息子の承諾
「どうしようっ……私、璃玖君のことを傷付けちゃった……」
甘玉さんはオロオロしながら辺りを見回す。
「手分けして探しましょう」
僕らは二手に分かれて璃玖の行きそうなところを探した。
いつも遊ぶ公園、少し離れた公園、近所のスーパー、あちこち探したが璃玖の姿はない。
子どもの声が聞こえると慌てて駆け寄ったが、その中に璃玖の姿は見当たらなかった。
「どこに行ったんだよっ……」
駅の反対側にある公園まで来たが璃玖はいなかった。不吉なことが頭を過ぎり、冷や汗が流れる。
「まさか……璃玖っ」
「大丈夫。璃玖は安全なところにいるから」
ふわりと沙耶香が僕の前に現れた。
「沙耶香っ……」
僕を落ち着かせようとしてか、冷静な顔をしていた。
「璃玖はどこにいるんだ?」
「それは教えられない。自分で探して」
その落ち着いた表情のまま、沙耶香は首を振る。
「私はもう、この世にはいないの。あなたと甘玉さんで璃玖を探して。そしてあの子にも納得をさせて。じゃないと私は成仏出来ないよ」
「でも」
「大丈夫。あの子の安全は守る。もし危険になったら、その時は私がなんとかするから」
沙耶香は祈るような顔で僕を見ながら消えていった。
ひとまず璃玖が安全だと聞いて落ち着いた。でも早く見つけないといけない。
僕は正直ちょっと璃玖に甘えていた。聞き分けがよくて、大人びていて、物分かりのいい璃玖だから再婚のこともすんなり受け入れてくれると高を括っていた。
璃玖を一人の人間として敬意を払っていたら、もっと前から相談していたはずだ。事後承諾をとるように訊くのは、たとえ五歳の息子であっても失礼だった。
ましてやそれは亡くなった沙耶香の代わりに甘玉さんが新しい母になるという、璃玖にとっても重大な事柄だ。
浅はかだった自分を恨み、唇を噛む。しかし過ちを悔やんでいても仕方ない。失敗してもそのあとどうするかが大切だ。璃玖に謝り、考えや気持ちをしっかり聞いて、僕の気持ちも伝える。取り返しがつかない過ちではない。
そのとき、天啓のように思い出した。
ローチェストの上に置かれていた家族写真を。
家族三人でピクニックに行ったときの写真だ。あれは車で行った遠い山奥の河原だった。あそこまで歩いていくのは大人だって不可能だ。
でも、もしかしたら──
考えるより先に僕は走り出していた。
夕陽が沈みかけ、辺りは夜の闇に包まれる寸前の逢魔が時。きっと璃玖は一人で心細いに違いない。
脚を縺れさせながら必死で走って辿り着いたのは、近所の河原だった。キャンプに行った川とはまるで違うが、この川を見るとキャンプを思い出すと璃玖は言っていた。
川岸を上流へと上っていくと、電車の高架下に隠れるように璃玖は蹲っていた。
「璃玖」
声を掛けると璃玖はビクンッと震えて顔を上げた。僕を確認すると立ち上がって逃げようとした。
「待って」
優しく声を掛けたつもりだが、璃玖はビクッと震える。叱られると思ったのか、それとも対決しようとしているのか、璃玖は立ち止まって振り返る。
涙を流し、小さな手でギュッと拳を握り、肩を震わせていた。
「ごめん、璃玖。突然あんなこと言われたら璃玖だってビックリするし、怒るよね」
ゆっくり歩み寄り、屈んで視線の高さを合わせると、璃玖も腰を下ろす。とりあえず話は聞いてくれそうだ。僕たちは川を眺める恰好で並んで座った。
「パパは今でもママが大好きだ。璃玖もママが好き?」
「うん」
少し落ち着いた様子で璃玖は頷く。
「そっか。ママは素敵な人だったもんね」と頭を撫でると璃玖は僕の顔を見上げて頷いた。
「ママがいらなくなったとか、忘れたとか、そんなことは絶対にないよ。ママはいまでも、これからもずっとパパの心の中にいる」
「じゃあっ!」
なんで甘玉先生と結婚するの?
途中で言葉を途切れさせた璃玖の目はそう訴えていた。
「パパも璃玖もママのことを忘れていない。ママはきっとそれを喜んでいるよ。でもね、いつまでもママを失った寂しさから抜けられなかったら、ママはきっと悲しいと思う」
璃玖は膝をギュッと抱え、無言で丸く縮こまる。
「パパはママが死んじゃってから、ずっと悲しかった。璃玖の前ではくよくよしてない振りをしていたけど、本当はずっと悩んでいたんだ。なんでママは死んじゃったんだろう? これからどうしたらいいんだろう? パパ一人で璃玖を育てられるんだろうか? とか、そんなことばっかり考えてた。いじけて、不安で、悲しかった」
「知ってる。だってたまに寝言でママのなまえ呼んでたもん」
「なんだ、バレてたんだ」
璃玖は澄ました顔でにっこり頷く。
「でもね、最近夢にママが現れてパパを叱ったんだ。『いつまでメソメソしてるの! しっかりしなさいっ!』って」
さすがに幽霊として現れた話は出来なくて、そう説明した。
「そうなんだ? りっくんもさいきんママの夢を見るよ。『えらいね』とか『がんばったね』とか褒めてくれるの」
「へぇ。そうなんだ」
璃玖とは会わないとか言っておきながら案外枕元で囁きかけているのかもしれない。その姿を思い浮かべて少し笑った。
「パパが甘玉先生と結婚しようと思ったのは、そんなことも理由のひとつなんだ。パパがいつまでもメソメソしていて、ママが不安みたいだから。それに璃玖にも新しいママがいた方がいいって、そう思ったんだ。でもその前に璃玖にも相談すべきだったよね」
璃玖は僕の顔を見て頷く。
「じつはりっくんもこないだ夢の中でママに言われたの。『りっくんにももうすぐあたらしいママがくるよ。なかよくしてあげてね』って。『言うことを聞いて、たすけてあげてね』って。まさかかんぎょく先生だとは思わなかったけど」
「ママはそんなこと言ってたんだ」
喉の奥から漏れそうな嗚咽を圧し殺して無理やり笑った。
「でも」
璃玖は肩を震わせはじめ、顔を真っ赤にして、泣くもんかと必死に涙を堪えた。
「ごめんなさい。出来ないの。りっくんのママは一人だからっ……ごめんなさい、かんぎょく先生をママとは、呼べない」
「璃玖……」
「ママに新しいママとなかよくしてあげてって言われたのに、その約束を守れなかった。ママ、悲しんでるかな。ごめんなさい」
ひっひっと息を詰まらせて震える璃玖を抱き締める。
その身体は小さくて、頼りなく細い。
しっかりしていて、いつも気丈に振る舞う璃玖だから、余計に胸が苦しかった。
こんな思いまでさせて、果たして再婚をすることが正解なのだろうか。
「璃玖くーんっ!」
大声で呼ぶ声が聞こえ、僕らは顔を上げた。
焦って取り乱した甘玉さんが叫びながら川沿いの道を走っていた。
「あ、しまった。璃玖が見つかったことを甘玉先生に連絡してなかった」
「えー? ダメだよ、パパ」
璃玖は涙を拭いながら僕を叱る。
「甘玉さん! こっちです! 璃玖がいました!」
立ち上がって手を振ると、甘玉さんは血相を変えて階段を下りてきた。
璃玖の無事を確認すると、甘玉さんは涙をポロポロ溢しながら屈んで璃玖と目線を合わせる。
「よかった! 無事だったのね!」
甘玉さんは璃玖を抱きしめようとして、慌ててその動きを止めた。璃玖もバツが悪いのか甘玉さんを見ずに拗ねたように俯いて固まる。
「璃玖君ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 璃玖君の気持ちも訊かずにママにして欲しいなんて言ってごめんなさいっ」
見ると甘玉さんのストッキングは膝が破け血が滲んでいる。
今日は買い物にも出掛けたから甘玉さんは少しヒールのある走りづらい靴を履いていた。派手に転んだのか、片方の靴のヒールは取れてなくなっていた。
語らなくてもどれだけ必死で璃玖を探してくれていたかが伝わってきた。
「わっ⁉ 先生、血が出てるっ」
「こんなの、なんでもないよ。大丈夫。それより璃玖君の心を、先生は凄く傷付けちゃったの。本当にごめんなさい」
「……ううん。だいじょうぶ」
璃玖は首を振り、涙を拭って笑った。強くて優しい璃玖が誇らしくて、頭を撫でる。我が子ながら本当にしっかりした子供だ。
「ありがとう、璃玖君」
落ち着いた璃玖を見て安堵したのか、甘玉さんは息を切らしたまま微笑んだ。
「先生とパパが結婚するのは、やめにする。パパも、そして甘玉先生も、璃玖が一番大切なんだよ」
「うん。璃玖君の気持ちも考えずにごめんね」
沙耶香を成仏させるのはひとまず置いておいて、今は璃玖のケアを大事に考えた。
「ううん。パパと先生は結婚して」
璃玖は微笑んだまま、そう言った。
「いや、でも……」
「パパは先生と結婚したいんでしょ? 先生もパパのおよめさんになりたいんでしょ?」
「それは……」
璃玖のため、そして沙耶香の願いだから。
そんな考えで始まった再婚の計画だけど、今はそれだけじゃなくなっていた。
僕はこの人と共に暮らしていきたいと願ったからこそ、再婚しようと決意したのだ。
「そうだよ。パパは先生と結婚したい。でもそれは璃玖が納得してくれたらの話だ」
「ありがとう、璃玖君。そうね。先生は璃玖君のパパのお嫁さんになりたい。でもそれは璃玖君のママになるということにもなるの。璃玖君に無理をさせてまで結婚は出来ないよ」
甘玉さんは璃玖の目を見詰めながらにっこりと笑う。
「りっくんはママとやくそくしたんだ。あたらしいママとなかよくするって。それにりっくんが美月ちゃんと結婚したいのと同じで、パパが先生と結婚したいならさんせいだし」
璃玖は一度俯き、それから顔を上げた。
「でもごめんなさい……かんぎょく先生をママとはよべない。だけど……『おかあさん』なら、いいよ」
「璃玖君……」
「璃玖っ……」
璃玖は恐る恐る甘玉さんに近寄り、「それでもいい?」と訊ねた。
「ありがとう、璃玖君っ……」
甘玉さんも怖々と手を伸ばし、璃玖の背中に腕を回す。そしてゆっくりと、次第に強く、その感触を確かめるように璃玖を抱き締めた。
璃玖はその腕に包まれて、少し照れ臭そうに笑う。
「パパも『おとうさん』に変えるね」
「お父さん、かぁ。パパよりなんかちょっと老けた感じだなぁ」
「だってパパとおかあさんだったらなんか変でしょ」
「確かに」
僕は手を広げて抱き合う二人を包み込んだ。
「ありがとう、璃玖」
「うん」
腕の中に二人を感じながら顔を上げると、少し離れた上空に紗耶香が浮かんでいた。僕たち三人を見下ろしながら、静かに微笑んでいた。
僕と目が合うと紗耶香は小さく頷きながら夕闇の中に溶けるように消えていってしまった。




