元妻の勘
「私がはじめて霊感を持ったのはこの部屋なんです。突然父の気配を感じて、声が聞こえてきたんです。『泣かないで、麗奈』って。そしてお父さんがぼんやりと現れたんです」
甘玉さんは遠い目をして懐かしそうに微笑む。
「私は慌ててお母さんを呼んで、ぼんやりと浮かぶお父さんを指さして言いました。『お父さんは死んでない。ここにまだいる』って。でもお母さんは悲しそうな目をして私を抱き締めるだけでした。私は訳が分からなくて『ほらお父さんそこにいるよ』って何度も訴えました。でも何度言っても母は信じてくれませんでした」
「見える人と見えない人がいるんですね」
甘玉さんは静かに頷いた。
「やがてお母さんには見えていないんだと気付きました。お父さんは死んで、これは幽霊なんだって。でももちろん恐くはありませんでした」
「その後お父さんは?」
「恐らく成仏してくれたんだと思います。私が泣いてばかりだから心配で成仏できなかったんでしょうね。『もう泣かない。これからはお母さんを助ける』って約束してから、お父さんは現れなくなりました」
「そうなんですね」
改めて部屋を眺め、今はもういないというそのお父さんの霊を想った。
大切な人を残して逝ってしまった人はきっと成仏できずに霊となって現れるんだろう。そして完全とは言えなくとも憂いがなくなれば成仏できるようだ。
「きっと奥様も心配事がなくなれば、父のように成仏できるんだと思います」
「だといいんですけど。なにせうちの妻は心配性だからなぁ」
「そんな大切な時なのに藍田さんにけがをさせてしまうなんて……これじゃ余計奥様を心配させてしまいますね」
甘玉さんはまた申し訳なさそうに眉を下げた。
「大丈夫ですよ。そこは僕がうまくいいますから。チンピラに絡まれて喧嘩したとか」
「いえ、それはいけません。私のせいで大事な旦那さんを怪我させてしまったのは事実なんですから。そこは正直に言うべきだと思うんです」
結婚を前提に付き合っているという嘘はついているのに、僕の怪我の理由の嘘はつきたくないらしい。ちぐはぐな感じだけれど、そこが甘玉さんらしくて思わず笑ってしまった。
甘玉さんの実家から戻り、璃玖を実家に迎えに行く前に僕は一人でアパートへと帰った。怪我の理由を璃玖がいないところできちんと紗耶香に説明するためだ。
「どうしたのよ、それ!」
紗耶香は僕の顔に貼られたやや大げさなカーゼを見ると目を丸くして驚いた。
「いや、実は」
「あ、わかった! 無理やり甘玉さんにキスしようとしてひっぱたかれたんでしょ?」
「そんなわけないだろ! ていうかだとしたら甘玉さんのビンタ、威力強すぎでしょ?」
テーピングされたところを指さしながらツッこんだ。
自分で言っておきながらツボに入ったのか、紗耶香もケラケラと笑った。
「じゃあもしかして甘玉さんのお父さんにぶん殴られたとか? 娘さんと結婚させてくださいとか言ったらいきなり張り倒されたんでしょ?」
紗耶香はまったく当てる気がないクイズ番組のコメディアンみたいなことを言ってさらに笑った。
「そんな急展開、あるわけないだろ。それに」
仏壇の上に飾られてあった優しそうな甘玉さんのお父さんの遺影が脳内でフラッシュバックした。
「甘玉さんは幼い頃にお父さんを亡くしているんだ。ちょうど、今の璃玖くらいの時に」
「えっ……そうなんだ……」
紗耶香の顔に浮かんでいた笑みは一瞬で消えた。
「そういうこともあって甘玉さんはつい璃玖を特別な目で見てしまうことがあるって言ってた。もちろん同情とかそういうのじゃなくて。片親の大変さを知っているから、応援したくなるんだって」
「そっか……」
紗耶香は神妙な面持ちで小さく何度も頷く。何かを噛み砕いてゆっくり消化していくように、何度も何度も。
なんだか知らないけれど、僕はその頷きを止めたくて仕方なかった。
「顔を怪我したのは甘玉さんのストーカーっぽいのにやられたんだ」
「ス、ストーカー!? なにそれ? どういうこと!?」
「ずっと前から甘玉さんに言い寄ってくる男がいたんだよ。甘玉さんに彼氏ができたって聞いたら逆上してそいつを連れて来いって話になって」
「それで殴られたわけ!? なにそれ! 警察に通報だよ、そんなの!」
紗耶香は憤慨して顔を赤くする。
「それは無理だよ」
「なんでよ? 傷害事件じゃない!」
「過剰防衛なくらい、やり返しちゃったから」
「ああ……そっか。宗大って柔道やってたもんね、こう見えて」
「こう見えてって……失礼だな」
小さいころ貧弱で泣き虫だった僕に父が無理やり柔道を習わせた。まさかそれが役に立つ日が来るとは思わなかったけれど。
「かなりしつこい奴らしかったから、今日は直接会って話すことにしてたんだよ。ごめんね、紗耶香に内緒にしてて」
「ううん。彼女を守るためだったんだもんね。そんなこと気にしなくていいよ」
紗耶香はにっこりと笑って、また小さく頷いた。それは先ほどより、ずっと優しい笑みだった。
甘玉さんの生い立ちを聞いて、彼女に対する考えが少し変わったのかもしれない。
これでよかったはずなのに、僕の胸はズクッと鈍く痛んだ。
「それで?」
「なに?」
「身を挺して彼女を守ったんだからキスくらいしたんでしょ」
「はあっ!? そんなことしてないから」
「えー? それはおかしいでしょ。そこまでしたんならキスくらいしなきゃ! 中学生でもするよ」
紗耶香は疑り深く細めた目でじぃーっと僕の唇を見詰める。そこにキスの痕跡があるはずだと言わんばかりの目をして。
「そんな軽々しく出来ないんだってば。璃玖のこともあるんだし」
「璃玖のせいにしないでよね-。宗大がヘタレでキスできなかっただけでしょ」
「そんな空気じゃなかったんだって」
しどろもどろで返し、「璃玖を迎えに行く」と言って腰を上げた。
「私はいいと思うよ、甘玉さん」
ポツリと沙耶香が言った。一瞬僕は息をすることも忘れて固まった。
「うん。僕もいい人だと思う」
精一杯の笑顔を作り、沙耶香を見る。
「きっと宗大と甘玉さんは結婚する。妻の勘ってやつ? あ、元妻だけど」
「そうか。うん。そうかもね」
元妻だと勘も少し鈍るものだろうか。
なにせ僕と甘玉さんは付き合ってもいないのだから。
そんなことを考えながら、僕は家のドアを出た。




