第六話
店の外に溢れる人々の賑わいの声が、店内の静けさを浮き彫りにさせる。
私はカウンターに座りながら、退屈さに思わず出た欠伸をかみ殺した。
「暇ねー」
この半月、何故かぴたりと客足が途絶えてしまったのだ。
近所に競合店でも出来たのかと思ったが、調べてみても出てこない。
一体何があって人が来なくなったのだろう。首を傾げて考えてみたが、まるで心当たりがなかった。
ヴァージルは特に気にもしていないのか、店の奥でこれ幸いと居眠りしている。
それも仕方ないと思えるぐらいの暇さに、危機感は募るものの解決策は浮かばなかった。
……カラン
久しぶりのドアベルの音にはっとして、期待に満ちた視線を扉に向けた。
「やあ。しばらくぶりだね」
「神父さん! お元気でしたか?」
客ではなかったものの、お世話になっている神父さんの登場に気分が弾む。
彼はおばあちゃんと共に行くあてのない私に親身になってくれた恩人だった。
優しい父のような人柄に、この街で彼を慕うものは多い。
「ああ。特に私は問題がないよ。どうしているかなと気になってね」
「ありがとうございます。……見ての通り最近客足が途絶えちゃって、少し困ってるんです」
「そうか……」
神父さんの表情が暗くなる。顎に手を当てて、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「実はね、良くない話を聞いたんだ」
「え?」
「マール果樹園の奥さんが、ここで貧血の薬草を買ったら体調を崩したって言いふらしているんだよ」
顔も浮かばない人だった。けれどこの町全員の顔を知っている訳ではないので、確かに私の店の商品を購入したかもしれない。
「そんな……。もしそれが本当なら、直接私に言ってくればいいのに」
商品の一部は口に入れる物なので、全く何も起きないという保証はない。
けれどその為に保管や採取には気を配っているつもりだし、本当に商品のせいなら医者代を出すぐらいの誠意を見せるつもりである。
「そうだね。どちらかというと、まるでこの店の評判を貶めようとしているように見えた。
心当たりはないかい?」
神父さんの心配そうな目が私に向けられる。彼は沢山の信徒と交流があるので、この街の出来事についてよく知る人物の一人でもあった。
「あ……地上げ屋が来ました」
神父さんは私の言葉に難しい顔をして、眉間に皺を寄せる。
「農業協会の会長さんにお願いして、マール果樹園の奥さんに一言言ってもらえるように頼んでおくよ。でも、一度広まった噂は中々消えないかもしれない」
ヴァージルがいる為直接的に手が出せない地上げ屋は、今度はこんな手段に出たのか。
「……地道にまた信頼してもらえるように頑張ります」
客足が戻るかどうか、正直に言えば不安である。
噂を信じた人がこれだけ来なくなってしまったのだ。
その上更に地上げ屋に嫌がらせを受けていると広まる事があれば、わざわざ私の店に来る客はいなくなってしまうだろう。
「すまないね。こんな事しか力になってやれなくて」
「いえ。神父さんがいてくれて、心強いです」
神父さんは申し訳なさそうに、落ち込む私の頭を撫でた。
「じゃあ、そろそろ行くね。また来るよ」
「はい。ありがとうございました」
ドアベルを鳴らして、神父さんは店を後にした。
私はまた静かになった店内で椅子に深く沈み込む。
「そういう事だったのね……」
急に人が来なくなった原因は分かった。けれどこんな手段、余りにも卑怯ではないか。
神父さんのお陰で少しは収まりそうだが、このままでは店がつぶれるのが先か、相手が諦めるのが先か分からない。
急に不安が押し寄せて、泣きたくなるような気持ちになる。
この店は私の土台で、無くなってしまえば何処に行けばいいのか分からない。
泣いてしまえばヴァージルに心配をかけてしまう。
どうにか唇を噛み締めて堪えたが、仕事にならない感情が依然として胸に燻り続けた。
「閉店しちゃお」
どうせ誰も来ないのだから。
私は昼間にも関わらず閉店の看板を外に下げ、鍵をかけてしまった。
「今日はもう休みか?」
奥から目が覚めたらしいヴァージルが欠伸をしながらやって来た。
「うん。ちょっとそんな気分じゃなくなっちゃった」
「まー、たまにはいいだろ。……よし、なら酒でも飲もうぜ」
彼なりに元気づけようとしてくれているのかもしれない。いつものヴァージルの笑顔に慰められ、その提案に乗る事にした。
そしてその数時間後、顔を赤らめたすっかり出来上がっている私の姿があった。
「バーナードの馬鹿やろうぅぅ!」
一気にグラスの酒を飲み干して悪態をつけば、泥酔した私を面白そうに眺めつつヴァージルが更に酒を注いだ。
「おー、飲め飲め」
神父さんから聞いた地上げ屋の話を悲愴さを漂わせつつ語っているのに、ヴァージルは平然といつもの余裕の笑みを浮かべるばかりで納得がいかない。
「この店が無くなっても良いっていうの?」
「そういう訳じゃねーよ。まあ、何とかなるさ」
「本当に? ほんと―にそう思ってる?」
「ああ」
既にアルコールは脳を浸し、船に乗っているような感覚だった。
感情があっちこっちに行き来して、とりとめのない事を考えてしまう。
目の前の男は長い足を組んで机に肘をつき、何が面白いのか楽し気にこちらを見ていた。
何で、こんな綺麗な人が私の前に座っているんだろう。
特に手入れもしてないのに、肌に毛穴もないし。
腹が立って私の顔を覗き込むヴァージルの頬に手を伸ばす。
「ん? どうした?」
彼は少し驚いた表情だったが、すぐに私の奇行を受け入れて猫のように目を細めた。
やっぱりすべすべだ。
掌の感触が余りにも気持ちよくて、悔しさを紛らわす為に頬を少し引っ張ってみる。
「あははは、変な顔!」
「おい……」
流石に許してはくれなかったようで、私の手を払う。
けれどそれが唐突に悲しくなって、涙がせり上がってきた。
「泣くなよ……」
ヴァージルはいつになく困った様子で、眉を八の字にして額に手を当てた。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ……」
ああ、駄目だ。悲しみが制御できない。普段は酔ってもこれほど面倒にはならないのに。
気を許したヴァージルの前だからだろうか。
「この店ね、おばあちゃんが私にくれたの」
「そうか」
「身寄りのない私に居場所をくれてね」
「……そうか」
「無くなっちゃうのかなぁ」
「それはさせねぇ」
頼もしい返事に嬉しくなり、涙が止まる。笑顔を向ければヴァージルも安心したのか、いつもの笑みを浮かべた。
「ふふ、ありがと!」
ご機嫌な私はこの感謝を全身で表すべく、ヴァージルに勢いよく抱きついた。
膝の上に乗り、首に腕を回して彼を閉じ込める。人の体温が嬉しくて、彼の肩に顔を埋めた。
「酒くせぇ」
ヴァージルがどんな顔をしているかは見えない。けれど笑っているような声に、不快に思っている訳ではないのだと分かった。
「ヴァージル。ありがとうね。……貴方が居てくれてよかった」
「ん。友達だからな」
ヴァージルの友達が私一人なのを思うと、特別感に浸れて気分が良くなる。
肩から顔を上げ、宝石のように綺麗な緑色の目を覗き込んだ。
「私の友達。平穏が傍らにあって、祝福の声が貴方を導く。
貴方がいつも幸福の中にありますように」
神父さんがよく信者に対して使う言葉を捩り、ヴァージルの幸福を祈願する。
宗教行事の時、親が子に対して贈る言葉でもあった。
ヴァージルは目を瞬かせて、眩しい物を見るような視線を私に向けた。
何と言ったら良いのか分からないような顔。
それを眺めている内に意識は遠くなり……、暗転した。
◆
「寝たのか?」
ヴァージルは自分の膝の上で静かになったカナに、一応声をかけてみた。返事は無い。
脱力した体がずり落ちそうになったので、片手で抱き留めて支えておいた。
娼婦にだってこんな真似を許したことはないが、カナは特別だった。
友達。
それは今までヴァージルの人生に存在しなかったもので、手に入る筈も無かったものである。
ヴァージルを見て怯える目でもなく、媚びる目でもなく、謀る目でもなく、本心から温かい目を向けてくれる。
それがどれだけヴァージルにとって貴重な事だろうか。
友達というのは、何人もいるのが普通らしい。
けれどヴァージルにとってはカナだけで十分で、それ以上増やす気にもならなかった。
「何が違うんだろうなぁ」
全身に纏わりついていた、あの不快な鎖を断ち切ってくれたから?
それは多分、切っ掛けではあっただろう。
けれど長々と傍にいようと思うのは、また別の理由がありそうだった。
しかし元々刹那的な人間であるヴァージルは今が良ければ良いかと、考えるのを放棄する。
カナの体はヴァージルより二回りは小さく、ふとその小ささを堪能したくなり両腕で抱きしめてみた。
薬草の爽やかな香りに彼女自身の香りが混じっている。
もっと嗅いでみたくなり、動物的な仕草で首元に鼻を近づけた。
「あー、落ち着く」
日当たりのいい草原で寝転んでも緊張を緩める事など出来ないのに、こうしてカナを抱きしめていると生まれて初めての穏やかさを手に入れる事が出来た気がした。
欲が目を覚ます。
「ああ……」
ヴァージルが深く息を吐く。部屋の空気が変わった。
足元の影から黒煙が立ち上り、まるで生き物が二人を飲み込もうとしているかのように包み込んでいく。
何も知らず眠り込むカナの頬に手を摺り寄せ、口づけそうな程顔を近づけた。
「食っちまいてぇ」
ヴァージルの声に呼応するかのように黒煙がカナの肌を覆っていく。
まるで、悪魔が魂を奪うかのように。
「ん……」
カナが僅かに身動ぎした。それに怯えるかのように黒煙の動きがぴたりと止まる。
ヴァージルはまるでカナに責められたような気がして、急に気がそがれてしまった。
黒煙を全て足元に跡形もなく消すと、カナの体を横抱きにして持ち上げる。
「部屋、入るぞ」
返事などないのを知りつつも、一応声掛けだけはしておいた。入室し彼女をベッドの上に降ろしてやる。
酒が余程回っているのか、目が覚める気配は全くない。
カナから手が離れれば物足りなさがやってきて、一人で酒を飲みに戻る気が起きなかった。
だからヴァージルは自分の望むままにカナのベッドの上に乗り、再び腕に閉じ込めて自分の目を閉じる事にする。
目覚めたカナが悲鳴を上げるのは、それから数時間後の事だった。




