恋に落ちて 2 【智樹】
驚いたことに、あみの家はあの河川敷からほど近い古いテナントビルだった。一階は理髪店と小さな薬局が入っていて、二階の窓に「橘探偵事務所」というステッカーが貼られている。ロールスクリーンのカーテンが降りていて、電気は消えていた。テナントもシャッターが降りているし、三階と四階は二部屋ずつある賃貸アパートのようだけど、郵便ポストを見ると二部屋は空室のようだ。注意深く見れば、「TATIBANABUILDING」と書いてある小さな看板がある。持ちビル?
片道三車線の大通りに面したリバーサイドエリア。パン屋さんがあったり、総菜屋さんや軽食が食べれる昔ながらの喫茶店なんかも並んでいて、住みやすそうな町並だと思った。まさか、こんな場所に暮らしているなんて想像を裏切られた気持ちになる。俺はてっきり、住宅地の外れに立つぽつんとした一軒家に住んでいるという勝手なイメージを持っていたから…。
「上がってってよ。ついでだから、紹介するね」
「…お父さん?」
「そう。一応ね」
「お父さんが探偵なの?」
「そうだよ。元刑事だって聞いてる。でも、猫探しで最近は特に評判が良いんだ」
あみは楽しそうな笑顔で説明してくれた。鉄扉の鍵を開けて中に入ると、珈琲の残り香がしてすごく良い…。ほんのりと昼間の熱が篭る室内に、本や紙の匂いもある。窓辺から少し奥に設置された応接セットでは、大き目のカッチリした黒いソファーと、赤い一人用のソファーが置いてあって、もう一台の一人用椅子だけが異色のデザインをしていた。こじゃれた生地が張られ、地味な色調のオフィスにこれだけ浮いている…。
「これが依頼人用の椅子なんだって。うちの探偵は、ちょっと変なところにこだわりがあるんだよね」
「…俺、初めてだ。本物の探偵事務所に来るの…。もっと、普通のオフィスだと思ってたけど、なんていうか…」
呆然としつつも、書棚に目が行く。大きな図鑑みたいな革張りの本が並んでいて、背表紙には英語も多い。日本語で書かれた本は、以前市立図書館で手にしたことがあるものばかりだ。
「…頭のリフレッシュに、読書が趣味なんだ」
「あみのお父さんと俺、気が合いそう」
「どうして?」
首を傾げる彼女の仕草に、また俺の身体の奥がブルブルっと震えた。丸い目、特に表情がないけれど首を傾げたことで、無条件に降伏したくなる圧倒的な可愛さがある。唯一苦手な喋り方も、慣れてしまえば気にならない。もう、彼女のことが好きで好きで堪らないという気持ちに占拠される。
「本の趣味が似てるから」
「あ、そうなんだ。これ、私にはさっぱりで…」
あみは眉尻を下げて、本棚を眺める。斜め横向きの顔も、すごく魅力的に見える。
「まぁ、座ってよ。珈琲淹れてあげる」
「いいよ! 足痛めてるのに、そんなことしなくても」
「もう平気だから」
そう言うと、彼女はキッチンらしき奥へとスタスタ歩いて行った。唖然とする。
「せめて湿布貼って安静にしたほうが…」
そう言いながら追いかけると、三人がやっと座れそうな小さなダイニングテーブルの奥に、暖簾だけで仕切られた居住空間が目に飛び込んで来た。
「…全部、忘れてるってこの前言ってたよね。家族がいたんだなって思って…」
「本当の家族じゃないけどね」
「え?」
俺の驚く顔を見て、またあみが可笑しそうに笑う。そして、手際よくコーヒーミルで粉を挽き始めた。こんなの喫茶店でしか見たことがない。香ばしい匂いが立ち上り、深く吸い込むと一層気分が良くなる気がする。
「…啓介が、私を見つけてくれたんだ」
あみは一定の速度で、ミルのハンドルを回しながら伏目がちに囁いた。その仕草が妙に色っぽく見えてしまう俺の目はきっと、邪なのだろう…。
「飢え死に寸前だったの。…今でこそこの体型だけど、当時はがりがりの骸骨だったよ。何も思い出せなくても、啓介が良い父親になろうと頑張ってくれてるおかげで、今は幸せなんだ」
低くて沈んだ声色に、俺は黙って耳を澄ませるしかできない。彼女は優雅な所作で挽いた珈琲を、専用ポッドにセットされたネルにサラサラと流し込んだ。沸かしたお湯が入った口の細い珈琲用ケトルで、回しかけていくとふわりと珈琲が膨らむ。その真ん中に向かって湯を注ぎこむと、濡れた珈琲豆が驚くほどにこんもりと膨らんで、ゆっくりと黒い液体をポッドの下に滴らせていく。香りも音も静かで落ち着く。
大きなマグカップに並々注がれた珈琲は、本当に贅沢なほど美味しかった。こんなところでこんな感動と出会えるとは思わなくて、顔を上げると。あみはいつの間にか風呂場らしき奥の方に引っ込んで、俺は一人になっていた。
急に空気が引っ張られるように動いて、バタンとドアが閉まる音がする。振り向くと、細長くて顔の小さい男性が立っていて、訝し気に俺を見ていた。
「いらっしゃい…」
「あ、どうも! 初めまして! 俺は…」
「仕事の依頼ですか?」
「いえいえ! 違います! あみさんの…友達で…」
咄嗟に、恋人とは言えなかった。思った以上に若くて綺麗な顔をした探偵に、俺はまた驚いてしまって頭が回らない。
目の前までやってきた長身の探偵は、父親というにはあまりにも若い気がした。
「おかえり!」と、背後からあみの声がする。彼は咄嗟にあみの方に歩いて行って、隅っこで親密そうにヒソヒソ話を始めた。あみが彼を見上げている横顔に、釘付けになる。見たことないぐらい、可愛い…。
綺麗な顔立ちの探偵の顔は、良く見ると無精ひげに覆われていて、それがなければ男役の女優を想像してしまう。顔立ちは全く違う二人の親子はどこか似ていて、ちゃんと絆があることを感じさせる。警戒心剥き出しの目で、俺を品定めするように上から下から舐め回す視線で検品された。ムズムズする。
「まずは自己紹介をし合おうじゃないか」
長い脚であっという間に俺の前に立った探偵は本当に背が高い。見上げるほどの身長差に、慣れない。
「あみが世話になったらしいな」
俺は驚く。世話になったのは、俺の方なのに…。
「あ、あの! 俺は永島智樹って言います! あみさんには助けて貰ってばかりで…」
探偵は眉をひそませてあみに振り返った。あみはそっぽを向いている。わかりやすい誤魔化しように、ぼんやりと悟った。彼女は、彼に話していないようだ。
「…あ、あの。先日、俺の妹がそこの河川じ…」
「啓介! 珈琲飲むよな? すぐにあっついの淹れてあげるから、手を洗って来なよ!」
あみが遮った。探偵は俺の目を見て肩をすくめ、無言で洗面所に向かって行く。入れ替わりであみが近付いてくると、近過ぎるぐらいに顔を寄せてきた。
「…実は、あれ。まだ言ってないんだよ。そっちより、まずはさっきの件ね。自転車ないと困るだろ?」
ヒソヒソとそんなことをお願いされて。息がかかるほど顔が近いのもあって、俺は小さく頷きつつ、心中穏やかじゃいられなくなる…。ふわりと漂う彼女の気配には、何か見えない力があるような気さえする。否応なしに俺は、あみの匂いを一瞬で吸い込んだ。
彼が戻ってくる時には、もう離れていたあみが珈琲をマグカップに注ぎ始めていた。芳醇で深い珈琲フレーバーが、探偵事務所の中を満たしていく。探偵は長い脚を投げ出すように座り、脚を組んで新聞を手に取りつつも、俺に顔を向けて一息吐いた。
「さっきの、お前さんの妹が河川敷でっていう話……」
緊張が走る。
「あ、それね。実はあれ、智樹の妹が被害者なんだよ」
え? ちょっと…ちょっと、待って。なんで知ってるんだ?
新聞にさえ載ってない事件だ。それなのに…。その疑問はすぐに、あみによって解答を得られた。
「智樹。啓介の恋人は現役の警察官なんだよ。だから、報道前の事件も先に知ることもあるみたい」
あみのフォローが、俺と探偵の間に微妙な空気を流し込む。お互いに顔を見合わせながら、何か不穏な感覚になりつつある気がした。それに、あみは父親代わりの彼を呼び捨てにしている。なんだか奇妙な気がする。
「…なんて言ったら良いか…。気の毒過ぎて言葉が見つからない」
探偵は深刻そうな顔つきで、あみと俺を見比べた。
「そんで? どういう経緯で、お前ら知り合ったんだ?」
やましいところなんてひとつもないのに、俺はゴクリと唾を飲み下した。
「聞こえてきたんだよ。窓開けて寝てたらさ、女の子の悲鳴が…。気になって声がする方へ行ってみたら、智樹もそこに居たんだ…。それだけだよ」
彼女は視線を漂わせながら、ぶっきらぼうにつぶやいた。まるで、反抗期の少年のように。
どうして嘘を吐くのか、俺にはわからないけど。彼女が慕う義理の父親よりも自分があみに近い場所にいる。そう感じてしまって、内心では舞い上がっていた。
探偵の視線を感じて、俺はハッとする。彼は顎髭を指先で弄びながら、考え込むような目つきで俺の顔を見つめていた。僅かに視線を外しながら。
「…それだけかよ…」という小さなつぶやきが聞こえ、俺はまた乾いた舌の先で前歯の歯列を強く押した。昔から緊張すると、無意識に舌を押し付ける。
「結果的に非常事態だったんならしょうがないけど、お前だって女の子なんだぞ? 夜中にほっつき歩くのはダメだ。良いな?」
厳し目な言い方に、あみはこくこくと頷きつつ項垂れる。こんな風に親に叱られるのを見ると、やるせないような気分になる。俺は翔子に対して遠慮しているところがある。肉親なのに、なぜか親しみを感じられないせいだ。
「…そのズボン。そんなところに穴空いてたか?」
急に話題が変わっていて、俺は我に返った。キッチン台の角にひょいと尻を乗せて座っているあみに、父親代わりの男が近付く。黒いレギンス風のパンツを履く彼女の両膝の少し上、下の方にも、引き裂いたような破れた穴があって、白い足が覗いていた。黒いシャツに金色の英字が書いてある大き目の服を着た彼女は、かなり華奢で小さく見える。長身の探偵と並ぶと、猶更小さく見える。
彼の大きな手が、彼女の細い顎を掴んでグイとあちこちに角度を変えられていく。小さな傷ひとつ見逃さない様に目を凝らす父親と、成されるがままの子猫のようで、ドキドキした。俺は、自分が思春期になってからは特に翔子には直接触れないようにしてきたし、それが当たり前と思っていたから、何だか衝撃的な光景だった。
「…また、藪の中に頭突っ込んだんじゃ?」
「鎌田さんちのベルが、すばしっこいからだよ」
「深追いするな。いくらお前でも、気の合わない猫だっている。そういうのは、俺が探すから」
「いいよ。猫探しは私の担当なんだし」
二人のやりとりを聞きながら、目を反らし続けてしまう。猫探しで評判の探偵事務所って、そう言えばさっきあみが…。俺は妙に納得していた。あみこそがまるで猫そのものみたいに感じるからだ。
そして彼女は自分を拾ってくれた優しい男に、恩返しをしたいのだろう。そんなおとぎ話のような物語を想像して、チクリと焦げた。
「こんな傷、すぐに消えるさ」
「そうは言うけど、お前なぁ。嫁入り前の女の子なんだから顔に傷はつけるな。いいな? お転婆も大概にしろよ!」
「…るっさい。私は私のやり方があるんだから、黙って任せてくれたら良いじゃん」
唇を尖らせて不貞腐れるあみが、なんだか可愛らしくてつい…笑ってしまう。次の瞬間、突然俺の膝の上にあみが座ってきた。驚いた。
「そうだ、啓介。彼はね、私の恋人だからよろしくね!」
「はぁ?!」
あみに抱き着かれながら、俺らに覆いかぶさるように前のめりになった探偵が、また品定めするように俺を見た。
「恋人って、どこまで?」
「そんなこと、馬鹿正直に言うわけないだろ?」
「お前なぁ!」
あみは俺の首に両手を回して、頬に唇をおしつけてきた。お父さんの見ている前で、そんなこと!!
「見ての通り、まだキスだけだよ。智樹の通ってる高校、行かせてくれない?」
「ぇぇえええ?」
探偵は更に驚いたようだけど、俺も驚いた。
「…できるよね?」
「なんで? そいつがいるからか?」
探偵は俺を指さしながら、眉間に深い皺を寄せてあみを見つめている。娘が可愛くて、心配でしょうがないという父親の顔をしていた。本来、父親っていうのはきっと、こういうものなのだろう。
「だって、せっかく高校生と出会ったんだ。どうせ春には卒業しちゃうけど」
ここへ来て、俺はずっと疑問だった言葉を口にした。
「…あみって、何歳なの?」
その時、あみは表情を失くした。口をきつく結んで、目尻が吊り上がる。その一瞬で、聞いてはいけないことを聞いてしまったことに気付いた。
「こいつ、年齢不詳なんだよ」
咄嗟に答えたのは、探偵だった。あみは寂しそうにうつむいてため息を吐く。意味がすぐにはわからなかった。俺は決して鈍い方じゃないつもりでいるのに。
「記憶はないし、名前も生年月日も不明だし。それに、最初の頃は喋ることも出来なかった…。いつから一人でいるのかも答えられない」
俺は言葉にならなくて、あみを見つめた。何もかも忘れていると話してくれた時も、こんな風に寂しそうだったことを思い出す。デリカシーのない質問をしたのだと思って、あみに謝ると「謝らなくても良い。誰だって歳のことは気になるもんだしさ」と、言った。
「何歳かは置いといて。せっかくだから、一年だけでも高校生になってみたいんだ。お願い、啓介。私が高校生になる方法あるだろ?」
そう言われた探偵は腕を組んで「ないこともない」と返事をして、黙り込んだ。本当に、あみが俺の通う高校に? 同じ制服を着て、学校の廊下で立ち話をするあみの姿を想像すると、違和感もあるけど色々心配になってくる。まるで西洋人形のような綺麗な顔立ち、エキセントリックなオーラ、少年のような話し方、季節外れの転校生。これだけでもう充分過ぎる程、注目の的になっても不思議じゃない。
「お願い、お願い、ね? お父さん」
おねだり上手なあみに絆されて、探偵は照れたような顔をした。




