芹那さんの過去
「芹那さんが璃玖の母親になってくれたら私も安心して成仏できると思うんです。無茶なお願いだと分かってますけど、お願いしますっ!」
両手を合わせて拝むように頭を下げる紗耶香に芹那さんも困惑した表情を浮かべた。
芹那さんをこの家に呼び、直接紗耶香が姿を現して僕と再婚してもらえるようにお願いする。それが紗耶香の考えた作戦だった。あまりにも直接的すぎて作戦と呼ぶのもおこがましいけれど。
「ちょっ……ちょっと待ってよ、紗耶香」
芹那さんは助けを求めるように僕の顔を見る。
「ほら、芹那さんも困ってるだろ。子犬の里親探しじゃないんだから、いくらなんでも無理だって」
「そんなことない。芹那さんだって宗大のこと、悪くないって言ってたじゃないですか」
「そ、それは紗耶香が『どう思いますか?』って訊いてきたから」
そんな一言の責任を取らされて再婚を要求されるなんて芹那さんも思いもしなかっただろう。
「あの時たまたま仲良くなっていったのが私だったっていうだけで、もしかしたら芹那さんが宗大と親密になった可能性だってあるんですよ。そうなっていたら宗大と結婚していたのは私じゃなくて芹那さんだったんです」
「そんな無茶苦茶な……」
芹那さんは弱った顔をして紗耶香を宥めようとしていた。助けを求めるように僕にも視線をチラチラと向けてくる。
「私じゃなくて芹那さんだったら、宗大だって……妻と死別するなんて辛いこと、経験しなくて済んだのに」
「紗耶香……」
紗耶香は悔しそうに唇を噛んで目を伏せる。
「それは違う。全然違うよ」
答えたのは僕だった。僕の言葉に沙耶香が顔を上げた。
「沙耶香と結婚したことを後悔したことなんて、一度もない。お葬式の時だって、沙耶香と出逢えたことを神様に感謝していた。もちろん辛くて、悲しくて堪らなかった。でも沙耶香と結婚したことを後悔なんてしなかったよ」
「でも結局宗大を苦しめて、今でもこうして心に傷を残したまんまなんだよ」
悲嘆に暮れる沙耶香に首を横に振って答える。
「沙耶香と出逢えたから、僕の人生は華やかに色付いた。幸せの本当の意味を知った。それに璃玖という最高の息子とも出逢えたんだ」
悲しくないといえば嘘になる。
でもそれ以上に得たものの方が多かった。だから僕は後悔なんてしていない。
「宗大……ありがとう」
「僕の方こそ、ありがとう」
たとえ死が僕たちを別とうとも、心はいつまでも繋がっている。
「じゃあ、そういうことで、私は再婚しなくてもいいよね?」
芹那さんは恐る恐る沙耶香に問い掛けた。
「それは駄目! 再婚はお願いします!」
「無理だってば! こんなに今でも愛し合ってる二人を見て再婚なんて出来るわけないでしょ!」
「無茶苦茶なお願いだってことは分かってます。でもこんなことお願いできるの、芹那さんしかいないんです」
尊敬できる先輩に息子と夫を託せれば安心という沙耶香の気持ちも分かる。しかし芹那さんにも芹那さんの人生がある。
「私は一度結婚で失敗してるんだよ?」
「だってそれは元旦那が浮気したからですよね? その点は大丈夫です。宗大は絶対に浮気なんてしませんから」
「そういう問題じゃなくて。私は結婚に向いてないの」
「そんなことないですって。家事も出来て、気遣いも上手で、そのうえ優しくて。これ以上結婚に向いてる人はいませんから」
紗耶香は身振り手振りも交えてアピールする。
もしかすると紗耶香の成仏できない理由の一つに芹那さんが独り身だということも多少含まれているのではないだろうか。そう思わせるくらい紗耶香は必死だった。
「宗大もちょっと頼りないけど夫としては最高ですよ。優しいし、下手くそながら家事も手伝ってくれるし、子供の世話もするいい父親だし。浮気だって絶対にしません!」
「はいはい。のろけ話ね。ごちそうさま」
「茶化さないでください」
沙耶香が顔を赤らめながら怒ると、芹那さんは緩やかに表情を引き締めていった。
「私は必死に『いい奥さん』になろうとしたの。料理も洗濯も掃除も手を抜かなかった。夫の帰りが遅くても寝ないで待って。それが奥さんの務めだって信じて」
芹那さんは過去の結婚生活についてあまり語りたがらない。以前沙耶香がそうぼやいていたのを思い出す。恐らくこの話は沙耶香も聞いたことがなかったのだろう、真剣な顔で耳を傾けていた。
「でもあまりにきっちりしようとし過ぎたんだと思う。そして私も無意識に『いい夫』をあの人に求めすぎた。些細なことなの。たまには洗い物をして欲しいとか、脱いだ靴下は表に返して洗濯機に入れて欲しいとか、たまには二人で出掛けたいとか」
本当に些細なことを芹那さんは並べた。僕もちょっと身に覚えがある内容なので、ちょっと肩を竦めて苦笑いをした。
沙耶香は呆れながらもその辺りは許してくれた。でも芹那さんは許せなかったのだろう。
「それが良くなかったんだと思う。次第に会話もなくなり、擦れ違うことも多くなって。小さなひびはいずれ埋まると思ったけど、逆だった。どんどん大きくなっていって、やがて完全に修復不能になったの」
直接的な原因は元夫の浮気と聞いていたが、それは最後の引き金であって、全てではなかったようだ。少なくとも芹那さんはそう考えている。
「夫婦とはいえ、結局は他人でしょ? 他人と暮らすっていうのは、ある程度妥協したり、許したり、譲り合わなきゃいけないと思うの。でも私はそれが出来なかった。私は結婚には向いていないの」
「それは相性とかもあるんじゃないですか? 宗大とだったらもしかしたら──」
「自分で選んで愛した人に対してですら、それなんだよ? 私には結婚は向いてないの」
芹那さんは沙耶香の言葉を遮り、首を横に振った。
「それに子育てなんてきっと無理。璃玖君は可愛いし、賢い子だとは思うけど。でもきっと私は自分の理想や考えを押し付けちゃうと思う。沙耶香から預かった子供だと思うと、しっかり育てなきゃと肩に力が入って余計に厳しくしちゃうと思うの」
芹那さんは頭を深々と下げて「ごめんなさい」と謝った。
「謝らないでください。無茶なお願いをしてるのはこっちなんですから」
納得いってなさそうな沙耶香に代わり頭を下げる。
それで一応は僕と芹那さんの再婚の話は終わり、昔の思い出話や伝えられなかった言葉を伝え合ったりと話は盛り上がった。とはいえ諦めきれないのか、沙耶香は隙を見ては再婚の話を捻こんできた。そのたびに僕と芹那さんは苦笑いでスルーしていた。
「あーあ。芹那さんが駄目ならどうすればいいのよ」
芹那さんが帰宅したあと、沙耶香が悲観の溜め息を漏らした。
「仕方ないだろ。芹那さんには芹那さんの考えや生き方があるんだから」
「なにその他人事みたいな言い方は。だいたいもっと宗大もぐいぐい押してよね。あんまり時間ないんだよ?」
「分かってるってば」
こうしていつまでも沙耶香に叱られながらもこの時間を過ごしていたい。この幸せな時間がいつまでも続けばいいのに。
そんな僕の希望はグッと胸の中に押し留める。
もう泡はついていない湯飲み茶碗を意味もなく何度もすすぎながら、ブツブツと文句を言う沙耶香の声を微笑みながら聞いていた。




