世界で一人の奇特な人
「パパ、そんなところで寝てたの? かぜひくよ」
璃玖に揺さぶられて目覚めたのは六時半。僕はリビングのソファーで寝てしまっていたらしい。
「あ、ごめん。おはよう璃玖」
璃玖の頭を撫でながら部屋を見回す。
当然ながらホーンテッドマンションさながらに飛び回る紗耶香の姿はなかった。
昨日のあれは、やはり夢だったのか。
ちょっとがっかりしつつも、夢であろうが紗耶香に会えたことが嬉しくて顔がほころぶ。
「なぁ、璃玖」
「なぁに?」
「新しいママ、欲しい?」
「えー? いらない。だってパパがいるし。それにママはママだよ。新しいママなんて、ママじゃないもん」
「だよなー」
『パパがいる』などというおまけの嬉しいことまで聞けて、朝からテンションが上がった。
その後は毎朝のごとくバタバタと支度をし、璃玖を保育所に送り届けてから会社に向かった。
残業は出来ないから勤務時間内は集中して仕事をこなしていく。目が回りそうな忙しさも、昨日の夢の中での紗耶香とのやり取りをしたせいか、何の苦痛も感じなかった。
僕が笑顔で頑張っている姿を見れば、きっと紗耶香も安心するはずだ。
十八時に保育所に迎えに行くと璃玖はいつもの元気いっぱいな様子で僕に駆け寄ってくる。
しっかりしていてもまだたったの五歳だ。甘えたい盛りなのだろう。そう思えば少々疲れていても肩車くらい苦でもなかった。
夕飯は麻婆豆腐にした。僕が作る料理の中で璃玖が気に入ってくれている数少ないレシピの一つだ。
豆板醤をちょっと控えめで作ると文句を言われるので大人が食べる辛さで作る。子供にはちょっと辛すぎるかなと思うが、璃玖にはこれくらいがちょうどいいらしい。
夕飯の時もお風呂の時も璃玖は一生懸命に今日の出来事を教えてくれた。
登場人物も増えて来たし、主語と述語もめちゃくちゃだし、すぐ「えっと」とか「それからね」が入るから正直なんのことかわからない話も多い。
でもなるべく聞き流さずに理解しようと努力していた。
やや興奮気味だった璃玖をなんとか寝かしつけたのが午後九時半。五歳の子にしては寝るのが遅いというのが心配事の一つだ。
璃玖が寝てしまうと急に家の中が静かになる。立ち止まる暇もない一日にぽっかりと穴が開いたような静寂な時間だ。
紗耶香がいればここからお酒を飲んだり、今日の璃玖の面白かった出来事を話したりをするのだろう。
洗濯物を畳みながら、皿を洗いながら、明日の保育所の準備をしながら、無限に広がる璃玖の将来について語り合ったり、まだほんの少ししかない璃玖の歴史を掘り起こして笑い合ったり。
でもシングルペアレントである僕にはその相手がいない。
一人で回顧するしかなかった。
ちなみに璃玖という名前を考えたのは紗耶香だった。
妊娠が分かった時にすぐに名前を考えたのがいかにも彼女らしい。
もちろんまだ性別は分からなかったので男の子用と女の子用の二種類の名前を考えていた。そして男の子だったので『璃玖』と名付けた。
そんな璃玖も、もう五歳だ。まだまだ子供だが、それでもだいぶしっかりしてきた。あのしっかりした性格はママ似なのだろう。
少し感慨に浸りたくなり、冷蔵庫からビールを取り出す。
「私の話はいつも上の空で聞いてたくせに璃玖の話は真剣に聞いてあげるんだねー」
プルタブを開けてビールを煽った瞬間、目の前に紗耶香が現れた。驚きで噎せてしまい、ビールを吹き出してしまった。
「紗耶香っ……やっぱり昨日のあれは夢じゃなかったんだ」
「そうだよ。成仏できない妻の霊ですよ」
紗耶香は両手の甲を僕に向けお化けのポーズをとって「うらめしやー」とおどけた。緊張感がなさすぎる幽霊に思わず笑ってしまう。
聞きたいことも、言いたいことも、息継ぎしないで喋れるくらい沢山あった。
しかし矢継ぎ早にそれらをぶつけたら昨夜のようにすぅっと消えてしまいそうで、それらの言葉を喉元で堰き止めた。
ごく自然な、夫婦らしい会話をしようと心掛ける。
「紗耶香の話だってちゃんと聞いてたよ」
「へぇ。じゃあ私が職場で一番尊敬していた先輩の名前、憶えている? 二年先輩でバツイチで綺麗な人」
紗耶香は疑りの眼差しでそう問いかけてくる。
「それはさすがに覚えてるよ。芹那さんだろ。小野寺芹那さん」
忘れるわけがない。僕らがはじめて出逢った夜、紗耶香と一緒にいたのが芹那さんだった。懐かしい思い出が甦り、胸が熱くなる。
「正解。さすがに芹那さんは覚えてるか」
問題がちょっと簡単すぎたかなと紗耶香は残念そうな顔をする。
「紗耶香だって僕の話なんて聞いてなかっただろう?」
そう言っていくつか質問してみたが、驚くことに紗耶香はそのすべてを答えることが出来た。仕事に家事、子育てをして僕の話までちゃんと聞いてくれていたのかと驚く。
話題は次第に璃玖のこととなり、アルバムを捲りながら思い出話に花を咲かせた。
璃玖のことならどんな些細なことでも覚えていたし、写真を見ればその前後に会ったことまで思い出せる。
トラの檻の前で泣く姿、アイスクリームで口の周りをべたべたにさせたところ、僕に抱っこされながら神社のお参りをするあどけない表情、紗耶香としゃがんで花畑を眺める姿。
どの写真にも幸せが溢れ、香りや音まで甦るくらい、記憶は鮮明だった。
「街コンっていうの? お見合いパーティーにバツイチ限定のとかもあるみたいだよ」
アルバムの最後の一ページを捲ったとき、思い出話の続きのように紗耶香が言った。何のことだかわからず、首を傾げる。
「ほら、昨日の話の続き。宗大が再婚する話だよ」
不意に別れ話をされたように心臓がドクンと震え、僕はアルバムに視線を落としたまま動けなくなってしまった。
「その話は──」
「宗大の言いたいことは分かるよ。でも璃玖には新しいママが必要なの」
「新しいママなんていらないって璃玖も言ってたよ。僕が物理的なお世話をして、霊体である君が話しかけることで心の支えになるっていう方法じゃ、だめなのかな?」
責めるような口調にならないよう気を付けながら提案した。週末の旅行の予定を決めるような、なんでもないことのような言い方で。
紗耶香はちょっと困った顔をして首を振る。
「今はいいのよ。宗大はしっかりと璃玖の面倒を見てくれている。でもこれから仕事でもっと責任ある立場になるだろうし、今みたいにはいかなくなる。璃玖だって色々世話がかかるようになるわ。宿題を見てあげたり、悩みを聞いてあげたり、授業参観だってあるし、そのうちお弁当も作らなきゃいけなくなるし。なんだかんだ言っても世間は親が二人いることを前提に作られてるの、残念ながら」
今だってちゃんと出来ているという自信がない僕は黙って苦笑いをする。
「宗大のことだから何とかうまくやろうと努力はしてくれると思う。でもきっと無理しすぎて身体を壊しちゃうよ。もしそうなったら璃玖はどうするの? たった一人の父親まで倒れたら、それこそ可哀想なことになっちゃうでしょ」
反論しようと思えばいくらでも出来た。両親も元気だし、妹だって近くにいる。今は色んな福祉サービス充実しているだろうし、片親の家庭だって数多くあるはずだ。
でもそれらの反論はしなかった。紗耶香だってそんなことは百も承知で、その上で言っているのだろうから。
「わかったよ。あまり気乗りしないけど、まあ璃玖を大切にしてくれそうな人がいたら考えてみる」
霊とはいえせっかく僕の前に再び現れてくれた紗耶香と喧嘩をしたくなかった。
再婚を頑張っているふりをしておけば、とりあえずは紗耶香も満足してくれるだろう。そんな甘い考えで安請け合いをしてしまった。
「ありがとう、宗大。私も出来る限り応援するから」
「でもあんまり期待するなよ。僕はただでさえモテないんだから。そのうえ妻と死別して、更には子供までいるとなったら絶望的だから」
「そんなことないって。宗大は魅力的だし、結婚したいって思う女性はきっとたくさんいるはずだよ」
「買いかぶりすぎだよ」
そんなこと言ってくれるのは沙耶香だけだ。この世の中でもう一人そんな奇特なことを言ってくれる人を探すなんてきっと無理だろう。そもそも真剣に探す気なんて毛頭ない。
再婚に前向きになったふりをする僕に喜ぶ紗耶香を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。




