラの箱。開けてはいけない謎が詰まっている。


「へぇ、もっと知りたい。全部、教えて? あみのこと、全部…」


 私の迷いとは裏腹に、智樹はそう言ったけど。言われて初めて、今度は自分がとんでもない期待を課してしまったことに、我に返った。


 自分でもまだ、自分の正体を掴めたわけじゃない。でも、明らかなことは。


 私は、人であって人にあらず。


 それを言葉にして伝えようとしたけれど、どう頑張っても声にならなかった。


 キスをやめて、私は息を深く吸い込んだ。


「お腹が空いた! なんでも良いから食べさせて!」


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