人生初修羅場
急な仕事だということにして璃玖を実家に預けてから甘玉さんを迎えに行った。さすがに今日の修羅場じみたところに璃玖は連れていけない。
「すいません。本当にいいんですか?」
助手席に座った甘玉さんは申し訳なさそうに訊ねてきた。
これまで車で移動することはあったけれど、助手席に甘玉さんが座るのは初めてのことだ。
「もちろんです。僕の方がもっと大変なことをお願いしてるんですから」
「でも危険な目に遭わせてしまったら」
「大丈夫ですよ」
笑いながら僕はアクセルを踏んで、まだ正月が明けきっていない街を車で走り抜けた。
甘玉さんの実家は山を越えた先にあった。
公共交通機関を使うとかなり遠いが、車ならばトンネルも使えるのでそう遠くはない。
「一応確認ですけど、今日はその幼馴染みの人と会って僕が恋人だと挨拶しますんで。そしてその上でもう甘玉さんにつき纏わないでくれってお願いします」
「そんなに素直に聞き入れてくれる人とは思えないんです」
甘玉さんは不安げに眉を歪める。
「大丈夫。ちゃんと話をつけますから」
トンネルを抜けると、景色は一気に長閑なものへと変わった。
自然豊かで穏やかな景色は甘玉さんの温厚な人柄を育んだ地に相応しいものに感じる。
「山一つ越えただけで随分と景色が違うんですね」
「ええ。まるで別世界ですよね」
甘玉さんは微笑んだが、声色からもかなり緊張しているのが伺えた。
「あ、ちゃんと指輪してきてくれたんですね」
リラックスさせようと指輪をさして笑いかける。
「もちろんです。ありがとうございます」
甘玉さんは照れ臭そうに手の甲を頰の前に添えて、芸能人の婚約会見みたいに指輪を見せてくれた。
さらに田舎道を走って行くとやたら大きい割に車がほとんど止まっていない道の駅が現れた。ここがその幼馴染みとの待ち合わせ場所だった。
「やっぱりいいですよ……藍田さん。変なことに巻き込んでしまうのは悪いですから」
「大丈夫ですよ。それよりちゃんと恋人の振りをしててくださいね」
冷静に考えれば甘玉さんの恋人役というには年上過ぎるし、そもそも冴えない僕と美人な甘玉さんとでは釣り合いが取れないかもしれない。
でもそれを言い出したら沙耶香を騙す恋人役としても不釣り合いになってしまう。
多少緊張はしていたが、こういうことに慣れておいた方が沙耶香と対峙するときも役に立つと気持ちを奮い立たせた。
道の駅には自動販売機しかなく、僕たちの他には誰もいない。
そこへ待ち構えていたように一台の車がやって来た。
「あ、来ました。あれが幼馴染みの黒田君の車です」
苛立ってるのを表現するような荒々しい運転で僕らの車のそばに停まる。
車から降りてきた男は僕が想像していたような粘着質の冴えない男とはほど遠い、すらりとした高身長のいわゆる『イケメン』だった。
しつこくつき纏う行動から、もっと陰湿そうな外観を予想していたのでちょっと面食らう。
その男の方も顔に浮かべた侮蔑の表情で、僕に対してどんな感想を抱いたかよく分かった。
「そのおっさんが麗奈の彼氏?」
彼は遠慮もなく僕を睨みつけてせせら笑った。
一方甘玉さんは普段の温厚さからは想像も出来ないくらいに不快な顔をして男を睨みつけていた。
「そういう言い方、やめてよね」
「どうも。麗奈さんの彼氏の藍田です」
僕は怯まずに一歩前に出てその男の目を見た。
「こんなおっさんのどこがいいわけ?」
僕のことは無視して甘玉さんに訊く。
恐らく彼だってそういう態度を取れば余計甘玉さんから嫌われることは分かっているのだろうが、彼氏と紹介された男があまりにも貧相で拍子抜けしたのだろう。口調が完全に悪役キャラだった。
「藍田さんは凄くいい人なの。自分のことより人のことを思って生きられる。凄く優しくて、思い遣りがあって……それに決して逃げたりしない。そんな素敵な人なの。黒田君には分からないでしょうけど」
「は? なにそれ? 金持ち……って訳でもなさそうだし」
啓介は僕の服装と車を見て値踏みをする。
かなり失礼な態度だが、長年好きだった女性の彼氏と対面して気が立ってるのだろうから、気持ちは分からなくもなかった。
「悪いけど甘玉さんに付き纏うのはやめてくれないかな?」
「はあっ? うるせぇよ。彼氏づらすんな」
「そりゃするだろ? 彼氏なんだから」
正直修羅場というものは初めてだった。
野生動物でもメスを奪う争いは命懸けだ。
こういうところは人間もまだ野生の本能を持っているのだろう。緊迫した状況なのになぜかそんなことを思った。
歳上であることや、本当の彼氏じゃないということが心の余裕になるようで、驚くほど僕は冷静でいられた。
「関係ねえし。俺と麗奈は高校の頃からの付き合いなんだよっ!」
「変な言い方しないで。私は啓介と付き合ったことなんてないんだからっ!」
「正直甘玉さんは君に迷惑している。それは、自分でも分かってるいるんだろ?」
一応説得する言葉は考えて来たけれど、あまり役に立ちそうではなかった。
色々筋道を立てたところで相手のあることだし、ましてや拗れた恋愛関係なんて一番感情的になる類の話だ。相手の出方を見ながら話すしかなさそうだ。
「迷惑だとっ! ふざけんなっ!」
僕の言葉に煽られた彼は拳を振り上げてきた。
暴力に訴えてくるだろうとは思っていたが、思いのほか展開が早かった。
避ける隙もなく、思いっ切り頬を強打された。
「きゃあっ!!」
よろけながら甘玉さんの悲鳴を聞いていた。口の中が切れたらしく、痺れと共に苦い血の味が広がった。
興奮した黒田は更にもう一度殴ろうと拳を振ってきた。
しかし大きく振りかぶったその動きは簡単に見切れた。
僕は姿勢を低くして頭頂部で彼の顔面に頭突きを見舞う。
「うっ‼」
啓介は低く唸りながら顔を抑えて蹲る。鼻に直撃したようで、ぼたぼたと鼻血を指の隙間からこぼしていた。
「てめぇえっ!」
刃物を持っていたらどうしようと危惧していたが、彼もそこまで馬鹿ではなかったらしく再び拳を振り抜いてくる。
しかし流血したショックからなのか、そもそも喧嘩慣れしていないのか、そのパンチはデタラメで空を切った。
僕は身体をぶつけ、黒田を倒して肘を取って関節技を決める。
「痛たたたっ! 放せよっ!」
「二度と彼女につき纏わないと約束しろ。さもなければ腕を折る」
「はあっ!? お前、イカれてんのかよ!?」
「返事は!」
「痛てぇえ! わ、わかった、わかったから!」
黒田が誓ったのを確認してから腕を放してやった。彼は僕を突き飛ばすように立ち上がり、肘を抑えながら車へと戻っていく。
まだ何か仕掛けてくるかもしれないとその背中を睨んでいたが、そのまま車に乗って来たときよりも荒々しい運転で立ち去って行った。
「藍田さん、ごめんなさい!」
「わっ……」
甘玉さんが涙目で僕に抱きついてきた。
女性特有の柔らかな感触を押し付けられて、先程の喧嘩のときよりもどぎまぎしてしまう。
「大丈夫ですから」とやんわりと甘玉さんの身体を離す。
「すいません……こんなことになって……本当にすいませんっ」
甘玉さんはひたすら謝り、ハンカチで僕の傷口を拭っていた。
「情けないよなぁ……こんなに思いっ切り殴られるなんて」
「情けなくなんかないですっ……格好良かったです……」
「格好良くはないでしょ」
手やら顔に貼り付いた砂利を払いながら笑ったら、傷口からずきんっと痛みが走った。
「痛っ……」
「手当てしますからうちの実家に来てください」
「大丈夫だって、これくらい」
「駄目です! 手や足も擦り剥いてますし、化膿したら大変ですからっ!」
「は、はい……」
甘玉さんは有無を言わせぬ力強さで僕を助手席に乗せて実家まで連れて行く。




