彼女が生きた時代から
悪夢に魘され目覚めるとまた全身に汗をかいており、パジャマがぐっしょりと濡れていた。
昔から僕は熱が出るとすぐに汗をかき、悪夢に魘される。
璃玖の方は熱が引いたのか、あまり汗をかいていない。
随分寝た気がしたが、時計を見るとまだ十一時にもなっていなかった。静かに起き上がり、濡れたパジャマを洗濯機に放り込んでジャージに着替える。
「まだだいぶ熱あるの?」
静かに沙耶香が問い掛けてくる。僕はキッチンに移動し、ミネラルウォーターをコップに注ぎながら答える。
「少しはマシになったかな。でも明日は休むよ」
「うん。そうして」
水を飲みながら僕と沙耶香の間に少し空気の隔たりがあるのを感じ取った。
理由は訊かなくとも分かっている。甘玉先生が突然お見舞いに来てくれたことについて、あれこれ訊きたいのだろう。
でも僕だってなぜ突然甘玉先生がお見舞いに来てくれたのか訳が分からなかった。先生にはお世話になっているが、特別こうしてお見舞いに来てもらうほど深い仲でもない。
「さっきの人、璃玖の保育所に最近来た先生でさ……いい人だよな。でもいきなりお見舞いとか来られても驚くよね」
「よかったじゃない」
「え? うん、まあ。助かったけど」
沙耶香の『よかったじゃない』は実にあやふやな言い方で、僕の心に絡み付く。
「少しよくなったからって無理しちゃ駄目だよ。早く寝てね。私はお粥を作ってあげたり洗濯をしてあげたりとか出来ないんだから」
今度は先ほどの言葉よりも沙耶香の感情が感じ取れ、苦笑が溢れた。
早く再婚しろなどととか言っているが、実際に僕が他の女性と仲良くなりそうなところを見ると妬いてしまうのだろう。
「そんなこと僕が出来るからいいよ」
「そう? さっき家に帰ってきたときはぐったりしてて何も出来そうになかったくせに」
今日の沙耶香はかなり刺々しい。普段はなんだかんだ言っても「宗大は頑張ってるよ」と褒めてくれるが、今はそんな気分も湧かないようだ。
「……再婚しろとか言って、本当は沙耶香も嫌なんだろ? 僕が他の女性と仲良くなるのが」
「はあ? なに言ってんの? 私がやきもち妬いてるとか言いたいわけ? そもそもあの若い保育士さんは璃玖が心配で来ただけでしょ? なに舞い上がってるの、馬鹿みたい」
沙耶香の言葉は事実だ。確かに甘玉先生は璃玖を心配して来てくれただけだ。しかし僕が言いたいのはそこではなく、彼女が来たことで沙耶香が気分を害してると言うことだった。
「加西さんの時といい、甘玉先生の時といい、僕が仲良くなりそうになると機嫌悪くしたり、あまりいい相手じゃないとか言ったり」
「はあ? そんなことないから。ただ若くて美人な人ばっかりに鼻の下伸ばしてるから心配してるだけ。再婚相手は璃玖の母親にもなるんだよ? 見た目ばっかりじゃなく、ちょっとは璃玖のことも考えてあげてよね」
探り合いのような空気は消え、感情をぶつけ合う言い争いになる。いつもは簡単に折れて沙耶香に従う僕だが、なんと言われようがこの問題だけは自分の意志を曲げるつもりはない。
「僕は再婚なんてしたくない。沙耶香が好きだから。これからもずっと沙耶香だけが好きだからだ」
沙耶香はぽかんとした顔になり、見る見る顔を赤くしていった。
「そんな話っ……そんな話なんてしてないっ!」
照れているわけではない。本気で怒っているようだった。
「ママ……?」
興奮しすぎた僕たちは声を抑えることを忘れてしまっていた。璃玖が眩しそうに寝ぼけた目を細めながらやって来てしまった。
「ごめん、璃玖。起こしちゃった?」
「いまママの声が聞こえた」
「風邪を引いてるから色んな夢を見るんだよ。パパも風邪を引くとたくさん夢を見るんだ」
冷や汗をかきながら言い訳をする。沙耶香は既に姿を隠していた。
「ううん! 夢じゃないの! 起きてから聞こえたし、それにはっきりとした声だったの!」
何かを感じ取ったのか、璃玖は騙されまいとするかのように必死で訴えてきた。
「じゃあママの声だったのかもしれない」
僕は璃玖を抱き上げ、背中をとんとんと叩く。
「お母さんは天国からいつでも璃玖を見守ってくれているんだよ」
「じゃあ運動会も、発表会も見ててくれたの?」
「もちろん。いま風邪引いてるのも見ているよ。きっと心配してるんじゃないかな?」
璃玖は心配そうに天井を見上げる。
「早く元気になって安心させないとね」
「うん」
「お粥は甘玉先生よりお母さんの方が美味しかったよな」
「うん! りっくんも! 先生のもおいしかったけどママのおかゆの方が好き!」
「だよなー。さあ寝よう。寝ないと風邪は治らないよ」
「わかった」
ベッドに横たえると璃玖はすぐに目を閉じる。しばらくすると可愛い寝息が聞こえてきた。
璃玖が寝たのは沙耶香も分かったはずだ。けれど何も話し掛けては来ない。
僕も身体を横にして寝たふりをする。
けれどその夜はなかなか寝付けなかった。
璃玖の風邪は翌日には治っていたが大事を見て一日僕と共に休み、その翌日からは元気に保育所へと向かった。あの喧嘩以降沙耶香は僕の前に現れることはなかった。
璃玖を保育所に送ったあと、駅近くの公園のベンチに座る。慌ただしい朝の時間だから僕以外は公園には誰もいない。
しばらく朝の喧騒を他人事のように眺めていた。
学校に向かう高校生。
スーツを着て眠そうな目でスマホを弄るサラリーマン。
子供を乗せて保育所に向かう母親。
朝の散歩をする老夫婦。
他人の何でもない日常が、堪らなく羨ましく思えた。
苦しくとも現実は止まることもなく、子育ても止まることはない。受け入れようが、受け入れまいが、現実は続いていく。
生きているだけでどんどん沙耶香と離れていく気がする。
彼女が生きていた時代から、僕はどんどん遠離っていく。
沙耶香が死んだと聞かされたときのことを思い出すといまでも胸が苦しくなる。
でもその悲しさや絶望は次第に鈍化して緩やかなものになっていた。刺々しかった痛みも、角が取れてどんよりと重い痛みに変わってきている。
時が人を癒すというのは、こういうことを言うのだろうか。
でも悲しみが摩耗していき忘れていくこと癒しと呼ぶなら、そんな薄情で残酷な安らぎはいらない。
僕はなるべく克明に紗耶香の死を思い出し、悲しみを鮮明なものに戻そうとした。その瞬間、紗耶香がふわりと現れてバツが悪そうな顔で頭を下げてきた。
「この間は、ごめん。ちょっと言い過ぎた」
「いや。僕の方こそ、感情的になりすぎた」
沙耶香の方から謝ってくるなんて珍しくて、ちょっと笑ってしまった。
「真面目に謝ってるんだから笑わないでよね」と言いつつ沙耶香も笑顔になる。
「宗大の言う通りだよ。私、嫉妬していた。宗大が他の女の人と仲良くするの見て、モヤモヤしちゃってたの。宗大が大好きなのに……なんで他の女の人と再婚させようとしてるんだろうって」
「沙耶香……」
「私が好きだって、これからもずっと私だけが好きだって宗大に言ってもらったとき、嬉しくなっちゃったの。そんな自分が凄く嫌で、悔しくて」
「いいじゃないか、それで。僕が物理的な子育てはする。霊体であっても沙耶香が璃玖の母親としてこれからも暮らしていけば」
沙耶香は諦めを滲ませた笑顔で首を横に振った。
「霊になるとね、いままで見えなかった他の霊もたまに見えることがあるの。黒ずんで、言葉になっていない呻き声を上げている煤のような塊の霊もある」
ちらりと沙耶香が目を向けた辺りに僕も恐る恐る視線を向けた。しかし当たり前だけど僕にはなにも見えない。
「恐らくは未練を残した霊が成仏出来ず、朽ち果てることさえ出来ない姿なんだと思う。今は平気だけどこのまま成仏出来なければ、いずれ私もそうなると思うの」
「そんな……」
「実は私もね、段々意識がなくなる時間が増えてきたの。きっとこういう状態が次第に長くなっていって、最後は燃え滓のような黒く煤けた塊になるんだと思う。それならまだいい。もしかしたら人を祟る怨霊になってしまうかもしれない」
一度言葉を切り、震える目で僕を見詰めてきた。
「お願い、宗大。私を成仏させて」
それが僕に出来る、最後の沙耶香の望みなのだとしたら──
恐る恐る首を縦に振る。その振動で、目に浮かべていた雫が落ちた。
「わかったよ、沙耶香」
愛しているから、他の誰かと再婚しなければならない。そんな残酷なことがあるだろうか。
真綿で絞められるような苦しみを感じながら、僕は沙耶香に誓った。
「それで沙耶香の魂が救われるなら、僕は再婚する」
初冬の澄んだ風が公園の落ち葉をカサカサと散らす。
思えばこのベンチは紗耶香にプロポーズをした場所だ。安い指輪だったけど、紗耶香は秘宝を目にしたように目を輝かせてそれを受け取ってくれた。
「ありがとう。幸せになってね」
プロポーズした時と似た言葉を霊体となった紗耶香が言った。
「なってね」と「してね」。語尾がちょっと違うだけなのに、なんでこんな悲しい言葉に変わるのだろう。




