最後の手段
お墓参りに行った日から二週間と少し経っていた。
あの日以来、沙耶香が僕の前に現れる頻度が減っていた。二日ぶりに現れたかと思えば、数分で消えてしまうこともあった。
本人にそのことについて訊くと「私もなにかと忙しいの」などと誤魔化すが、日がな一日することのない幽霊が忙しいはずがない。
意識がある時間が減っている。
それは恐らく間違いなかった。僕を焦らせて失敗させまいと隠しているのだろう。僕らに残された時間は、もうあまりない。
紗耶香が成仏できないまま苦しんでいる様子だと甘玉さんに伝えると、会って話をしようと言うことになった。仕事が遅くなると千遙に嘘をつき、璃玖を預かってもらって甘玉さんのアパートに向かう。
「すいません。お仕事帰りのお疲れのところ」
甘玉さんはわざわざ僕のために鍋を作って待ってくれていた。
「いえこちらこそ。せっかくのお休みの日なのに。夕飯まで用意して頂いて」
街中で会うことも考えたが、意外とどこかで誰かに目撃される可能性もあるし、何より帰りが遅くなるという理由から甘玉さんの部屋で会うことになっていた。
鍋はしっかりと出汁を取って味噌と唐辛子で味付けをした、寒い日にぴったりなオリジナル鍋だった。
具材は肉団子や白菜、豆腐など色んなものが入っている。
「美味しい!」
「ほんとですか? よかった」
「野菜にも味が滲みてて美味しいです。これなら野菜嫌いな璃玖でも食べられるかも」
「あははは!」
甘玉さんはお箸を持ったままの手で口を押さえて大笑いしていた。
「ごめんなさい。いつも璃玖君のことを考えてる素敵なお父さんなんだなぁって思って」
褒められてるのか、からかわれているのか分からなくて変な汗が出る。
よく考えてみればこうして沙耶香以外の女性と二人で食事をするのなんていつ以来なんだろう? そう思うと、また変な汗が分泌された。
紗耶香のことについて話し合う予定だったのに、話題は結局璃玖のこととなる。グループ行動の時にリーダーシップを発揮していることとか、積極的に先生の手伝いをすることとか、僕の知らない保育所での璃玖の暮らしは驚きと笑いの連続だった。
「それで沙耶香のことなんですけど」
締めの雑炊まで食べたところで僕は本題を切り出す。片付けようとしていた甘玉さんは手を止めて「はい」と頷いて姿勢を正した。
「もう二日も僕の前に現れてません。ここ最近は現れたときも意識が朦朧とした様子ですし。もしかして、沙耶香はそろそろ……」
成仏できない霊から怨霊に変わりかけているのではないか。
その一言は恐くて口に出せなかった。
「こうやって緩やかに成仏していくということはないんでしょうか?」
「それは私にもよく分かりません。でも私の父の場合は『もう泣かない。お母さんを助ける』と私が誓ったときに、成仏して消えていきました」
「そう、ですか……」
藁にも縋る思いで訊いたが、やはり自然とゆっくり成仏していくものではないようだ。
「もちろん私は霊の権威とかではないので、はっきりとしたことは分かりません。ゆっくりと、煙が消えるように成仏する霊もあるのかもしれないですけど……」
慌てて付け足したようなその一言に希望を託せるほど、僕は楽観主義者ではなかった。
「仕方ない。こうなったら仕方ない。最後の手段です」
決意を固めて大きく息を吸うと、甘玉さんは「は、はいっ……」と言って緊張した面持ちで居住まいをただした。肩を窄めて俯きがちに僕を見る姿勢は、まるで叱られている子供のように見えた。
「お坊さんに、お祓いをしてもらいましょう」
「……はい?」
甘玉さんはなぜか小石に躓いたような表情をして顔を上げた。
「成仏できないならお祓いをしてもらうしかないです。追い払うみたいな感じで嫌だったんですけど仕方ないです」
甘玉さんは呆れた顔をして「はぁ」とため息をつく。
「どうしましたか?」
「いえ。奥様が成仏できない理由がなんとなく分かりました」
「えっ!? 本当ですか!? 教えてください」
その問いには答えてくれず、ぎろっと睨まれてしまった。
「実は私も最後の手段を、考えてきたんです」
「そうなんですか? ありがとうございます」
甘玉さんも僕と同じように大きく息を吸って覚悟を決めたように口を開いた。
「宗大さん」
「はい」
「あの……私と結婚してください」
「…………え?」
甘玉さんは真っ赤な顔をして僕を真っ直ぐに見詰めていた。
「け、結婚すれば、奥様も安心して成仏出来るんですよね? だったら私と本当に結婚してください」
「い、いや、でも……それは……」
想像すらしていなかった甘玉さんの『最終手段』に動揺してしまう。
確かに婚姻届を提出するところまで見たら、さすがの沙耶香も信用して成仏してくれるだろう。
しかし──
「一旦籍を入れたら抜くときに履歴が残ってしまいます。ご提案はありがたいんですけど、さすがにそんなことで甘玉さんに離婚歴を付けてしまうわけにはいきません」
「籍を抜かなければいいんです」
「いやいや。それだったら戸籍上ずっと夫婦のままになっちゃいますから」
おかしくてつい笑ってしまった。しかし僕の笑顔を見ても甘玉さんは真剣な表情のままだった。
嘘や冗談を言っている訳ではない。
その表情はそう物語っていた。
「私と結婚するのは、嫌ですか?」
「えっ……いや、それは……その、僕と、結婚してくださるってことですか?」
「はい。そう言ってます」
あまりの展開に思考がついていかない。
甘玉さんは固唾を飲んで僕の言葉を待っている。
「すいません。そんなこと考えたこともなかったんで、なんとお答えすればいいのか」
「それは『私と結婚なんて考えられない』、ということでしょうか?」
「いや、そう言うことじゃなくて。文字通りの意味と申しますか、なんと言いますか……」
僕と甘玉さんは真剣交際をする振りをしていたはずだ。どこかで本当に付き合うという話になったんだったっけと、一瞬自分の記憶を疑ってしまった。
「結婚するというのは、その、一緒に暮らすというわけであって、璃玖の母親になるということになるんですよ? お気持ちは嬉しいですけど同情でするものじゃないです」
「同情なんかじゃありませんっ!」
甘玉さんは急に大きな声を上げ、すぐに恥じるように「すいません」と俯いた。
「私は結婚をしたことないし、どういうものなのか分かっていないところもあると思います。でも少なくとも同情で結婚しようだなんて思ってません。璃玖君の苦しさや悲しさは分かりますので、応援したいとか手助けしてあげたいと思いますけど、それは同情なんかじゃありません」
甘玉さんの訴えかける眼差しに、失礼なことを言ってしまったという罪悪感がこみ上げる。
「すいません。同情は言い過ぎました」
「いえ。私の言葉が唐突すぎたのもよくなかったですから」
自らの経験を元に璃玖のことを思ってくれるのだろう。それはとてもありがたかった。
「宗大さんに対する気持ちも、同情じゃないです」
「えっ?」
甘玉さんは顔をホオズキのように染めてそう言った。先ほどから驚きの連続だったが、この時の慟哭が一番激しかった。
「優しくて、真面目で、いつも璃玖君のことを一番に考えて……それに奥様のことも大切にされている。とても誠実な方だと尊敬してます」
「僕なんか全然ですよ。尊敬だなんて」
「そういう謙虚なところも素敵だと思いますし、璃玖君を一人の人間として尊重されているところも立派です。それに私が幼馴染みに困っているときもすぐに助けてくださいました。本当に感謝してます」
大きく頭を下げられ、逆に恐縮してしまう。
「あれはいつもお世話になっている恩返しですし、当たり前ですから」
「そういうところです」
緊張も解れてきたのか、甘玉さんはリラックスした様子で笑っていた。
「でも駄目なところもあります」
急に真剣な顔でピッと指を差される。
「宗大さんは自分に厳しすぎます。精一杯やられているのに、いつも自分を責めて。それに人を頼らないようにしようとし過ぎです。なんでも自分でなんとかしようとしていて、見ていて不安になっちゃうんです」
「それは、その、璃玖は僕一人で育てていくと決めたから。当然のことですし」
「じゃあ訊きますが、いま璃玖君はどうしてるんですか?」
甘玉さんがずいっと寄ってきたので、僕は怯んで後退る。
「自分一人だけで育てるなんて口では言えますけど、実際はものすごく大変なことです。誰かに頼ることを罪だなんて思わないで欲しいんです」
「そうですね、すいません」
確かに僕は人に頼ってしまっている。仕事が忙しい時は妹や両親に頼り、職場ではシングルペアレントということで融通を効かせてもらっている。みんなに助けられて璃玖を育てていた。
「以上のことをもちまして、私は宗大さんと結婚したいと思いました。同情なんかじゃありません」
照れ臭さを隠すためか、甘玉さんは仰々しい口調で戯けた。
「同情じゃないことは分かりました。僕も甘玉さんは璃玖のことを理解してくれてると思いますし、その……」
続きを訊こうと甘玉さんが僕の顔を覗き込む。
「か、甘玉さんは、素敵な方だと思います。けど急すぎてまだ頭が追いつかないというか──」
「奥さんが亡くなられて一年も経っていないのに再婚なんて考えられないのは分かります」
僕の言葉を遮るように甘玉さんがそう言った。
「でも一人でなんでも抱え込もうとしないでください。よかったら宗大さんが背負うものの半分を、私にも背負わせてもらえませんか?」
目を逸らすことはおろか、息を飲むのさえ躊躇われる真剣な眼差しだった。
「分かりました。考えさせてください」
「もちろんです。考えて、それから返事を聞かせてください」
それからはいつもの空気に戻り、洗い物も手伝った。途中ちょっと手が触れたときは緊迫した空気に戻ってしまったが、お互い素知らぬ振りをして泡と一緒にその空気も流した。
「それじゃ、また」
ドアを開けて挨拶をすると甘玉さんは頷いた。
「お返事、急いではいませんので」
「はい。ありがとうございます」
部屋を出ると待ち構えていたような北風に吹き付けられる。その風の冷たさで自分の身体がいかに火照っていたのかを知った。
帰り道は甘玉さんの言葉を思い出していた。
そして自宅に着く寸前に沙耶香のことを思い出す。
これまでいつも紗耶香のことを一番に考えていたのに、ずっと甘玉さんのことを考えてしまっていた。それがなんだかとても罪深いことをしてしまった気持ちに陥ってしまった。




