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成仏できなかった妻の幽霊が僕に再婚を勧めてきます  作者: 鹿ノ倉いるか


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成仏できなかった妻

 時刻は午後六時五十分。

 保育所終了十分前だった。

 園庭にある正門は当然締まっているので職員通用口から所内に入る。


 終業間近の保育所は必要な蛍光灯以外は全て消されて薄暗かった。非常灯の緑色の灯りに照らされた子供たちの描いた絵がなんだか悲しげに見えてしまう。


(やばいなぁ……璃玖(りく)、寂しがってるかな。もしかして泣いてたりして)


 一人息子のそんな光景を思い浮かべると胸が痛む。

 ずいぶんしっかりしてきたとはいえ、璃玖は最近五歳になったばかりである。

 0歳児クラスから保育所に通っており、今ではあまり保育所に行きたくないとか寂しいとかぐずらない。

 しかしその聞き分けの良さが、かえって無理させているんじゃないかという罪悪感に駈られる時がある。

 シングルファーザーという負い目から、余計そんなことを感じてしまうのかもしれない。


 璃玖は唯一照明が灯った遊戯室で積み木をして遊んでいた。既に他の子供はおらず、璃玖一人が取り残された状況である。そばには二人の保育士さんがいた。


「ごめん、璃玖。遅くなっちゃった」


 呼び掛けると璃玖はくるっと振り返り、無垢な笑顔で微笑んでくれた。


「パパ! おかえりなさい!」


 喜んでいても遊んでいた積木を放り投げて駆け寄ってきたりはしない。ちゃんとそれらを箱に片付け始める。

 亡くなった妻に似て几帳面でまじめな性格だ。保育士さんが微笑みながらそれを手伝ってくれている。

 他に児童もいないので残っていた保育士二人が璃玖と遊んでくれていたようだ。


「すいません。遅くなってしまい」


 帰る用意をしながら頭を下げると見慣れた年配の保育士さんが「いいえー」と人の良さそうな笑みを浮かべて返してくれた。


「はじめまして」


 その隣にいた若い保育士さんが少し緊張したような固い表情で僕の前にやって来る。

 新しく赴任した保育士さんだろうか? 子供たちに名前を覚えてもらうために『かんぎょく』という名札を胸に付けている。珍しい苗字だなと感じた。


「お父さん、はじめまして。今週からお世話になっております、(かん)(ぎょく)麗奈(れな)と申します」

 子供に好かれそうな、優しい声と表情だ。体つきは痩せているが顔の輪郭は丸く、柔和な印象を受ける。


「どうも。はじめまして。藍田(あいだ)璃玖の父です」


 こういう場合の自己紹介は『藍田宗(そう)(だい)』という僕の名前でなく、『藍田璃玖の父』と答えなくてはいけない。シングルファーザーなりたてのことはそんなことも知らず、フルネームを答えてよその保護者に微妙な顔で微笑まれたことが幾度かあった。


「璃玖君は偉いですね。お友達が帰っていっても寂しそうにしないで一人で遊んでました」

「すいません。早く迎えに来られればいいのですが」

「あ、いえ。お仕事ですから。仕方ないですよ」


 よけいなことを言ってしまったと思ったのか、甘玉先生は気まずそうに笑ってから屈んで璃玖の頭を撫でた。


「パパが帰って来てよかったね」

「うんっ!」


 おもちゃを片付け終えた璃玖は僕の脚に絡みつく。平気を装ってるけど、やはり寂しかったのだろう。しがみつかれているのは太ももなのに胸がぎゅっと苦しくなる。


「よし、おいで」


 璃玖の腋に手を入れて抱き上げる。日に日に重くなっていくその体重に幸せを感じた。


「重くなったなぁ」

「むかしはもっと軽かった?」

「ああ、そうだね」


 璃玖は最近よく『むかしは』と訊いてくる。昔もなにも僕からしたら璃玖が生まれたのもついこの前なのだが、璃玖にとって一年前はもう随分昔のことなのだろう。

 先生にお礼を言ってから保育所を後にする。

 運良く近所の保育所に預けられたのは幸運だった。ここからなら自宅マンションまで歩いて数分だ。

 外に出ると璃玖は僕の手を放し、走り出してしまう。


「こら、璃玖! 走っちゃ駄目だよ! 止まって!」


 走って追い掛ける余力がなかった。軽く叱ると璃玖は止まって振り返り、僕の顔を見ながら駆けて戻ってくる。


「危ないから走っちゃ駄目だって言ってるだろ?」

「うん。ごめんなさい」


 朝から晩まで預けられてるのだから、璃玖だって大変だ。大人が仕事終わりに解放された気分になるのと同じなんだろう。

 そう考えれば多少はしゃぐくらい大目に見てやらなくてはいけないのかもしれない。


 一応言うことを聞いて戻ってきた璃玖だが、しばらくするとまた走り出してしまう。

 また叱るのか、それとも追い掛けてきてくれるのか、反応を確かめているのだろうか? などと変に深読みをしてしまう。

 疲れているからといって璃玖を構ってやらないのは、申し訳ない気がした。

 僕はやや小走りになり、息子の小さな背中を追い掛ける。


「はいはい、ストップ」


 走る璃玖を捕まえ、抱き上げて肩車をする。


「キャハハッ!!」


 璃玖は擽ったそうな笑い声を上げ、僕の肩の上で暴れていた。

 鞄を持ったまま肩車をするのは正直しんどいが、一日保育所を頑張った璃玖の為にも弱音は吐けなかった。

 この子には絶対寂しい思いはさせない。母親がいなくたって僕が立派に育て上げる。

 それは僕が僕自身に課した義務だった。


 家に帰っても休む暇などない。食事を作り、璃玖を風呂に入れ、少し遊んでから寝かしつける。

 ようやく璃玖が寝てから起こさないようにそっとリビングに戻った。

 でもまだ『育児』は終わりではない。食器洗いや保育所で必要なものを揃えたりしなくてはならない。子育てに「待った」はないのだ。


「沙耶香は凄いよなぁ……働きながら毎日こんなことをしてたんだから」


 ひと段落ついて缶ビールを開けながら、ローチェストの上にある写真立ての中で微笑む妻にそっと静かな声で話し掛ける。


 妻の沙耶香が亡くなって、もう半年が経つ。交通事故だった。


 仕事帰りで保育所に璃玖を迎えに行く途中、アクセルとブレーキを踏み間違った老人が運転する車にはねられて命を落とした。

 あまりに急な別れだった。結婚をして、子供が生まれて、さあ人生これからという時に、紗耶香は死んでしまったのだ。


「紗耶香……」


 呼びかけた声はサイドボードの上にある亡き妻の遺影に届き、当然反応が返ってくることもなく消えていった。


 僕たちが出逢ったのは居酒屋だった。隣の席に座っていた紗耶香に一目惚れしてしまい、一緒にいた大学時代からの友人が僕に気遣って声をかけてくれたのが始まりだ。

 当然最初は鬱陶しそうにあしらわれたけれど、二人で必死に食い下がっていたらそのうちに態度を軟化させてくれた。そして奇跡的に連絡先を聞き出すことに成功したのだ。


 その細いつながりを時に慎重に、時に大胆に手繰り寄せ、一か月後に何とか交際までこぎつけることが出来た。

 普段の僕からは考えられないくらい、あの時は情熱的で積極的だった。きっと運命だったのだろうと思う。


 一歳年上だった紗耶香は、しっかりとした性格ということもあり、付き合い始めてからはいつも僕をリードしてくれた。

 そんな付き合いが一年間続き、翌年にはプロポーズをした。いくら紗耶香がリードしてくれているとはいえ、プロポーズはもちろん僕からだった。


「最初に宗大に声をかけられた夜、なんとなくこの人と結婚するんじゃないかなって思った」


 結婚式の直前、ウエディングドレスを着た紗耶香はそう言って笑ったその晴れやかな笑顔は未だに僕の脳に焼き付いている。


「なんで僕を置いて行っちゃったんだよ、紗耶香……おじいちゃんおばあちゃんになってもデートしようねって言ってたくせにっ……約束が違うじゃないかっ」


 結婚して、子供が生まれ、幸せの只中にいた。そんな時にまさか死んでしまうなんて、想像もしなかった。

 人はいつか死ぬ。それは知っていた。

 でもそれがこんなに早いなんて、知らなかった。

 嗚咽を漏らしながら空き缶をパキパキッと握り潰す。璃玖の前では泣いてはいけない。弱音を吐いてはいけない。そう振る舞っているからか、夜更けに一人きりになると余計弱気になってしまう。


「仕方ないでしょ。そういう運命だったんだから」


 突然紗耶香の呆れた声が聞こえ、驚いて顔を上げる。


「……えっ?」

「もう半年だよ? いい加減しっかりしてよね」


 目の前には亡くなったはずの紗耶香がホログラム映像のように半透明で立っていた。

 呆れたように怒っていて、それでいて申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべて。


「さやかっ……うそ、紗耶香なのかっ……」


「そうだよ。お久しぶり」と言って紗耶香は気まずそうに笑った。

 僕は幻を見ているのだろうか?

 幻でも夢でも、なんなら幽霊でもいい。紗耶香と会えるなら、それでよかった。慌てて駆け寄って紗耶香を抱きしめる。


「うわっ」


 しかし両手はするっと宙を切り、勢い余って前のめりに転んだ。


「触れるわけないでしょ、霊なんだから」

「れ、霊っ!?」


 はぁとため息をついて呆れた笑みを浮かべる。

 その仕草も表情も間違いなく紗耶香だった。


「宗大がいつまで経ってもメソメソ泣いているから成仏できないの。シャキッとしなさい!」

「ご、ごめんっ」


 喜びと戸惑いで頭がパニックになる。

 この言い方、この声。間違いない。これはどう見ても紗耶香だ。

 霊的存在なんてまるで信じていなかったが、目の前に現れたのだから信じるも信じないもない。

 半年前にこの世を去った妻が、霊となって帰って来てくれたのだ。




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