妻の引き継ぎ業務
三人で手を繋ぎながら家へと帰り、すぐに甘玉さんの怪我の手当てをする。河原では平気そうだったのに、甘玉さんは擦り剥いた傷を痛がった。
それを見て璃玖は何度も「大丈夫?」と不安そうに訊ねていた。
さすがにまだ『お母さん』と呼ぶことはなかったけれど、きっと上手くいく。僕はそう確信していた。
焦ることはない。ゆっくり家族になっていけばいいのだ、と。
傷の手当てを終えてから僕たち三人は紗耶香の遺影の前に並んで座った。みんなで手を合わせ、ゆっくりと頭を下げる。
「紗耶香、僕と甘玉さんは再婚する。璃玖もそれを認めてくれたよ。紗耶香も許してくれるかな?」
「紗耶香さん、私と宗大さんの結婚を許してください。璃玖君は私が必ず立派な子に育てます。お約束します」
写真立ての中の紗耶香は優しそうな笑顔で黙って僕たちの言葉を聞いていた。視線だけで部屋のあちこちを見回したが霊の紗耶香は出てこない。
まさか先ほどの河原で成仏してしまったのだろうか?
そんな焦りで鼓動が速くなる。
「ママ、かんぎょく先生が僕のおかあさんになってくれるんだって。ママとの約束だから、あたらしいおかあさんとなかよくする。でもママはこれからも僕のだいすきなママだから。いつまでもずっと、だいすきだからね」
璃玖はぎゅっと口を結び、顎の下に皺を作りながら紗耶香の遺影を見詰めていた。それでもやはり、紗耶香は姿を現さなかった。
泣き疲れたのか、その夜璃玖が寝るのはいつもよりずいぶんと早かった。二人で寝室に運び、ベッドに寝させる。しっかり者で気丈な璃玖だが、寝顔はやはりあどけない五歳児だ。
「ありがとう、璃玖君」
甘玉さんは璃玖の前髪を指で撫で梳かし、見詰めていた。灯りを常夜灯にし、二人で寝室からリビングに戻る。
「あっ……」
リビングでは沙耶香は姿を現して僕たちを待っていた。成仏してしまったと思い込んでいた僕は驚きと喜びで息が詰まった。
「は、はじめましてっ奥様……甘玉麗奈と申します」
甘玉さんは緊張した面持ちで頭を下げた。
「え!? 甘玉さんにも見えるの?」
「はい。今はじめて見えました」
見えていないと思っていたのだろう、沙耶香もちょっと驚いた顔をしていた。
以前霊体は会いたいという気持ちが強い人じゃないと見えないと聞かされた。恐らく甘玉さんの会いたいという気持の強さで沙耶香が見えたのだろう。
「こんにちは、甘玉さん。はじめまして。てか奥様ってやめてよ。柄じゃないし、恥ずかしいから。沙耶香でいいよ」
沙耶香も背筋を伸ばして深々と頭を下げる。沙耶香と甘玉さんの初めての対面に緊張した僕の背筋も伸びてしまった。
「璃玖の許可はもらえたみたいね」
沙耶香は僕を見て笑った。
「ああ。おかげさまで。ありがとう」
沙耶香が璃玖の枕元で新しいママと仲良くしてと伝えてくれてなかったら、もう少し難しい展開になっていただろう。
「私はなにもしてないから。宗大と甘玉さんの気持ちが通じたのよ」
沙耶香は素知らぬ振りをする。そんな気遣いも沙耶香らしい。
「私と宗大さんは結婚したいと思ってます。お願い致します!」
甘玉さんはガチガチに緊張した様子で勢いよく頭を下げた。勢いがあり過ぎて甘玉さんの髪がバサッと宙を舞う。
「はあ? 私はとっくに甘玉さんを認めてるよ」
「ほ、本当ですか!?」
甘玉さんは驚いた様子で顔を上げる。
頭を下げていた甘玉さんは、沙耶香がほんの一瞬だけ悲しげに眉尾を下げたのを見ていなかったのだろう。満面の笑みを浮かべる沙耶香に「ありがとうございます!」ともう一度深々とお辞儀をしていた。
「ていうかお願いしたいのはこっちの方だから。本当にこんなバツイチ子持ちの冴えない三十過ぎと結婚してくれるの?」
「ちょっと、沙耶香。言い過ぎ」
「事実じゃない」
「まあ、そうだけど」
「こんなに若くて可愛くて優しくて気が利く女の人と宗大が結婚するなんてあり得ないし。どうせ璃玖をだしにして同情を引いて言い寄ったんでしょ?」
「はあ? 沙耶香が再婚しろっていうから必死で頑張ったんだろ」
僕らのやり取りを見て甘玉さんがおかしそうに笑った。
「私も早く沙耶香さんみたいに宗大さんと自然な感じで言い合ってみたいです」
「そんなのすぐよ。一緒に暮らせばすぐにあれこれ注意したくなるから」
「なるほど。そうなんですね」
「甘玉さんも納得しないでよ。そんなことないから。沙耶香がちょっと口うるさいだけ」
「そう? シャツを裏返しに洗濯機に放り込んだり、食べた後食器を流しにすら持っていかなかったり、ツッコみどころ満載だよ?」
「それは昔だろ! 今は璃玖の世話をしてるからその辺りもちゃんとしてるし」
「甘玉さん、聞いた? 今の言葉、忘れちゃ駄目だよ」
「はい!」
言質を取ったとばかりに沙耶香はニヤリと不敵に口許を歪める。河原で成仏してしまったのかと思って心を悼めたのがバカバカしくなるほど紗耶香は元気いっぱいだ。
「あと言っておくことなかったけなぁ」
「もういいからっ、そういうの!」
元妻と新妻の引き継ぎ作業ほど恐ろしいことはない。




