偽らざる答え
甘玉さんから結婚を提案されて以降、僕は悶々と思い悩みながら生活する日が続いた。
紗耶香には甘玉さんと結婚するなんて嘘をついておきながら、実際に甘玉さんと結婚することなんて全く考えてもいなかった。
感情を抜きにして考えればこれ以上にいい選択はない気もする。
紗耶香が成仏できるし、紗耶香に指摘されているように璃玖にも母親は必要だ。
でも紗耶香が亡くなって一年も経っていないのに再婚するというのは、裏切りのようで気が退けた。
もちろん僕の再婚は紗耶香が望んでいることだし、裏切られたなんて思わないのだろう。これは僕の気持ちの問題だ。
あり得ない話だが、もし紗耶香が生きていて、僕が甘玉さんに言い寄られたとしても絶対に浮気をしない自信がある。
僕は心から紗耶香を愛していたし、それは今でも変わらない。
紗耶香と過ごした幸せで充実した日々の記憶が甦り、胸に迫る。
(いや、違う……駄目だ、そうじゃない)
あり得ない話なんて考えても仕方ない。
紗耶香は死んでしまったし、成仏できずに苦しんでいる。現実を見詰めなければいけない。
浮気することと再婚することは全然違う。
そもそも僕がこれほどまでに動揺しているのは、既に甘玉さんに紗耶香を騙すための共犯者以上の感情を抱いてしまっているからだ。
はじめは親切な人だとか、璃玖に優しく接してくれる人だとか、そんな風に思っていた。
しかし紗耶香のことや子育てのことで悩みを相談しているうちに、甘玉さんと話すことで心に安らぎを覚えていくようになった。
逆に彼女の悩みを聞いた時、憤慨してしまったし、守ってあげなければと感じた。
甘玉さんのことを一人の女性として意識してしまう自分に強い怒りや嫌悪感を覚え、その気持ちに蓋をしようと必死だった。
それだけに甘玉さんに結婚を提案されたときは動揺してしまったのだ。後ろ暗いところがある人が非難されると余計に怒り出して身の潔白を証明するように。
紗耶香が亡くなり、変わりゆく環境の中で自分の気持ちだけは変えないと頑なになっていた。しかしそれが変わりつつあるのが怖いんだと気付いた。
今でも紗耶香を愛する気持ちと、新たに出逢った甘玉さんに心が惹かれることは、相反することではない。
紗耶香がいなくなったこの世の中を俯かずに生きるということだ。
でもそれを必死に抑え込もうとしている自分がいた。
「相談したいことがあります」と伝えると芹那さんは快く応じてくれた。
紗耶香が成仏できずに苦しんでいるということを知っている芹那さん以上の相談相手はいなかった。
相談の場所として選んだお洒落な居酒屋は若いサラリーマンやOL、大学生たちで賑わっていた。まだ宵の口だが、店内は既に陽気に盛り上がっている。
「沙耶香は元気にしてる?」
芹那さんはそう訊いたあと「亡くなってるのにその訊き方はおかしいか」と自ら続けて、苦笑いを浮かべた。
「それが最近ちょっと元気がないというか」
ここ最近沙耶香が出て来る時間が減っていることを伝えると、芹那さんは寂しそうに眉を歪めた。
「そろそろ沙耶香を安心させて成仏させてあげないといけないんだと思います」
また沙耶香に唆されて僕がやって来たのかと思ったのか、芹那さんは返す言葉に困った様子で微笑んでいた。
「もちろん芹那さんにご迷惑はかけません。今日は相談があってお呼びしました」
「相談?」
「ええ」
すいませんが少し長くなりますと断ってから甘玉さんとのことの成り行きを説明した。
説明下手な僕は時系列が前後したり、説明が足りなかったりしたが、芹那さんは根気よく耳を傾けてくれた。
でも意識的に僕の甘玉さんに対する感情は省いて説明した。
「なるほどねぇ。再婚する振りして騙すつもりが、実際に再婚することになりそうってことか。藍田さんも隅に置けないね。で、この相談の内容は惚気? それとも修羅場? できれば後者の方が私の好みだけど」
芹那さんはニヤニヤと笑いながらビールを飲む。
「茶化さないでくださいよ。他人事だと思って」
「ふふ。ごめんなさい。藍田さん見ているとついからかいたくなるっていう沙耶香の気持ちが分かるわ」
二人にとって結婚前の僕の評価はどんなものだったのだろうか。今さらながらそんなことが不安になる。
「色んな感情的なものをいったん置いておいて考えるなら、再婚すべきだと思うよ。そうすれば沙耶香が成仏できるんだから」
「そう、ですよね」
歯切れ悪く頷くと芹那さんは静かにグラスを置いた。
「沙耶香が亡くなってまだ日も浅いのに再婚なんて早いって悩んでるのね?」
「はい。その通りです」
「でも他でもない沙耶香がそれを望んでるんでしょ?」
「それはまあ、そうなんですけど」
誰も反対をしていない。
うちの両親も、妹も、沙耶香のご両親だって、沙耶香本人ですら、それを望んでいる。
もしかしたら僕は止めてくれる人を求めて芹那さんに相談を持ちかけたのかもしれない。
「私も藍田さんの再婚には賛成だな」
僕の心を見透かしたように芹那さんはそう言った。
「まだ若いんだし、一人で子育てをするのも大変だろうし、璃玖君の為にもいいだろうし、相手がいるならすべきだと思う」
「やっぱりそう思いますか」
言いたい言葉がなんなのか思い付かず、欲しい言葉もなんなのかわからない。
僕はなにか別のものを飲み込むように、ビールをのどに流し入れた。
「でも一番問題なのは藍田さんの気持ち、かな?」
「僕の気持ち、ですか?」
「こんなに早く再婚したら沙耶香に申し訳ないとか、逆に沙耶香を成仏させるためとか、そんなことを思っているなら結婚はしない方がいいよ」
芹那さんは柔和に浮かんでいた笑みを消した。
「藍田さんはその甘玉さんが、好きなの? 私に相談するってことは再婚しようかなって考えているってことだよね。じゃあなんのために結婚したいと思っている? 璃玖君のため? 紗耶香のため?」
含みも澱みもない、ストレートな質問だった。ここ何日も自問し、答えに辿り着く前に考えることをやめていた問いだ。
「藍田さんの気持ちが一番大切だよ。だってあなたの人生なんだから。沙耶香でもない、璃玖君でもない、あなた自身の人生なの」
その答えは、既に僕の中で出ている。
僕は芹那さんの顔を見て頷いた。
「私から言えるアドバイスは一つだけ。結婚する振りをしても絶対に紗耶香は騙せないと思う。だってあの子の願いは藍田さんが再婚することじゃなくて、幸せになることだと思うから」
「はい。そのつもりは、もうありません」
僕は頭を下げながら立ち上がる。
「すいません。行かなきゃいけないところが出来ました。僕からお呼び出ししておいて本当に申し訳ありません」
「そう」
芹那さんは優しく微笑みながら頷いた。もう一度非礼を詫びてから店を飛び出す。駅まで走りながらコートを羽織った。でもそんなもの着なくても、寒くないほど身体は熱くなっていた。
いい大人が道を走っているから、擦れ違う人は驚いて振り返る。人にぶつからないように注意しながら必死に走っていた。
そんなに急いでも仕方ないのに、走らずにはいられなかった。
今すぐ会って甘玉さんに気持ちを伝えたかった。
駅に着いた時ちょうど電車がホームに入線してくる。そんなタイミングの良さも、なんだか運命めいたものに感じられるほど僕の気持ちは高揚していた。
普段はスマホを弄っている間に到着する乗車時間がもどかしいほど長く感じられた。
電車は気の急いた僕のことなど気にする様子もなくゆっくりと減速をし、水鳥が着水するような上品さで駅に停車した。
わずかな時間ももどかしい僕はドアの前に立ち、開き始めると同時に隙間を擦り抜けてるように電車を降りる。
時計を見上げると午後七時四十分。保育所での勤務が終わった甘玉さんはもう家に戻っているだろう。
階段を二つ飛ばしくらいに駈け降り、転びそうになって慌てて手摺りを掴んだ。革靴というのは相変わらず走るのに適してはいない。やはりもっと走りやすい靴にしておくんだったと後悔した。
改札を抜けて駅を出て、急ぎ足で甘玉さんの済むアパートへと急ぐ。
顔を撫でる風は冷たいが走っているからコートの中は汗ばむくらいの暑さだった。
部屋に電気がついているのを確認してからインターフォンを押す。
「はぁい」という甘玉さんの間延びした声の後にパタパタとスリッパで駆け寄る音が聞こえた。その段になってようやく僕は事前に甘玉さんに連絡していないことに気付いた。
「あ、宗大さん。こんばんは。どうしたんですか? そんなに息を切らせて」
甘玉さんは目を見開いて驚いた顔をしている。料理の途中だったのか、エプロン姿で手だけが濡れていた。
「甘玉さん、僕と結婚してください!」
ぽかんとした顔のまま、甘玉さんは見る見る顔が赤くなっていく。
エプロンで拭きかけていた手が凍ったように固まっていた。
「僕は甘玉さんが好きです。人に寄り添える優しさがあって、親切をしながら気遣える思慮深さもあって。それに演劇とか好きなものには子供のように目を輝かせるところも素敵です。笑顔も可愛いし、何より一緒にいるととても落ち着けるんです」
「ほ、褒めすぎ。褒めすぎですから、それ」
照れておたおたする姿も可愛かったけど、それを言うと更に委縮してしまいそうだから心の中に留めておく。
「紗耶香のためじゃない、璃玖のためじゃない。僕はあなたと一緒にいたいんです! 甘玉さんと共に生きていきたいんです」
想いのままに伝えると、甘玉さんは目を赤くさせて頷く。
「僕はバツイチですし、年齢も十歳くらい上です。それに子供もいます。出世もしなさそうな上に見た目も凡庸といういいとこなしです。でもあなたを幸せにすることを約束します。僕と、結婚してください」
「はいっ。喜んで」
涙目で微笑む甘玉さんを僕は恐る恐る抱き締めた。




