第四十一話
世界が、二人だけだったら良かった。
そうすればカナは俺だけを見てくれるだろう。
けれど現実はそんな事が出来る訳が無くて、彼女と共にいる為には人と関わるしかない。
いっそカナの記憶を覗かなければ良かった。
そうすれば、何にも気付かないまま傍若無人に振舞えていただろうに。
いつだって、今だって、『そう』したい欲望はヴァージルの中にある。
ああ、もう、その声に負けてしまおうか。
けれどカナが背中に回した手が、ヴァージルを慰めようと撫でてくる。
カナの気持ちが自分にある事を示され、苛立ちが僅かに収まった気がした。
「俺から、離れて行くなよ」
切ないその一言に、返答次第では狂気に落ちるような暗さが滲む。だからカナは安心させるようにヴァージルに向かって笑った。
「行かないよ。ヴァージル」
確かめるようにヴァージルはカナの顔を覗き込んだ。目を細めてよくよく観察し、その傾向が塵ほどもないかを念入りに確かめる。
少しでもその疑いが見つかれば、全てをかなぐり捨ててカナを何処かに閉じ込めてしまうに違いなかった。
カナはヴァージルの精神状態の悪さを痛感し、背中に冷や汗が伝い落ちる。
どうにかしなければと頭を必死で巡らせながら、狂気が滲む彼の目を見返した。
ヴァージルのように感情が分かる訳ではないが、見ればわかる。不安で、飢えている目だった。
それを拭う為に、どうすれば良いのか。答えは多分、愛を伝えればいい。
カナは手を伸ばし、ヴァージルの頭を引き寄せて口づけする。
突然の行為に驚いた彼の目が見えた。
けれどそれは直ぐに瞼が柔らかな唇の感触に惑うように閉じられる。
愛している。
ヴァージルは、求めているものが与えられた事を悟った。
理解し、直ぐに不足を補うかのような勢いでカナの口づけに応え始める。
丹念に口を食み、それの全てがカナに抵抗なく受け入れられていく。
雑音が消える。雑念が消える。
今この時ばかりは、世界に二人しか存在しなかった。
漸く、ヴァージルの心に余裕が戻って来た。
ヴァージルの顔がやがて離れて行き、今度はカナがその顔を覗き込んで首を傾げた。
「落ち着いた?」
「……ああ」
大丈夫。カナの全ては、変わらずに俺の手の中にある。
だから、努力を続けられる。何者にも追われず、堂々と日向で隣を歩ける、そんな男になる為の努力を。
深呼吸をして笑みを張り付ければ、安心したようにカナは微笑んだ。
「ヴァージルの過去が私達を引き裂こうとしても、二人でなら乗り越えられるよ。ヴァージルの事が好きな私を、ちゃんと覚えていて」
どうしてカナは、俺が欲しい言葉が分かるのだろう。カナの心がちゃんと自分に向けられているのを改めて教えられ、不安が薄まっていく。
こんな血生臭い男を信じてくれていると分かるから、ヴァージルはどうにか平静を保つ事が出来ているのだ。
そうでなければ、彼女を使い魔にしようとした時のように、破滅的な行動をする狂人となっていたに違いなかった。
「たとえ私が遠くに連れて行かれたとしても、ヴァージルが迎えに来てくれるでしょう?」
「当たり前だ」
「だから、大丈夫」
カナはそう、何てことないようにヴァージルの不安を一蹴した。ヴァージルの中に巣食う闇が、彼女の笑顔の前に従順に飼いならされていく。
「ヴァージルさんー! 使い魔を消して下さいー!」
聞き覚えのある声が漸くヴァージルの耳に届いた。この前指導したサントスだろう。
顔を上げて使い魔の視界を借り、周囲に人が集まって来ているのを見た。
「使い魔、隠してね」
カナに言われた通りに全ての使い魔を影の中に戻す。視界が開けると、遠巻きにいたサントスをはじめとした騎士達のほっとした顔が見えた。
カナは彼らに向かって申し訳ない表情を作って口を開いた。
「ごめんなさい。少し、寂しくさせ過ぎてしまったみたいです。エミリアーノさんは大丈夫ですか?」
「……はい」
エミリアーノはヘルハウンドから解放され、顔を青ざめさせながら立ち上がっていた。
「良かった。……本当にごめんなさい」
「いえ、僕も言い過ぎました」
ヴァージルに対して怯えるような視線を向けつつ、エミリアーノは謝罪した。当のヴァージルは謝るつもりが無かったが、これ以上痛めつけるつもりもなかった。
「……救護室に行ってきます」
エミリアーノはそう言って逃げるようにその場を去って行く。集まった人達の間に、困惑の空気が漂った。
ヴァージルにどう対応すべきか、迷う視線を互いに交わしている。
その沈黙を破ったのはサントスだった。
「ヴァージルさん。本当にカナさんにベタ惚れですよね」
笑いながら彼が言った事で、少し和やかな雰囲気に変わった。彼はこの騒動を、只の色恋沙汰にしてくれようとしている。
サントスの意図を察した他の騎士も、その会話に乗ってくれた。
「本当に。エミリアーノも馬鹿です。カナさんにあんな提案、絶対拒否されるに決まっているのに」
「ヴァージルさん、安心してください。カナさんに手を出そうとする不届きものは我々が阻止しますので」
使い魔を持つビトもその場にいたようで、同じくヴァージルの肩を持った。
「僕もこの前酔っ払い過ぎてカーバンクルを出してしまって、悪戯された同僚に怒られちゃいました」
笑い合う騎士達の声に安心したのか、集まっていた城の人達が散っていく。
ヴァージルは騎士達の事を驚いたような表情で見ていた。庇ってくれる人がいるとは思っても居なかったのだろう。
カナに強制されて始めた騎士達との交流が、ヴァージルが気付かなかっただけで確実にいい方向へと影響していたのだ。
カナの胸に温かな感情が湧きおこる。何かせずにはいられなくて、彼らに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ。……我々も、ヴァージルさんを必要としていますから」
「何か、罰則とかありますか?」
サントスの視線を受け、ヴァージルはばつの悪い顔をする。
「……悪かった」
素直に謝罪を口にするヴァージルを見て、サントスも内心安堵していた。いつもの彼に戻ったのが分かったからだ。
騎士への指導を通して、ヴァージルが所かまわず暴れるような人では無いのだと知り始めていた。意外にも忍耐強く、実力が足元にも及ばない者達への指導も行ってくれている。
そしてその時間を通して、彼が唯一執着を見せるのがカナに対する事であるのも気づいていた。
その一番の弱点に先に触れてしまったのはエミリアーノの方だった。
エミリアーノに対する暴行以外は、使い魔を出しただけである。
暴行を受けた本人が文句を言わないならば、特に拘束しなければならない法はない。
何よりもこれ以上刺激して二人の邪魔をする方が、後々の被害が拡大するような気がする。
「いえ。エミリアーノさんが許したのであれば、何もありません」
馬には蹴られたくない。細かい事を色々と飲み込み、サントスは二人にそう言った。
騎士達はヴァージルの事を理解し始めていた。




