璃玖の爆発
保育所にお迎えに行く道すがら、サツマイモ料理について考えていた。しかしレパートリーが少ない僕は、てんぷらや焼き芋くらいしか浮かばなかった。
今日は璃玖たちがお芋掘りに行った日だ。きっとたくさんのサツマイモを掘ってきたに違いない。
あまりに量が多い場合は実家にも持っていこう。
そんなことを考えながら保育所に到着すると、少し遅い時間だったので園児の数もまばらだった。
「ごめんな、璃玖。お待たせ」
謝りながら帰る支度をはじめたが、璃玖はいつものように駆け寄ってこなかった。
このところ遅い日が続いているから怒っているのかもしれない。
「お父さん、すいません」
甘玉先生が璃玖の背中を軽く押しながら声を掛けてくる。先生まで浮かない顔をしていた。
「なんでしょう?」
「実はりっくん、今日お友達と喧嘩しまして……」
「ああ、そうでしたか」
それで沈んだ様子だったのかと合点がいった。
最近はあまり喧嘩しなくなったが、小さい頃はよく喧嘩してお友達に噛み付かれていた。
はじめて噛み付かれたと聞かされたときは驚いたし、憤慨した。しかし紗耶香がよその親と話したら意外と頻繁にあることだと分かって、それからはあまり気にしなくなった。
もちろん理想を言えば喧嘩なんてしないで欲しいし、噛み付くなんてとんでもないことだ。でもいちいちそれで大騒ぎしていたら保育所も立ち行かない。ちょろちょろ動き回り好き勝手する子供たちを完璧に監視することは実質不可能だ。
「また噛まれたのか?」
笑いながら屈み、璃玖の頭を撫でてやった。
「いえ、それが……今日はりっくんがお友達を噛んでしまいまして……」
「えっ……!?」
そんなことは初めてだった。璃玖はやられることはあっても、自ら危害を加えることは今まで一度もなかった。璃玖は俯いて僕と目を合わそうとしない。
「駄目だろ、そんなことしちゃ……どうしてそんなことをしたの?」
璃玖はふて腐れた顔をして答えなかった。
いつもやられてばかりだからたまにはやり返せばいいと思ったこともあったが、実際やり返したと聞くとショックだし、なにより相手に申し訳ない気持ちになった。
「実は、その」と甘玉先生は言い辛そうに目を伏せる。
「いつもパパが迎えに来ると言うところから口喧嘩が始まったみたいで……」
「えっ!?」
心臓が不安定に鼓動し、呼吸が乱れた。
「それで、りっくんが怒ってしまって……」
「そうでしたか……」
先生は濁して言っているが、もっと酷いことを言われたのかもしれない。
子供は時に残酷だ。普通と違うことを見付けたら、それを平気でからかったりする。
いや、大人だってそれは同じだ。ただ子供と違い、もっと陰湿にばれないようにイジメているだけで。
「すいません。私たちがしっかり見ていなくて……色んな事情があるんだって、その子には言って聞かせましたから。もちろん噛みついた璃玖君にもそんなことしちゃダメだって注意しました」
「璃玖……別にパパしかいないということは恥ずかしいことじゃないんだよ?」
俯き加減の視線を覗き込んで語り掛ける。璃玖は目に涙を溜めて口を歪めていた。
「璃玖にはパパがいるだろ? そんなこと言ってからかってくる奴なんか気にするな」
璃玖の悲しさや怒りはよく分かる。辛い思いをさせてしまっているということも分かっていた。
それでも今はそういい聞かせるしかない。
「だってっ……かずくん、いじわる言うんだもんっ……」
「言わせておけ。それにいくら頭にきても噛み付いたりしちゃ駄目だよ」
璃玖は溜めていた涙をぽろぽろと落とし、それでもまだ声を上げて泣くまいと気丈に堪えていた。
「大丈夫。パパがいるよ。璃玖にはパパがいる」
璃玖は僕の首に顔を埋め、ヒッヒッと圧し殺した声で泣いた。
「ママは? ママはもう帰ってこないの?」
璃玖の頭を撫で、ゆっくりと抱き締める。泣いて興奮した息子の身体は熱かった。それは胸を抉るような熱だった。
「ああ……ママはもう、帰ってこない。でもお空の天国からいつも璃玖を見守ってくれているんだ」
璃玖はまだ五歳だ。いくらしっかりしているとはいえ、『死』ということを完全に理解し、受け止められる年齢ではない。
でも現実として沙耶香は、璃玖の母親は死んでいる。ここで嘘をついたり誤魔化しても、余計傷つけてしまう危険性があった。
「ごめんな、璃玖……寂しいよな……」
「ママがいいっ! ママがいいよっ! ママがいいっ!!」
久し振りに璃玖が泣いた。僕のシャツをギュッと握り、呼吸を乱しながら嗚咽する。
「璃玖……」
どうしてやることも出来ないもどかしさが、僕の心を押し潰す。
甘玉先生は僕たちと一緒にしゃがみ、璃玖の頭を愛おしげに撫でてくれた。
「うわあぁっ! ママ! ママがいいよぉお! ママに会いたい! ねえ、パパ! ママに会わせてよ! ママがいい! りっくん、ママに会いたいのっ!」
璃玖は甘玉先生にしがみつき、言葉になっていない声を喚きながら泣く。これまで我慢していた歪みが、一気に爆発したような激しさだった。
抱え込んで堪えようとする性格だから、余計鬱屈としたものが堪ってしまったのだろう。
「ごめん、璃玖。ごめんな」
やはり璃玖には『ママ』が必要なのかもしれない。
わがままを言っても聞いてくれ、無条件に甘えさせてくれる、優しい大人の女性。母性というのは与える方も、受け取る方も理屈を超えたものがある。そればかりは男の僕では代わることが出来ないのかもしれない。
それが分かっていて、沙耶香は僕に再婚を勧めて来たのだろう。
肩を震わせて先生に抱きついて泣く璃玖を見て、沙耶香は死んでもなお璃玖のことをちゃんと分かってると思い知らされた。
泣くことで何か解決するわけではない。でも心に鬱積した毒抜きにはなる。今は思い切り泣かせてやろう。
とはいえいつまで璃玖に抱きつかれていては甘玉先生も仕事にならない。
「おいで、璃玖」
僕が璃玖を抱き上げようとしても、甘玉先生に抱き付いたまま離れなかった。
「よかったら泣き止むまで、こうさせておいてください」
「でも、お仕事の邪魔になりますし……」
「それなら大丈夫です。私はもう勤務時間終わってますから」
「えっ? そうなんですか?」
「お父さんに今日のことをお伝えするために残っていたんです」
それがせめてもの償いだという顔をして、甘玉先生は僕を見て頭を下げる。責任感の強い人だ。
さすがにこのままみんながいる場所で泣かせておくのもよくないので遊戯室に移動した。璃玖はだいぶ落ち着いてきたけど、まだ甘玉さんに抱き付いたまま離れない。
「りっくんは本当にパパが好きなんですね」
甘玉先生は璃玖の頭を撫でながら呟く。
「今日も喧嘩になったとき、『りっくんにはやさしいパパがいるもんっ』って言ってて……」
「……そんなことを」
その一言を聞かされた瞬間、止めようのない感情が込み上げる。甘玉先生の前であるのに、溢れる涙を止めることが出来なかった。
「りっくんは素直で大人の言うことをよく聞いてくれます。これは大人を信頼している証なんです」
甘玉先生に褒められ、璃玖は照れ臭そうにしていた。
「りっくんを大切に育てられてるというのが、よく伝わってきます。だからりっくんは優しくて賢いんです」
甘玉先生は愛しそうに璃玖の頭を撫で、噛み締めるようにゆっくりとそう言った。まるで聖女のような、優しさの中に芯がある清らかな表情で璃玖を見詰めていた。




