第五十四話
全てを破壊するような雷の嵐が漸く止んで、シーグフリードは深い息を吐いた。
防御魔術を展開させたものの、あれほどの攻撃魔術を受けて全てを防ぎきれる訳はなく、何度もその身に受けてしまっていた。
これは……暫く休まねばなりませんね。
ザカライアとの戦いで蓄積した疲労と、オズワルドの魔術で受けた損傷。
そのせいで体を動かす度に酷く痛み、剣をまともに振る事が難しいような状態だった。
ここまで追いつめられるのは一体何年ぶりだろうか。少なくとも怨嗟の玉を見つけ出す前にまで遡るだろう。
ヴァージル達を探し出して止めを刺しておきたいところだが、そんな事はいつでも実行出来る。無視しても良い。
カナの前でヴァージルを殺すつもりだったが、これではもう諦めた方が良いかもしれない。
別の手段で絶望を与えればいいだけの話だ。
まずは体を休めて、回復させなければ。
そう思い本部へと戻ろうとしたシーグフリードは、自分に近づいてくる足音を聞いた。
あれほどの重傷を負わせたザカライアである筈がない。
疑問に思いながら足音の方向を見て、向かってくるヴァージルの姿に思わず嘲笑を浮かべて蔑んだ。
「まさか貴方の方から出て来てくれるとは……。諦めたのですか? 愚かですね。もっと早くに決断していただけていれば、優しくしてやったでしょうに」
概ね、手段を出し尽くしてカナの命乞いに来たのだろう。
しかしそんな交渉になど乗るつもりは微塵も無かった。シーグフリードは絶対的な支配者であり、交渉などという同列に扱うような真似をヴァージル相手にしようと思わない。
だから、ただ絶望させてやる為だけに口を開いた。
「ヴァージル。恋人は助けられませんよ。そして貴方自身も」
見ろ。見ろ。私の目を。
子供の様に期待しながらその瞬間を心待ちにする。口元が吊り上がり、歪んだ笑みを作る。
遂にその緑の目が、微かにシーグフリードの目と交わった。それだけで十分だった。
人格を破壊しかねない程の強力な精神魔術を叩き込む。
「操られなさい」
それで、全てが終わる。
ヴァージルを殺せば、あの娘は世界を呪うだろう。そして私は二つ目の怨嗟の玉を手に入れる。
どれだけ優秀な兵士を作り上げたといっても、今の数では国と戦うには足りないのだ。
しかし、これが上手くいけばとうとう私に逆らえる組織は何処にもなくなるに違いない。
そして私は、全ての者が私に絶対服従する国を手に入れる。優秀な民を選び、徹底的に統率し、モンスターなど只の家畜のように屠れるような強力な軍を作り上げてみせる。
「ふふ」
シーグフリードは己の未来に酔いしれ、勝利を確信して笑い声すら漏れた。
ああ、何という愉悦。
しかし、目の前のヴァージルの歩みが止まらない事に違和感を覚える。
精神は既にシーグフリードの手の内にある。命令を出すまで、立ちつくして動かなくなる筈だった。
今まで逃れられた者など、あの人形以外には誰も居ないのだから。
「止まりなさい」
命令を口に出し、精神魔術をヴァージルに展開した。
なのにヴァージルはその足を止める事がない。
おかしい。何かが、決定的におかしい。
焦るシーグフリードに向かって、ヴァージルは人外の速度で駆け出した。手にした剣が勢いよく突き出される。
「何……ッ!?」
何故精神魔術が効かない!?
シーグフリードはヴァージルの突きを慌てて剣で防ごうとしたが、負傷した体に力が入らずに肩を深く斬られてしまう。
「ぐっ……!」
間近でヴァージルの顔がシーグフリードを覗き込む。光のない、人形のような感情の読めない顔だった。
「まさか」
ザカライアの精神を自分の体に引き込んだのか……!?
自分の精神を手放して、あの壊れた精神を自らの体に入れたのだ。ならば今、ザカライアと同じようにヴァージルに精神魔術は効かない。
「愚かな事を!」
そんな事をすれば、二度と元には戻れないだろう。ザカライアと同じく、命令によって動くだけの人形になる。
今ヴァージルは自分の精神が最後に下した命令に従って動いているだけなのだ。
歯噛みする。これ以上なく、シーグフリードにとって厄介な状況になっていた。
精神が崩壊している今、ヴァージルは使い魔を操る事は出来ない。出せたところで獣本来の本能のままに勝手に逃げ出すか、人形のように動かないだけだろう。使い魔の使役は強靭な精神力によってなされる物だからだ。
だから結局、ヴァージルはザカライアと同じように自らの体だけで戦うしかない。けれど、シーグフリードが優位な訳では無かった。
シーグフリードがこんな弱った体でまともに戦う事など、記憶にないぐらい遠い昔の事だったからだ。
ギィンッ! ガキンッ!
ヴァージルの怪力を、オズワルドの雷に打たれた体で受け止める。受け止めきれる筈がなく、シーグフリードは腕、足、脇腹、頬と傷が増えていく。
剣越しに交わった緑の目に再度シーグフリードが精神魔術をかけてみるものの、やはり彼の体の中には何処にも操れる程の精神が残っていないようだった。
女を取り戻したとしても、それでは意味がないだろうに。愚者の選択は全く理解しがたい。
オズワルドに関してもそうだ。あれほど望んでいた自由の身になったのだから、好きに何処にでも逃げればいいものを。
復讐などという無意味な事の為に舞い戻って来るとは。
袈裟切りに振り下ろされた剣をいなそうとしたが、痛んだ肩のせいで逃れきれず胸を斬られてしまう。鮮やかな自分の血が宙を舞った。
足払いで倒され、地面に縫い留めるように向かって来た剣を転がる事でどうにか避ける。
下から突き上げたシーグフリードの剣がヴァージルの頭を狙ったが、ヴァージルは頭を上げて躱した。
今度は強烈な蹴りでヴァージルの体を弾き飛ばす。木が折れる程の衝撃だったが、ヴァージルは直ぐに体制を立て直し、再びシーグフリードに距離を詰めてきた。
呆れるほどの頑丈さ。シーグフリードが作り上げたものだった。
シーグフリードは鍛える事を怠ってきたつもりはなかった。肉体改造も他者以上に自分自身に施して来た。
けれど常に前線で戦い続けて来たヴァージルの身に沁みついた剣は、戦いの勘という部分で後ろで指示を出すだけの立場だったシーグフリードのそれを明らかに上回っていた。
このままでは殺される。
シーグフリードの背中に冷や汗が流れ落ちた。三百年間、すっかり忘れていた死への恐怖が襲い掛かってくる。
目の前で表情を変えずに剣を振るい続ける男が、まるで死神のように見えた。
何処から選択を間違えた?
己に問いかける。刃達と共に戦っていれば、今の状況は無かっただろう。
そんな選択肢さえ、あの時は考えなかった。自分は最奥で常に命令を出す立場だったからだ。自分の奴隷達と並んで共に戦うなど、ありえなかった。
傲慢。臆病。油断。魔天会に君臨していただけでは自覚しえなかった自分自身の弱さに気付かされて歯噛みする。
「く、」
逃げなければ。
それでも、シーグフリードは敗北が己の上にあるとは思っていない。
何故ならばカナという手札がまだある。ヴァージルならばカナを守るように自分に命令しているに違いなかった。
ヴァージルの剣を弾き飛ばし、一目散に岩窟へと駆け出した。




