はじめての二人での年越し
水を張った鍋に昆布と煮干しを漬けて間もなく一時間になる。
そろそろ鍋に火を入れる頃合いだ。
「やけに気合い入ってるのね」
からかい気味に沙耶香が笑う。
「まあね。沙耶香の作る年越し蕎麦は絶品だったからね。今年から僕も頑張らないと」
「そんなに大したもんじゃなかったよ、あれ」
苦笑いを浮かべて謙遜をするが、沙耶香がしっかりと出汁を取っていたことは知っている。
璃玖は大晦日の昼のうちに実家へと行かせていた。
年越しも元旦も実家に行かないからその代わりだ。そのお陰で僕はこうして昼間から沙耶香と話が出来る。
「あの甘玉先生って人、まあまあ悪くないんじゃない?」
唐突に言われ、ドキッとしてしまった。
昨日は買ったものを実家に届けたりバタバタしてしまい、帰ってきてからすぐ寝てしまったので話が出来なかった。
でも実際は意図的に沙耶香と話をするのを避けていたということもあった。
「そうだろ? 璃玖のことも可愛がってくれるし、性格も穏やかだし」
否定するわけにはいかず、かといって惚気るようなことも言えず、新しく買った電化製品を褒めるように甘玉さんを褒めた。
「顔立ちもおっとりしてて宗大の好みだよね。若いし」
「はあ? 見た目とかは関係ないし」
「あるよー。やっぱりお母さんが美人の方が璃玖も嬉しいでしょ。美人の方が宗大もやる気を出すだろうし」
ちょっと棘のある言い方についムッとしてしまう。
「それに璃玖もいつまでも一人っ子だったら可哀想だし──」
「沙耶香っ!」
思わず声を荒げてしまうと、沙耶香は笑顔を緩やかに消していった。
「……僕は沙耶香を成仏させたいから、沙耶香を怨霊なんかにしたくないから、再婚を考えているんだ。別にしたくてするわけじゃない」
気が付くと昆布と鰹節を入れた鍋が沸騰していて、慌てて火を弱めた。
吹きこぼれてしまったお湯がジュッとコンロに落ちる。
つい感情的になってしまった自分を恥じた。これではいつまで経っても沙耶香は安心して成仏できない。
「そうだよね。私のためだもんね。ありがとう」
僕らの間で張り詰めていた空気が弛むのを感じた。でも分かり合えた穏やかさではない。問題をうやむやにした仮初めの平穏だ。
「そういえば最近記憶がなくなる症状はどうなの?」
「あ、うん……まあ、たまに起きる感じ……寝てるみたいなもんだから大丈夫だよ」
「そっか……」
鍋の中で踊るように舞う鰹節を見詰めながら頷いた。
沙耶香はどんどん消えていってしまう。
コップの中の氷のように、フェイドアウトしていく音楽のように、飛行機の窓から見える景色がだんだん小さくなっていくように。
突然の別れは辛かったが、予告された別れは尾を引く鈍痛の苦しみを伴う。
「私は大丈夫だからね。宗大は気にせず、今を生きてね」
僕の心を見透かしたように沙耶香が言った。
「僕はあまり大丈夫じゃないけどね」と言いたかったが堪える。恐らく沙耶香だって大丈夫ではないのだろうから。
死んでまで僕の幸せを心配してくれている沙耶香を、僕は騙そうとしている。それが申し訳なくて沙耶香の目を見ることが出来なかった。
でもこれは沙耶香に成仏してもらうための嘘だ。
「年明けに甘玉さんとデパートに買い物に行くことになったんだ。新春初売りセールやってるから。沙耶香も行く?」
「行くわけないでしょ。一人で頑張ってきて」
「そっか。分かった」
表情には出さなかったが、僕は内心ホッとしていた。いつも監視されていたらいつかボロが出てしまうだろう。
「言っとくけど相当頑張らないと再婚なんか無理だからね」
沙耶香は目を鋭くさせて僕を睨む。
「ただでさえ妻と死別して更に子持ちというだけでも再婚が厳しいのに。相手は十歳近くも年下なんだよ? かなり気合い入れて頑張らないと結婚どころか、あっさりフラれるんだから」
「分かったよ。そんなにプレッシャーかけるって」
フラれる心配はない。何せはじめから付き合ってもいないのだから。
そんなことを思いながら蕎麦つゆ作りに意識を戻した。
蕎麦つゆを完成させ、蟹も茹で上がってから璃玖を迎えに行く。
万が一姿を見られたら面倒なので沙耶香は連れて行かず一人で向かう。
璃玖はおじいちゃんにもらったお菓子を食べながら千遙と遊んでいた。
「帰るよ、璃玖」
「えー? 今日はずっとおじいちゃんちであそぶ! ねー、いいでしょ、パパ」
「駄目だよ。ちゃんと帰らないと」
駄々を捏ねる璃玖を無理矢理立たせてジャンパーを着せた。
「別にいいんじゃない? お兄ちゃんもうちで年越ししなよ」
「まあ、来年か、再来年からな」
沙耶香が家にいる間はなるべく家にいてあげたい。それがせめてもの僕のしてやれることだから。
璃玖は渋々おもちゃを片付けて帰り支度を始める
「ねえ、お兄ちゃん?」
「なんだ?」
「カンギョク先生って誰?」
「えっ!?」
予想外の質問に心臓が震えた。
「璃玖の保育所の先生だけど? それがどうしたの?」
「いや……りっくんがたまに言うから」
「そうなんだ」
「かんぎょく先生優しいんだよ!」
璃玖は千遙の脚に絡まりながら説明しはじめる。余計なことを言われたらややこしいので慌てて抱き上げる。
「なんか、一緒にどっか行ったの?」
「甘玉さんと? 行ってないけど?」
素知らぬ振りをしたが、上手く誤魔化せているかは不安だった。
「ふぅん。そっか」
腑には落ちてない様子だが、大して関心もなかったようでそれ以上の追求は避けられた。
保育所で話してはいけないと言っていたが、実家では話すなとは伝えていなかった。きっと璃玖も誰かに話がしたかったのだろう。あまり口止めするのも、申し訳ない気がした。
実家を出ると待ち構えていたように冬の冷たい風が吹きつけてきて、コートの隙間に忍び入ってくる。
寒さに思わず首を竦め、冬の晴天を見上げた。
「かんぎょく先生のこと、ちーちゃんにも話しちゃダメだった?」
璃玖が不安げに僕を見上げていた。
「うーん、そうだなぁ。まだちょっと早かったかな」
甘玉さんと結婚するという嘘で沙耶香を騙すなら、いずれ千遙にも協力してもらわなければならないだろう。
紗耶香が成仏できていないことも、成仏させるために偽装再婚することも、いつかは千遙にも話さなければならない。
「そうだったんだ。ごめんなさい」
璃玖はしょんぼりと視線を足元に落とす。
沙耶香を成仏させるためとはいえ、璃玖まで捲き込んでしまい申し訳ない気持ちになる。
「璃玖は甘玉先生好き?」
「うんっ! 好きっ!」
「そっか」
その『好き』とはどれくらいの、どういった類のものなのだろう?
保育所の先生としての好きなのか、一緒にお出かけして愉しいという好きなのか、それとも新しいママになっても嬉しいというくらいの好きなのか。
「パパは? かんぎょく先生好き?」
なんでもない子供の質問なのに、刃物を突き付けられたような鋭さを覚えてたじろぐ。
「そうだなぁ……ちょっと好きかな」
「ちょっとなの? りっくんはこーんなにこーんなに好きだよ!」
両手一杯で表現してアピールしてくる。
「そっか。璃玖はかんぎょく先生が大好きなんだね」
僕の胸はうるさいほど鼓動していた。
そんな自分が忌々しく思え、モヤモヤとした気持ちを噛み殺そうと必死になっていた。




