満たされない闇 【あみ】
賑やかなサイレンがひっきりなしに駆け抜けていく道路を見下ろしていた。小降りだった雨が、本降りに変わる。さっきまでの息苦しさや体中を駆け抜ける鋭い痛みが引いて、冷たい雨が素肌を覆っていく。
まだ、信じられない。何が起きたのか、わからない。わからないけど、断片的に蘇る記憶が、まるでハンマーで殴りつけてくるような激しい痛みを与えてくるから、もう怖くて辛くて、思い出したくもない。
「もう、いい加減にしてくれ! やめてくれよ! 放っておいてよ!!」
思わず、叫んだけれど。ここからは人々に声は届かない。
断崖絶壁の頂で目覚めた私は、自分が着ていた服がまたしてもボロボロに千切れ、伸びきっていて、胸からお腹にかけて泥だらけになっているのを見て、唖然とした。しかも、なぜか啓介のものらしきアンバーカーキ色のトレンチコートを握りしめている。
一体、なぜこんな場所にいるんだろう?
どうして、こんな格好に……?
するとまた、全身の毛という毛が逆立つような強い武者震いが襲ってくる。
遠のきかけた痛みが頭のてっぺんから爪先を貫いて、唇を噛み切ってしまった。血を舐めた瞬間、沢山の映像記憶が流れ込む。
まずは、少女の鼻歌が耳のすぐ傍から聞こえる。そして、ふわりと優しい手のひらが頬に触れて、雪解けのように溶けて消えていく。幻か、幽霊か、それとも過去の記憶か。私だけじゃ判別が出来ない。
突き上げてくる衝動を抑えきれず、また叫んだ。全身の骨が変形するような軋みと、筋肉が引き攣る痛みに唇を噛みしめる。視界の色が変化して、白と黒の墨絵のようになる。
両手で両耳を塞いでも、聞こえてくる。獣たちの、雄叫びが―――。
*
「もう行ってしまうのか?」
呼び止められた声が震えているのだけはわかる。鈍い振りをして去ることもできるのに、私は立ち止まった。男は茫然としていた。今にも泣き崩れそうな、情けない顔をしている。
「…また、いつでも来てくれ。裏口をお前のために開けておくから」
最後まで聞かず、私はその家を出た。
夜明け前の空が白み初めている。急がなければいけない。昨夜中降り続けた雨が、あの気持ち悪い匂いを洗い流していれば良いけれど…。
そんな淡い期待は、いともたやすく打ち砕かれた。あちこちから漂ってくる不愉快極まりない犬達特有の臭いにため息が零れる。泣けるほどに敏感になった鼻を指で擦り上げながら、道なき道か、或いは獣道をただひたすらに歩いた。
連中がもうここら一帯にいないことさえわかれば、後は目を瞑るだけ。あちらは、もしかすると今もどこかで私を探しているかもしれないが、臭いを分泌する汗腺を完全に閉じていれば、見つかる心配はほぼない。
どうやって来たのかもわからないのに、帰るべき方角だけはなぜかわかるのだから、不思議だ。
親切な彼が手当てをしてくれたお陰で、裂傷だらけの両手足には白い包帯が巻かれている。消毒液の匂いになぜか懐かしさのような淡く甘い熱が、じわりと胸の奥に感じる。私はまだこうして生かされている。そう思えることが心の支えになっていた。
ぬかるんだ傾斜で何度も滑りそうになるのを堪え、爪先にギュッと力を込めて大地を掴む。生き物たちが住まう山を無事に通り抜けたら、山を切り崩して作られた人間の居住地に出た。閑静な住宅地の坂を降りていくと、学生服を着た若者が数人家から飛び出してきて、自転車に乗って私を追い越していく。背後から迫る車輪の音が急に恐ろしくなって、道の端っこに身を寄せて立ち止まる。
山から吹き下ろされる風に、ほんの少しだけ冬の匂いがした。ぶるりと身を震わせ、家路を急ぐ。道行く人々とは逆の方へと、私は独り歩き続けた。
住宅地を抜けて繁華街を超え、河川敷に出る。上流へと向かえば、そこに我が家がある。帰ったところで誰もいないけれど、そこに残された愛しい者の匂いに包まれなければ、深い眠りには入れない。怪我には睡眠が必要だってことぐらい、思い出さなくても理解している。
先程与えて貰ったご飯は、魚料理を煮詰めて崩したもので、有難いことに骨まで食べることが出来た。良心的な人間は、私が飢えていることを一目で見抜く。その親切心に付け込んで愛想を振りまこうにも、私の匂いがついてしまったらと思うと、簡単に身体を触れさせるわけにはいかなかった。もしも連中に見つかったりでもすれば、親切が仇となり酷い目に遭うかもしれないことを思うと、長居は出来ないし、常連になるわけにもいかない。後腐れない程度に触れ合って、互いに情が移る前に身を引く。それが、この国で生きていくために獲得した私なりのルールだ。
ルールは他にもある。どんなに飢えていても、私が口にして良いのは、魚と野菜と穀物だけ。生の肉は見たくもないし、赤い血はもっと避けなければならない。それを見た途端、自分の中に眠るどうしようもない欲望が暴れ出しそうで、怖い。それにきっと、尽きない欲望を貪るだけの愚かな獣に成り下がるしか道はなくなるだろう。そうなれば駆除されて終わりだ。そんなのは嫌だ。
河川敷の隅でひっそりと佇む倉庫に忍び込み、廃棄される前の衣類の山から着られそうな服を選ぶ。人の気配がすると、伏せてやり過ごす。ここでは今まで一度も、誰にも見つかったことはない。季節問わず、川の水に浸ると体臭が汗と共に流れ落ちるので、人目も気にせず水浴びをした。ブルブルっと水気を振り払ってしまえば、大抵直ぐに乾くから便利。
頂いた服を抱えて雑木林の入り口まで来ると、段差の高い場所に身を寄せて、そこでやっと服を着る。当たり前だけど、裸でいるよりも格段に温かい。せっかく手当てしてもらった包帯もガーゼも解けてしまったけれど、傷はもうくっついているから、ここで全部外す。かさぶたになった傷の匂いを嗅ぐと、鼻の奥でほんのりと黄汁特有のあまったるくてツンとした香りを味わった。我ながらいつも関心する程の再生能力に、惚れ惚れする。一体、どうして私はこうなのだろうか?
草むらの中を這うようにして家まで辿り着くと、狭い玄関の横にある剥がれたトタンと張り板の隙間から身を滑り込ませる。狭い場所を通る時だけ、最小限の細さになれるのはかなり便利だと思う。この能力さえあれば、絶対に誰にも捕まらない自信がある。板の間の階段を上り、二階にある自分の部屋まで辿り着いて漸く身を投げ出して、ここでやっと脱力した。ごろんと寝転がって天井を眺めながら、目を細めながら次第に意識が闇に溶けていく。肺を膨らませ、腹からも息を吐きだすと、細部の強張りも一呼吸ごとに解けた。
私を包むこの闇があまり好きじゃない。昼間の太陽が沈んでからやってくる夕暮れ時の濃い青が、墨汁と混じるように濃い闇へと変化する。その過程さえも、苦手だ。やつらはまるで手品のように、いつの間にかあらゆるものを覆い隠してしまう。そしてあたかも、もうそこには存在していないように誤魔化して、私からなにもかもを奪ってしまうんだ…。
これまで起きたどの出来事も、必ず夜の闇の中で起きた。古今東西、敵が仕掛けてくるのは夜と相場が決まっている。標的の姿をこの目に捉えても、地の理・天の理が結末により大きく影響するのだから、視えないということは不利なのだ。それに引き換え、夜行性の目を持つ生物は夜の天下を取りに来る。水槽に満たされた水のごとく、闇夜に満ちた憎悪や悪意には特有の音や香りがあって、そこを泳ぐ私には何が起きようとしているのかぐらいは気配で解る。解ったところで対策できなければ、意味はないのだが…。
闇に潜む悪意だけが私の敵ではない。もっと原始的な問題は、食料問題だ。私は常に飢えている。自分一人だけじゃ魚を獲るにも限界はある。
いっそ、餓死してしまおうか。そうすれば生きていくために思考も体力も酷使せずに済む。生きるためにどれほどのリスクを背負わなければならないのか、と思うと何もかもがイヤになる。眠りながらも私は考えている。忘れたくても忘れられない記憶の断片が、急に瞼の裏に現れて私を揺さぶりにかかってくるせいだ。
炎に包まれた家。這いつくばって力尽きた女の後頭部。迫りくる車と、赤い血しぶき。地面に叩きつけられた時の、言い様のない激しい痛みと絶望…。助けてくれようとした、優しい手。守ってくれた女達の顔、顔、顔……。私の命は、彼女たちの命だ。そう簡単に手放すわけにはいかない。物乞いをしてでも、食べなければ。生きるために必要なものを食べる。それこそが、今の私にとっての存在理由に他ならない。
なんだか涙が出る。虚しさに潰されて、呼吸を忘れそうになる。
孤独は嫌いだ。闇と同じぐらい孤独なんか、大嫌いだ。
*
目を閉じるだけで簡単に過去に戻れる。あの頃の私は、生きることにさえも罪悪感を抱えて途方に暮れていた。今は、食べることにも困らなくなった。そのおかげで、あんなに苦しかった飢餓感もかなり薄い。時々、震えるほど強く欲してしまうことがあるため、深夜になるとベッドを抜け出して家の外に出ることにしていた。私を娘にした啓介を、傷つけたくなんかない。
彼はとても良いヤツだ。私を見つけたとき彼は驚いていた様子だったけれど、私が不安視したことではない別の視点を持っていた。廃屋の中で一人で生きていた私に、異常なほど強く同調したのだ。私達にはなにか共通のものがある。直観でそう感じた私は、大人しく彼を受け入れた。
探偵・橘啓介は、特別な事情を抱えていた。家族を二度も失っていた。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。真夜中、寝床で祈るような囁き声を何度も聞いた。
私なんかで彼の心が満たされるのなら、しばらくは傍に居てやってもいい。但し、私の中の野生が暴れ出さない間だけに限られてしまうけれど。どうしても、長く一緒にはいられない。それは、とっくの昔からわかっていることだ。傍にいるほど離れがたくなる前に、何とかして彼への情を薄めなくてはいけない。
そんなことを考えながら、持て余す力を発散するためにロードワークに出た時のことだった。月が登らない深夜の河川敷は、山から染み出た土の香りを漂わせた清水が流れているものなのに、昨日からの大雨で茶色く濁っていた。地中に包み隠されたあらゆる生き物たちの残骸から立ち上る異臭交じりの水には、浸かりたくないと思いながら、全速力で走る練習をしていた。微かな高音の声が耳の奥をくすぐったのだ。
それは静電気のようにビリリと私を脅かした。絶望の味が口の中に広がる。心臓が早鐘を打ち、強い悲しみとやり場のない怒りが私の体内で膨らんだ。
誰かが助けを求めている。
肺いっぱいに空気を吸い込んで息を止め、耳に神経を集中させる。
聞こえる、気がする。口を塞がれた声。時々漏れてくるか細い悲鳴。
川が横たわるその奥に目を凝らす。
真っ暗闇の中に、白っぽく浮き上がるシルエットを捉えた。よく見れば、数人の人の形を成しているそれらが、四つん這いになりながら喋っていた。下品な笑い声にも似た男達の言葉は断片的過ぎて、何を言っているのかさっぱりわからないけれど、何をしているのかだけはわかった。おぞましさに全身の毛が逆立つ波に襲われる。
次の瞬間、川に足を踏み入れていたが。増水して勢いを増した川は危険だった。橋を渡らなければいけない。直線距離は近くても、向こうに渡る手段が橋しかないことに、腸が煮えくり返る。地団太を踏むように踏切って、橋へと向かった。
その間も彼女は屈辱の中で身悶えているのを想像すると、怒りでどうにかなりそうで、歯を食いしばりながら唸り声をあげる。橋のたもとに辿り着いて角を曲がり、欄干の上に飛び乗って走っていくと、今度は何かまた別の気配が背後から私の後ろ髪を引っ張った。振り向いた時、丸く見開いた目を真っすぐこちらに向けて、茫然とした間抜け顔の青年と目が合った。
懐かしい気がした。
でも今は、それどころじゃない。
「やめろ!!」
男の声に胸がざわつくのを感じながらも、私は彼女を助けるために川にダイブした。
落ちて行くデジャブ。
その先に待っている何かに、私の身体の奥に蹲っていた魂が顔を上げた時、すぐに理解した。
強くなるために、私達は今から出会うのだと。




