ママの遺伝子
「ただいまぁ」
実家に璃玖を迎えに行くと、パタパタと足音を立てて駆け寄ってくる。
息子の足音というのはなぜか他の子供と聞き間違えない。不思議なものだ。
「パパただいま」
「璃玖が言うのはおかえりでしょ」
何故か璃玖は『おかえり』と『ただいま』を逆に覚えてしまっており、何回教えても直らない。
「仕事、意外と早かったんだね」
璃玖の後ろから妹の千遥もやって来る。
「ああ。急いでやったらすぐに終わった。ごめんな、千遥。ありがとう」
「ううん。全然。りっくんと遊ぶの、楽しいし」
璃玖は手にしていたビニール製の剣を振り回して千遙を叩く。
「こら、璃玖! 駄目だろ!」
「ちがうの。ちーちゃんは『悪のそしきのてさき』だからやっつけてるんだよ!」
どうやらお気に入りの戦いごっこをしている最中だったらしい。どこで覚えたのか最近はヘンテコな言葉を使うことが多くなってきた。
「うりゃっ! 隙ありだ、りっくんマンよ! ワハハハハ!」と千遙は璃玖を捕まえて全身をこちょこちょしだす。璃玖は「きゃはー!」と嬌声を上げながら身を捩らしていた。相変わらず妹は子供と遊ぶ天才だ。
「お兄ちゃんもりっくんの運動会、観に行くんでしょ?」
璃玖がテレビを見始め、ようやく解放された千遙が訊ねてきた。
「もちろん。千遙は大丈夫そう?」
保育所の運動会は平日に行われている。観るためには仕事を休まなくてはいけない。
「大丈夫だよ! りっくん、かっこいいとこ見せてよね」
千遙は璃玖の頭を撫でながら笑った。
「ちーちゃんも来てくれるの? やったー!」
璃玖は大喜びだ。僕よりも千遥が来てくれることを喜んでいるようでちょっと嫉妬してしまう。
「よかったな璃玖。叔母ちゃんにいいところ見せなきゃな」
「もう、お兄ちゃん。叔母さんはやめてよね。私は『ちーちゃん』だから」
「はいはい」
妹は小さい頃に僕が彼女を呼んでいた『ちーちゃん』という愛称を引っ張り出してきて、璃玖にもそう呼ばせている。
二十九歳独身の千遥は、確かに『ちーちゃん』と呼ばれてもギリギリ堪えうる程度の若々しさを保っていた。
「りっくんの運動会、楽しみだなぁ」
千遥が運動会見学に来てくれるのは今回が初めてだった。
保育所のグラウンドは小さいため、児童一人につき保護者は二人しか見学に来られないからだ。もちろん去年までは僕たち夫婦が参加していた。
夕食は母が作ってくれていたので実家で済ませる。璃玖が千遙と入りたいと言うので、そのままお風呂までいただくこととなった。
二人が浴室に向かってからビールを片手にテレビを観る。しかし内容はまるで入ってこず、頭では今日のパーティーのことばかり繰り返された。
バツイチ婚活パーティーの参加者はみんな積極的にパートナーを探していた。
わざわざ自分から登録して会費を払って参加しているのだから当たり前だけど、それでももう少し寂しく湿っぽいものかと思っていた。
新しいパートナー探しに前向きで明るく振る舞っていたあの会場で、僕は一人取り残されている気さえしてしまった。
やはりああいうところは前妻のことを引きづっている人が行くような場所ではない。
「まあ焦ることないよ。今日が再婚活初日なんだから」
紗耶香は僕の脳内を覗いたかのようなことを言った。
「そんな簡単に言うなよ」
キッチンで母が洗い物をしているのを確認しながら呟く。父は自室に戻っていた。
「初日からいきなりカップリング成功したんだもん。やっぱり宗大も捨てたもんじゃないってことだよ。あの加西美佳って人もそんなに悪い人じゃないと思うし」
その口ぶりはどこか僕の反応を試しているようだったので、無言でビールを煽って首を傾げるだけにした。
加西さんは本当に子供好きだったんだろうか?
可愛いという言葉もどこかとってつけたような響きが感じられた。
もしかすると子持ちの僕に気遣って、本当は子供なんて興味ないのにあんなことを言ったのかもしれない。
でもそのシングルファザーに変な気を回す態度が気に入らなかった。
璃玖は僕の人生の重荷なんかではない。ましてやハンディキャップなんかでもない。
僕の宝であり、誇りであり、人生に活力を与えてくれる強みですらある。もちろん亡くなってしまった紗耶香との絆という意味もある。
いずれにせよ父一人子一人という現状は他人から憐憫の目を向けられるものでは、決してない。
璃玖は僕の生きがいだ。
実際紗耶香が死んだとき、もし璃玖の存在が無かったら僕はきっと立ち直ることは出来なかっただろう。
「わー!」と可愛い声を上げながら裸で濡れたままの璃玖が駈けてくる。毎晩の恒例行事だ。
「こら、風邪引くよ!」
千遥が慌てて追い掛けてきて捕まえると、「きゃーっ!」と奇声を上げながら脱衣所へと連行されていった。
パジャマを着せられた璃玖は頬まで上気させた赤ら顔だ。
白い肌やアーモンドのように大きな目、森の妖精のように大きな耳など、どこを見ても璃玖は母親似である。
嫌がる璃玖を脚で固定してドライヤーを当てるのは僕にしか出来ない職人芸だ。
細くて柔らかな、いかにも繊細そうな髪は熱風で煽られるとすぐに乾いた。
璃玖の頭はお日様の香りというのだろうか、子供の頃に飼っていたセキセイインコのような香りがする。
もう帰るというのに璃玖はまだ遊ぶと言って聞かず、仕方なくトランプをした。口には出さないが、僕と二人きりのアパートに帰るのは寂しいのだろうか。そんなことを思うと不憫で胸が苦しくなる。
璃玖の小さな手にはトランプは大きすぎてバラバラと落ちてしまっていた。五分もしないうちに璃玖はうつらうつらとし、やがて千遥の膝枕の上で寝てしまった。
そっと起こさないように抱きかかえて玄関に向かう。
靴を履いたところで千遥がちょっと顔を強張らせて僕を見た。
「あのさ、お兄ちゃん」と普段とは違う声色で訊ねてくる。
「今日はありがとうな。じゃあまた運動会で」
千遥の言葉を遮って家を出た。
千遥の言いたかったことは分かる。アパートを引き払ってこの家で一緒に暮らそう、だ。
しかしそれは出来なかった。紗耶香との思い出詰まったあの場所を離れたくなかったし、責任を持って僕が一人で璃玖を育てるという自分への誓いも曲げられなかった。
それに今は霊体となった紗耶香の問題も増えた。実家で暮らせば今のように夜中に気軽に紗耶香と話が出来なくなる。
僕らの住むアパートまでは徒歩で五分ほどだ。その間も璃玖は眠ったままだった。家についてパジャマに着替えさせていると、璃玖が目を醒ましてしまった。
「起こしちゃったか。ごめん」
「今日ね、ちーちゃんからかけっこ速くなる方法教えてもらったんだ」
「へぇ。あの千遙が?」
走るのが遅かったくせにそんなことを教えたんだと少しおかしかった。
「真っ直ぐ前を見て、こうやって腕を振るんだって」と璃玖は不器用に腕を動かした。小さい頃はよく転んでいた璃玖だけれど、最近は走るのも上手になってきていた。
「そっか。でも璃玖、別に速くなくてもいいんだよ。パパも走るのが遅かったからなぁ」
「そうなんだ? ママは?」
璃玖は少し緊張した顔で訊いてくる。璃玖なりに気を遣っているのか、最近あまり紗耶香の話をしてこなかった。
「ママは速かったらしいよ」
あくまで本人によれば、だけれど。
「そっか。じゃあママに似ていたらりっくんも速いね!」
嬉しそうに笑う璃玖の頭を撫で、「そうかもね」と答えた。自分の中のどこかに『ママとの繋がり』を感じたいのかもしれない。
璃玖を寝かし付けてリビングに戻ると、沙耶香が目を真っ赤にさせて天井を見上げていた。先ほどの会話を聞いて、こみ上げるものがあったのだろう。
「ごめんね、璃玖。お母さんが生きていたら、色んなことを教えてあげられるのに」
沙耶香がどれほど無念に思っているのか、触れることさえ出来なくて苦しんでいるのか、それを感じた。安易な言葉はかけられず、僕は黙ってその隣に座り、同じように天井の壁紙を眺める。
これ以上沙耶香を苦しめないためにも、成仏させてあげなくてはいけない。
その時はじめて僕は真剣にそう思った。




