サクラ咲カズ
翌日の仕事帰り、僕は会社近くの喫茶店に来ていた。
『お話したいことがあります』という加西さんのメッセージに邪な期待を抱いたわけではない。ただ前回はあまりに失礼な態度で席を立ってしまったので、それが謝りたいだけだった。
「急に会いたいだなんて案外情熱的だったんだね、加西さん」
軽口を叩きながら僕の隣の席に座る紗耶香はなんだか嬉しそうだ。
沢山の人で賑わうカフェで紗耶香と話すわけにもいかず、あやふやに首を傾げて答える。そのとき店内に入ってきた加西さんと目が合った。
「すいません、私の方からお呼び出ししたのに遅れてしまいまして」
加西さんは慌てた様子でやって来て正面の席に座る。
「いえ。僕もいま来たところなんで」
時計を見ると十九時を少し回ったところだ。加西さんはジーンズにニットというカジュアルな恰好をしていた。どう見ても仕事帰りのOLには見えない。プロフィールカードには商社(事務)と書かれていたはずだ。それに服装のせいか年齢も二十代半ばに見えた。
「あ、すいません。こんな恰好で」
不躾な僕の視線に気付いたのか、加西さんは申し訳なさそうに首を竦めた。
「いえ……着替えてこられたんですか?」
着替えたから遅れたのだろうか?
しかしわざわざ人と会うために着替える服装には見えなかった。
「ごめんなさいっ!」
加西さんは勢いよく頭を下げた。野暮ったい服で来たことを謝るにしては、あまりにも大仰な態度だった。
「あの、加西さん?」
「私、サクラだったんです」
「え? サクラ?」
本名を偽っていた、というわけではないのだろう。
サクラ。つまりパートナーを探すためにお見合いパーティーに参加していたわけではなく、主催者側に雇われて参加していたということだ。
「本当は結婚なんてする気なんてなかったんです。ごめんなさい」
「はあ、なるほど」
どうりで若くて美人だと思った。そんなことくらいしか頭に浮かばなかった。騙されたとか、腹立たしいとか、そんな感情は微塵も湧かなかった。
「すいません。皆さん真面目に再婚相手を探しているのに」
「そんなことを僕に打ち明けてしまっていいんですか?」
加西さんはばつが悪そうな顔で首を横に振る。
「いいえ。絶対に言っちゃ駄目だって運営会社さんに釘を刺されてます」
「だったらマズいんじゃない?」
「ええ。とても」
元情報工作員のような神妙な面持ちの加西さんがおかしくて、つい笑ってしまった。
「会場でサクラをしていたときから心が痛かったんですけど、藍田さんと喫茶店でお話ししていたら更に心苦しくなって。息子さんの璃玖君の写真を見せて頂いたり、真面目にお話し下さってるのに……そんな心を騙して、踏みにじるような気がして。本当にすいませんでした」
言わなくてもいいことを告白して謝罪するのだから、きっと加西さんは真面目な人なのだろう。
「そんなに気に病まないでください。僕の方こそひどい態度で席を立ったりしてすいません」
「怒って立ち去られた藍田さんを見て、やっぱり上辺だけで接していてもバレるんだなって分かりました。あ、もちろん璃玖君は可愛いって思ったのは本当ですよ!」
「はは。ありがとう」
種明かしを聞いてからあの日の加西さんの言動を思い出すと、合点がいくことも多かった。
妙に空々しかったり、バツイチが好きとかの不自然な設定だったり、愛想がいい割にどこか人と距離を置いたりしたのもサクラなら納得だ。
「バイト代は受け取らないつもりです」
「そうなの? せっかく働いたんだからもらえばいいのに」
「いいえ」と首を振ってコーヒーカップに視線を落としていた。
「もしかしてプロフィールも偽っていたんですか? たしか商社の事務員さんって書いてましたよね?」
「あ、はい。実は劇団に所属してまして女優を目指して舞台に立ってるんです。二十六歳にもなって芽も出ないんで才能なんてないんですけど」
「加西さんみたいな美人でも芽が出ないなんて、なかなか大変な世界なんですね、女優さんって」
思わずそんな言葉が口をついてしまう。加西さんは「美人なんかじゃないですよ」と言って、慌て気味に手を振って否定する。
隣の席からは「んっんーっ」という紗耶香の咳払いが聞こえてきた。怖くて目は向けられなかった。
「今日も稽古があって、終わってから急いできたんです。だからこんなだらしない恰好で。すいません」
「公演が近いんですか?」
「来月なんですけど。一応準ヒロインの役をもらったんで、気合い入れてます」
それからしばらく舞台やお芝居の話で盛り上がった。別人のように活き活きと話をするのを見て、本当に演劇が好きなんだなと感じた。まるで僕が璃玖の話をする時のような饒舌ぶりだ。
「すいません。余計なことを長々と」
「いえ。愉しかったですよ。今度舞台を観させてもらいます。息子と一緒に」
「ええっ!? ほんとですか!? ありがとうございますっ!」
ぺこっと頭を下げ、長い髪がふぁさっと宙に揺れる。大げさすぎる喜び方から見ても観客動員数は多くないのだろう。
劇場の場所や公演日を確認してから店を出た。別れ際にもう一度丁寧に謝られ、なんだか恐縮してしまう。
「そんなに謝らないでください。実は僕もあまり再婚なんて考えずに参加してたんです。だからある意味、加西さんと一緒です」
「そうだったんですね。もしかして周りから再婚した方がいいって言われて参加したって感じですか?」
「まあ、そんなとこかな」
周りではなく元妻本人から勧められたのだが、あいにく死別だと話してしまっているのでそれは割愛した。
「でもカップリングしたのが藍田さんでよかったです」
加西さんは少し照れ笑いを浮かべてそう言った。その微笑に不覚にも一瞬ドキッとしてしまう。
「な、なんで僕を選んでカップルになったんですか?」
ほんの僅か、淡い期待が混じってしまったことは否定しない。
「あ、それは運営会社からリストをもらうんです」
「リスト?」
「はい。参加の方のリストです。私はなるべく初参加の人とカップリングするようにと言われました。最初にいい思いをさせると、その後もリピーターになってくれるそうで。なんか計算高くて嫌な感じですよね」
「そ、そうだね」
「正直、サクラだったって打ち明けたら藍田さんに怒られるんじゃないかって不安だったんです。でも怒るどころか優しく対応していただいて、ありがとうございます。ほんと、藍田さんでよかったです」
「ははは……そんなことで怒るような人間じゃないですよ」
「それでは」と会釈して加西さんが去って行く背中に手を振る。
「いま、ちょっと期待してたでしょ?」
沙耶香がジトーッとした目で僕に問い掛けてくる。
「してないよ」
「どうだか? それにしても騙されていたのに怒りもせず、コーヒー代まで出してやって、しかも演劇のチケットまで買ってやろうって言うんだから宗大は本当にお人好しだね」
非難するわりに沙耶香の声は嬉しそうに弾んでいた。
「怒っても仕方ないだろ。それに夢を追って頑張ってる人って応援したくなるし」
「そういう優しいところにつけこまれて騙されるんだよ? まあ、そこが宗大のいいところなんだろうけど」
「そんなこと言ってくれるのは沙耶香だけだって。やっぱり僕に再婚なんて無理なんじゃない?」
「大丈夫。きっといるよ。もう一人くらいは」
そういうと沙耶香はふわふわと浮きながら駅の方へと向かっていく。
そのもう一人とやらが現れなければいいな。
そんなことを思いながら半透明の妻の背を追っていた。




