美顔ローラー
璃玖のお迎えに向かった僕の手には、一口サイズの濃厚チーズケーキの詰め合わせがぶら下がっていた。先日お見舞いに来てくれた甘玉先生へのお礼の品だ。
きちんとお礼を渡さなくてはいけないということも、このチーズケーキが若い女性に人気だということも沙耶香のアドバイスだった。
とはいえ保育所内で渡すことは出来ない。他の保護者や先生に見られたら何ごとかと思われてしまう。
やはり甘玉先生の帰宅時間に待ち伏せするのがいいのだろうか?
学生時代の頃の恋愛みたいなドキドキした気持ちだ。帰る支度を調えながら保育所内に視線を配るが、甘玉先生の姿は見当たらなかった。
「今日は甘玉先生お休み?」
こそっと璃玖に訊ねる。
「今日はもう帰ったよ」
僕に倣って璃玖は耳許でコソコソ話で教えてくれた。お見舞いに来てくれたことは内緒だというのはちゃんと理解して守ってくれてそうだ。
「そっか。なら仕方ないね」
渡しそびれてしまったが何となくホッとしてしまう僕がいた。
しかしそんなことで許してくれる紗耶香ではなかった。家に帰り、璃玖がトイレに行った隙に沙耶香がぬぅっと現れた。
「ちゃんと手土産渡さないと駄目じゃない」
「今日は帰っていなかったんだよ」
「大丈夫。こんなこともあろうかとちゃんと甘玉先生の家は確認しといたから」
呆れ半分、自慢半分の顔で沙耶香がため息交じりでそう言った。
「霊体だからってそういうストーキング行為はよくないよ」
「失礼ね。意気地のない夫のサポートよ。ほら教えてあげるからメモ取って」
適当に理由をつけて先延ばしする僕の性格はすべて見抜かれてしまっている。仕方なく教わった住所へと璃玖を連れて向かった。
意外にも甘玉先生の住むアパートは少し遠いながらも我が家からも歩いて行ける距離にあった。
でもいきなり家に押しかけて迷惑ではないだろうか。そもそも家の場所を知っているというのはおかしい。気味悪がられて警戒されるかもしれない。
「どうしたの? 先生のおうち、行かないの?」
立ち止まった僕を璃玖が不思議そうに見上げる。
「いや、まあ。なんか突然お邪魔したら失礼かなって」
「なんで?」
大人の事情なんて知らない璃玖は小鳥のように首を傾げていたが、不意に僕の背後を指さして大きな声を上げた。
「あ、先生!」
振り返ると買い物袋を下げた甘玉先生がこちらに向かってきていた。ちょうどいいタイミングに来ることが出来たみたいだ。
璃玖は甘玉先生めがけて走って行き、僕は偶然を装いながら「こんばんは」と会釈をする。
「こんにちは。璃玖君元気になってよかったね!」
「うんっ!」
「この間は本当にありがとうございました」
「いえいえ。余計なことをしてむしろお邪魔だったかなって反省していたんです。すいません」
「お邪魔だなんて。助かりました。お粥を作るのも億劫なくらいでしたから」
僕らのやり取りを見ていた璃玖はまどろっこしそうに僕の手からチーズケーキの袋を奪い取った。
「はい、これ! お礼のプレゼント!」
「まあ、これって有名なチーズケーキですよね。ありがとう。でももらえないよ。璃玖君とパパで食べてね」
「いえ。これは先生のために買ってきたんです。ご迷惑じゃなければ受け取ってください」
「私のために?」
「ええ。お見舞いに来てくださったお礼です」
「そんなわざわざ。お気持ちだけで結構ですから」
「いいからいいから!」
璃玖は人にプレゼントをするのが好きだ。無理やり袋を甘玉先生に握らせる。
「そうですか? すいません。ありがとうございます。ありがとうね、璃玖君」
戸惑いながらも受け取った先生は袋を開けて中を確認する。甘くて香ばしい香りがふわっと溢れ、甘玉先生は鼻をスンスンと動かして微笑んだ。
「いい香り。あ、そうだ。璃玖君、一緒に食べようか?」
「いいの!? ありがとう!」
「こら、璃玖。迷惑だから」
「いいんです。どうぞ。家はすぐそこなんです」
「いや、でも」
璃玖は躊躇う僕を無視して先生と手を繋いでアパートへと向かっていく。仕方なく僕もそのあとをついていった。
ワンルームの部屋は、保育所で見る彼女からは想像出来ないほどに女子臭漂う可愛らしいものだった。
写真を貼り付けたコルクボードやスイーツ型のクッション、ピンクのチェック柄のカーテン、部屋に香る仄かなフレグランスと、三十過ぎのおじさんが足を踏み入れるのが申し訳ない女子の聖域感が溢れていた。
「すいません、散らかってまして」
あたふたしながら雑誌やコスメを片付ける姿が失礼ながら可愛らしかった。
「どうぞお構いなく」
「見て、これ! おかしのかたちしたクッション」
「璃玖。散らかしちゃ駄目だよ」
腰を下ろすのも申し訳ない可愛いクッションに座る。あちこち見ると失礼な気がして、視線を璃玖だけに向ける。
「勝手に淹れちゃいましたけどコーヒーでよかったですか?」
トレイにコーヒーとチーズケーキを乗せて甘玉先生が戻ってくる。
「あ、はい。すいません」
「璃玖君はオレンジジュースね」
「ありがとう!」
ご飯前のおやつにしてはちょっとヘビーだけど今日は特別だ。
「美味しい!」
チーズケーキを食べた甘玉先生は目を見開き驚く。大袈裟だなと感じたが、僕も一口食べて同じ顔をしてしまった。
ねっとりと濃厚だけどしつこくなく、口の中で溶けていく。甘さは控え目で、だけど物足りなさは感じない。さすがはスイーツ好きな沙耶香のお薦めということはある。
あっといまに食べてしまうと、璃玖は「あ、これ知ってる!」と言って勝手に棚にしまってあった美顔ローラーを手に取り、頬に当てて転がす。
「こら。駄目だよ、璃玖」
「よく使い方知ってるね」
先生は感心したように微笑む。
「うん。ママも使ってたよ!」
確かそれは雑誌の付録だ。もっとも僕の目には雑誌が付録で美顔ローラーが本体にしか見えなかったけれど。
「そうなんだ。一緒だね」
甘玉先生は慈しみの表情を浮かべて璃玖の頭を撫でた。甘玉先生は時おりこういう優しい目をして璃玖を見詰める。母親を失った璃玖に特別な感情を寄せてくれているのだろうか。
「これってお顔をきれいにするやつなんでしょ?」
「うん、まあ、そうだね」
間違ってはいないけど、端的に言われると気恥ずかしいのだろう。甘玉先生はやや照れくさそうに頷く。
「こんなのしなくてもママも先生もきれいなのにね?」
璃玖は不思議そうに僕を見る。答えづらいことを振らないで欲しい。
「そうだね。でも女の人はもっときれいになりたいってみんな思ってるんだよ」
咳ばらいをしながらフォローになっていないフォローをすると、甘玉先生は更に恥ずかしそうに身を縮めてしまった。
「ふぅん。欲張りなのかな?」
子供の疑問というのはピントがずれているようで意外と本質を突いている時もある。甘玉先生は笑いながら「そうかもね」と頷く。
長居しては迷惑なのでチーズケーキを食べてすぐに帰ることにした。先生よりと遊ぶという璃玖だったが、「今度ゆっくりと遊びに来てね」という甘玉先生の言葉でようやく納得してくれた。
真摯に向き合う姿勢が子供にも通じるのか、甘玉先生の信頼はかなりのものだった。若いのにしっかりした人だと改めて感心する。
家に帰り二人きりの食事をして、お風呂に入り、おもちゃで遊ぶ。空虚に感じていた二人の時間も、最近ではだいぶ慣れてきた。
つけっぱなしのテレビではクリスマスソングが流れていた。今年からはクリスマスも二人きりだ。
「今年のサンタさんのプレゼントはなにがいいの?」
「うーんとね、あれ! お顔をコロコロするやつ!」
「美顔ローラーのこと? なんであんなものが欲しいの?」
「美月ちゃんにあげるの!」
「自分のプレゼントを美月ちゃんにあげるの?」
璃玖らしい発想に笑ってしまう。
「女の子はみんなかわいくなりたいんでしょ? だからあげるの」
「璃玖は優しいね」
抱き上げてあぐらをかいた足の上に座らせ、背後から柔らかく抱きしめた。
「でもプレゼントで相手の気を惹くなんて二流のやり方だよ。やっぱり優しく接したり、素直に気持ちを伝えないと」
「うん」
「それに美顔ローラーは美月ちゃんにはまだ早い。あれは顔をきれいにすると言うより劣化するのを食い止めるっていう役割なんだよ」
「レッカって?」
璃玖は知らない言葉を聞くとなんでも知りたがる。理解できるか分からないけれど僕は必ず説明することにしていた。
「劣化っていうのは時間が経って古くなっていくって意味かな」
璃玖は分かったのか、分からなかったのか、ふぅんと頷いてそれ以上訊いてこなかった。
璃玖を寝かし付けてから残っていた洗い物を始める。
「悪かったわね、劣化してて」
「さ、沙耶香っ!」
うっかりしていた。姿が見えないから失念していたが、会話は全て沙耶香に筒抜けだった。
ぶすっとした顔で睨みつけてくる。もう怨霊になってしまったのか思うくらい険悪な顔だった。
「ごめん。子供には必要ないって意味で言っただけなんだってば」
「ふぅん? あっそ。それで? 甘玉先生にはちゃんとお礼の品は渡せてこられたの?」
「それはもちろんっ! あのチーズケーキ美味しかったって先生も喜んでたよ! さすがは紗耶香のセレクションだね!」
テンションを上げて誤魔化そうとするが、紗耶香の表情は険しいままだった。
「チーズケーキの感想なんてどうでもいいの。ちゃんと親密になれたのか訊いてるの」
「それは特に……なかったかなぁ」
「でも部屋に上がって一緒にケーキ食べたんでしょ? 少しは脈ありなんじゃないの?」
「そんな感じじゃないって」と慌てて否定した。
「あのね、宗大。別に浮気を疑ってるんじゃないんだよ? ちゃんと正直に話してよ」
呆れたように鼻から息を抜いて笑われる。確かに今の言い方じゃ浮気を誤魔化そうとしている夫みたいだった。
順を追って経緯を話す。偶然を装ってプレゼントを渡したことや、会話の内容、乙女的なインテリアまで説明する。
「なるほどね。まあ確かにあの先生だと若すぎるかもね。バツイチの男と結婚して母親になるっていうのは考えづらいよね」
沙耶香は腕組みしてウーンと唸る。
「じゃあさ、試しに芹那さんと会ってみない?」
「芹那さんって、沙耶香の勤めていた会社の先輩の小野寺芹那さん?」
「そう。私の一番信頼している先輩。あの人ならすごくいい人だから私も安心して璃玖や宗大を任せられるし」
「いや、でも」
唐突すぎる提案に面食らってしまった。
確かに沙耶香の信頼する人かも知れないけど、それでいいのだろうか? 僕も何度も会っているが、恋愛関係に発展するような相手には感じなかった。
「大丈夫。私に作戦があるから。ね?」




